映画『オッペンハイマー』と、光と、キュビズム
Ⅰ.映画『オッペンハイマー』を観た
「想像していたものと違う」というのが、第一印象だった。内容もだが、それと同時にややこしい構成の方も気になった。
この記事では、映画『オッペンハイマー』に対する、私なりの解釈を書く。
私なりの解釈とは、この映画は光とキュビズムの性質を併せ持ったものであるということ。そして、クリストファー・ノーラン監督が表現したかった「オッペンハイマー」が、そこにはあるということだ。
Ⅰー1.最初の違和感
最初に違和感を覚えたのは、クレジットタイトルを見た時だった。私の見間違えや勘違いでなければ、 “Oppenheimer”というタイトルが3回にも渡って表示されたのだ。
まず、ラストシーンが終わって1回目。俳優や主要スタッフの名前と思われるクレジットが表示されてから2回目。そして、エンドロールが流れ終わってから3回目である。
クレジットタイトルで3度も題名を出すような映画は他に知らない。何かしらの意味があるのではないかと考えた。
構成そのものにも疑問があった。観客を置いてけぼりにするような、一見乱雑とも思える構成がとても引っかかった。
また、物語というものは、起承転結の転の部分に作者の伝えたいテーマを配置するものだ。本作でいうと、オッペンハイマーとストローズの対立に一応のケリがついたあたりになるだろうか。しかし、ここに3時間かけて伝えたかったテーマがあるようには、どうしても思えなかった。もはや、テーマを置くべき場所をあえて空白にしているようにすら感じる。
こんなに重大なモチーフを取り扱った長時間の映画を、ここまで複雑な構成で作っておいて、こんなにふわっとした感じで終わらせるものだろうか? お茶を濁されたような、モヤモヤとした気持ちが湧き上がる。
そうして、疑問と気付きを繰り返すたびに、構成に隠された大きな仕掛けが見えてきた。
Ⅱ.散りばめられた仕掛け
次に気が付いたのが、この映画に散りばめられている映画的な手法だ。
例えば、映画冒頭のリンゴのエピソードだ。オッペンハイマーがリンゴに毒を仕込み、憎んでいる相手を殺そうする。冷静になって、事の重大さに気づいた頃には、思い掛け無い人物がリンゴを齧ろうとしており、あわやといったところで止めに入って、事なきを得る……というもの。
このエピソードは、オッペンハイマーの繊細な性格をただ描写しただけにも思えるが、それだけではない。もっとシンボリックなものなのだ。リンゴとは、ニュートン延いては物理学の象徴だからだ。このエピソードは、主人公が物理学を兵器にし、ナチスを打倒しようとするが、その矛先が思いがけず日本へ向いてしまうということを、比喩的に表現したものなのだ。
そしてリンゴには、もう一つ、シンボルとして有名な側面がある。知恵の樹の実、禁断の果実という側面だ。映画の中盤、リンゴを齧る恩師の姿のカットが唐突に映し出される。これは機密保持に勤めていたつもりが、自身の及ばぬところで禁断の知恵が看破されていることを示唆している。
クリストファー・ノーラン監督は、たった一つのリンゴで、主人公の複雑な心情と境遇を、巧みに表現している。
本作ではこのような仕掛けがあちこちに散りばめられている。3時間という長い尺に、一見するとカットしても問題ないと思えるシーンや描写やセリフが残されているのは、これらの仕掛けを残すためだ。
私が見つけられた仕掛けは次の通りだ。
「ニュートンのリンゴ・禁断の木の実」
「神はサイコロを振らない」
「ピカソのキュビズム」
「アインシュタインの光量子説」
「タイトルクレジットに3回出てきた “Oppenheimer”」
「数式は楽譜のようなもの。その音楽を聴くことが出来るか?」。
注意深く見れば、もっと見つかるかもしれない。
これらの仕掛けから、本作に対する私なりの解釈をまとめていく。
Ⅱー1.神はサイコロを振らない
作中、「神はサイコロを振らない」というセリフがあった。これはアインシュタインの言葉で、量子力学の持つ偶然性や確率性を否定したものだという。
先に取り上げたエピソードで、毒を入れたのが、オレンジではなくリンゴだったのは、その必要性があったからだ。あの毒リンゴのような巧妙な表現をする作家ならば、作中に登場するありとあらゆる小道具、何気ない仕草、セリフに至るまで、一種の掛詞のような仕掛けを仕込んでいてもおかしくはない。
私は、この「神はサイコロを振らない」というセリフに、ノーラン監督からのメッセージが込められていると考えている。一見すると乱雑で、無作為のように見える構成や演出には、明確な意図が込められていると言うメッセージだ。
時折、脚本家は物語世界における創造主・神とも例えられる。脚本を務めたノーラン監督は、アインシュタインの有名な言葉を使って、「私は無作為にモチーフを選んでいるわけでも、エピソードを作っているわけではない」と密かに耳打ちしているのではないだろうか。
Ⅱー2.3つのストーリーと、2つの映画
次の仕掛けの話をする前に、本作の3つのストーリーについて話しておきたい。そのストーリーは次の通りだ。
①オッペンハイマーとマンハッタン計画
②オッペンハイマーの聴聞会
