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学校について

自分が子供の頃から親となって子供が通うというずっとついてまわる「学校」。人生においてはそんなに長い間行くわけではないけど、成長時期という人間形成においてかなり大事な時期の大半をこの「学校」で過ごすことになる。

私は帰国子女ということで日本ではかなりいじめられた時期が長かった。

それもあって自分の子供が学校に通う歳になった時、かなり悩んだ。

「自分の子供がいじめにあったらどうしよう」

「いじめにあって自信がもてなくなったらどうしよう」

過去の経験を思い出しては心配した。「子供にはそんな思いをさせたくない」「他人と比較され、優越をつけられ、周りを見て答えを探るような人に育って欲しくない」。。。これはすべて私自身にあてはまること。

人と違うことを指差され、空想を馬鹿にされ、休み時間にクラスのみんなと遊ばず、一人遊ぶことを「協調性がない」とクラス会の議題にされた。日本語があまり得意でなかったため、自己主張もできなかった。今なら、「休み時間なんだから自分の好きに時間を使って良いのでは?」という反論もできるのに。

廊下で転んだ子を笑っているクラスメイトに「なんで人が転んだのに笑うの?」と真面目に返していた私はクラスメイトにしてみたらかなりうざい子だっただろう。

なんでいじめられているのか(いじめられている自覚も薄かった)わからない鈍い女の子だった。状況を言語化することも難しく、親や周囲に相談する人もいなかった。休み時間に鞄を破られ、それを直そうとしゃがんだところ、男子の集団に蹴られたこともある。それを見てたクラスの子が担任の先生に報告し、クラスの前でその男子たちが先生に怒られた。あとから「告げ口をしたな」と言いがかりをつけられ、いじめが悪化した。そんな閉塞的な