③ストローズの公聴会(モノクロで演出されている)
この3つのストーリーが同時に語られていることで、本作は進行していく。問題は、何故これらのストーリーがバラバラに組み合わさっているかだ。
素直に時系列順で構成すれば、わざわざストローズ視点をモノクロにするなどという手間の掛かる演出をしなくても済んだはずだし、もっと分かりやすくストンと飲み込める映画になったはずだ。だが、ノーラン監督はそれをしなかった。そして、彼はサイコロを振らない。では、どんな意味があるのか? 疑問が頭を巡る。
疑問を解消すべく、まずそれぞれのストーリーが何を主題として取り扱っているのかを考えてみた。
①で主題として取り扱われているのは、原爆の開発。オッペンハイマーが原爆開発に奮闘する姿だ。
②と③では、水爆開発への反対。それによってストローズと対立していく様が主題となっている。
「おや」と首を傾げる羽目になった。奇妙なことに、ストーリーは3つあるのに、主題は2つしかない。
この事から、3つのストーリーが同時進行しているのではなく、2つの映画が同時進行しているのではないかという考えに至った。見かけ上では3つのストーリーがごちゃ混ぜになっているに見えるが、それはそう見えるだけなのではないかと。
この2つの映画を、便宜上、片方を「オッペンハイマーとマンハッタン計画」、もう一方を「オッペンハイマーとストローズの対立」と呼ぶことにする。
また、映画の前半部分は「オッペンハイマーとマンハッタン計画」に、後半は「オッペンハイマーとストローズの対立」に比重が重く配置されている。二つの映画が均等ではなく、偏って散りばめられている。それが余計に混乱を招くのだ。
小説の人称・視点で例えるなら、「オッペンハイマーとマンハッタン計画」は一人称一視点。「オッペンハイマーとストローズの対立」は一人称二視点で書かれていると言えば、理解しやすいだろうか。一人称一視点で書かれた小説と、一人称二視点で書かれた小説を、章ごとにバラバラにしてから組み合わせて、一冊の本にまとめているような形式になっているのだ。
私も劇場で一回見ただけなので確信はないが、「オッペンハイマーとマンハッタン計画」のシーンと、「オッペンハイマーとストローズの対立」のシーンを、それぞれ分けて、映画の進行の順で並べてやれば、セオリー通りの構成がなされた2本の映画が出来上がるのではないかと予想している。機会があったら(無いと思うが)試してみたい。
ここで、このパラグラフの最初の疑問に立ち返ってみよう。
何故これらの映画がバラバラに組み合わさっているのだろうか? 何のためにこんなややこしいことをしたのか? なぜ素直に2本の映画として作らなかったのか?
そもそも、原爆開発の物語と、水爆反対の物語では、テーマが相反するものだ。それを同時進行させたせいで、テーマのブレを感じさせ、モヤっとした終わり方になってしまっている。なぜそんなことをしたのか?
その答えは、アインシュタインとピカソによって示されている。
Ⅱー3.光(Photon)と、キュビズム
本作の中で、アインシュタインの光量子説と、ピカソの絵が登場したことを覚えているだろうか。この二つの仕掛けについて説明していこう。
アインシュタインの光量子説が登場したのは、オッペンハイマーがたった一人の学生を相手に、光について講義を行うシーンだった。確かこんな風だ。
オッペンハイマー「光は波であり、粒子だ」
学生「それは不可能です」
オッペンハイマー「可能なんだ」
光の性質について、浅学ながら説明する。私は物理学の専門家ではないので,そのつもりで読んで欲しい。
物理学者らはかつて、光の正体について永年議論してきた。光は波なのか、それとも粒子なのか。どちらか一方に決め込んでしまうと、どうしても説明しきれない性質が光にはあった。この永年の議論を解決に導いたのが、アインシュタインである。彼は「光の正体とは、波動と粒子、双方の性質を持つ光量子(Photon)である」という光量子説を唱えた。現在ではこれが通説となっている。乱暴に言ってしまえば、「彼方立てれば此方が立たぬ」だと思われていたものを、両方立ててしまったのがアインシュタインという訳だ。
一方で、映画の序盤に、オッペンハイマーがキュビズムで描かれたピカソの絵を眺めるシーンがある。
キュビズムとは、一つのモチーフを多面的な視点から見て、それを一つの絵に押し込むという絵画技法だ。ピカソの代表作の一つである「泣く女」を見ると、それが大変分かりやすい。一人の女性の顔に、横顔と正面から見た顔が押し込められているのである。横顔と正面の顔を同時に描くなど、普通に考えれば不可能だ。しかし、ピカソはそれをやってのけた。誰もが顔であると認知できるように形を保ったまま、この二つを組み合わせることに成功しているのだ。
ここまで繰り返し言ってきたように、クリストファー・ノーラン監督はサイコロを振らない。何気なく登場したモチーフだが、何かしらの意図があって登場させたのだ。では、なぜこれらは映画に登場したのだろうか? その答えは、アインシュタインの光(Photon)とピカソのキュビズムに共通する、とある性質にある。
それは、矛盾するいくつかの性質を一つにまとめたことだ。
Ⅲ.アインシュタインの光(Photon)、ピカソのキュビズム、そしてクリストファー・ノーランのオッペンハイマー
先に述べたように、映画『オッペンハイマー』は二つの映画を一つにまとめる形で制作されている。一つは「オッペンハイマーとマンハッタン計画」、もう一つは「オッペンハイマーとストローズの対立」だ。
「オッペンハイマーとマンハッタン計画」で、主人公は大量破壊兵器の開発を肯定する。
「オッペンハイマーとストローズの対立」で、主人公は大量破壊兵器の開発に反対する。
この二つの映画の主題を一度に並べてみると矛盾しているが、主人公の人生を鑑みれば納得できないことではない。オッペンハイマーの人格は、歪で多面的なのだ。
それは、波ではなく、粒子ではなく、波と粒子の性質を併せ持った光(Photon)のようである。
それは、横顔でありながら、正面から見た顔でもある、複数の視点から描かれたキュビズムのようである。
矛盾するが同一であり、歪で難解だけれど紐解いてみると理解ができる。
この映画は、そんなオッペンハイマーの人格を、2つの映画を壮大にモンタージュするという構成上の技法によって表現しているのである。
二つの映画が歪に組み合わさっているのも、光(Photon)とキュビズムが登場したのも、オッペンハイマーの人格を表現するために必要なことだったのだ。
そう考えると、クレジットに3回出てきた“Oppenheimer”の意味も理解が出来る。原爆開発者としての“Oppenheimer”。水爆開発反対者としての“Oppenheimer”。そしてその双方が歪に合わさっている“Oppenheimer”。この3つのオッペンハイマーが示されていたのだ。
光、キュビズム、オッペンハイマーの人格、そして映画の構成を、全て同じ構造に準えている様は、もはや魔術的ですらある。特に光(Photon)に至っては、物理学者を物理学内のモチーフと重ねるという洒脱ぶりだ。
私個人、今までこんなに壮大な仕掛けがなされた映画を見た事がない。もし似たような趣向の映画を知っている方がいたら是非教えていただきたい。大変興味がある。
Ⅳ.数式は楽譜の様なもの。その音楽を聴くことが出来るか?
この映画は本当のテーマは『核兵器』ではなく、『オッペンハイマーの人間性』だったのだ。ただそれだけを突き詰めて作られた映画なのだ。
そして、この映画の本当の姿に気がついてしまうと、この映画に対する見方がガラリと変わってしまうだろう。それは、丁度、核兵器で変わってしまった世界が、元の世界に戻れないようにだ。
「オッペンハイマーの物語を語るにあたって、私が本当にやってみたかったことは、彼の世界に対する見方や経験に観客を巻き込むことでした」
これは、クリストファー・ノーラン監督がインタビューにて答えた言葉だ。
ノーラン監督は、映画を見ることではなく、映画を読み解くことで、オッペンハイマーと同じ感情を追体験できるように仕込んでいたのではないだろうか。もしそうなら、私はクリストファー・ノーラン監督の技量に惜しみない尊敬と、それ以上の恐怖を抱かなければならなくなる。ここまで巧妙に仕込まれた映画を作るなど、とても空恐ろしいことだ。
「数式は楽譜の様なもの。その音楽を聴くことが出来るか」
これは、作中でアインシュタインがオッペンハイマーに言ったセリフだ。
この映画の本当のテーマに行き着くには、本作を俯瞰的に捉えて、構成に疑問を持ち、整理し直し、要素を汲みとり、考察していかなければ辿り着くことは出来ない。それは丁度、複雑に入り組んだ数式のようだ。数式も、要素を組み替えたり、移動させたり、整理したり、大括弧で括ってまとめたりしなければ答えに辿り着けない。私がここまで巡らせてきた思考は、やや数学的だった様に思う。
私は、ノーラン監督の書いた数式から、正しく音楽を聴けたのだろうか。
最後に
私はこの映画に対して、かなり恣意的な解釈をしていることを否定しない。幽霊や陰謀論のように、そうあって欲しいと思うから、そう見えているだけなのかもしれない。
……。
「かもしれない」というか、バリバリにそんな感じである。最後に謝っておこう。たいへん申し訳ない。えへへ。
また、誤解が無いように一応付け加えておくが、私は映画の仕掛けとクリストファー・ノーラン監督の技量に驚いたのであって、原爆を含めた大量破壊兵器を肯定するつもりは全くない。あんなものはこの世に無いほうがいいし、作られるべきではなかったし、使われるべきではなかった。そして、これからも使われるべきではない。
ただ、こんな感想があってもいいんじゃないかと思って、この記事を書いた次第だ。
初めてブログ、初めてのnote、初めての映画評論(?)ということで、大変ドキドキ致しました。初めてに選ぶには重すぎる映画だったなと、ちょっぴり後悔したりしてます。なんか、自分で書いててややこしかったな。うまくまとまってるか自信がないや。
乱文長文、失礼致しました。最後まで読んで頂いた方、本当にありがとうございました。
それでは、また機会があれば。
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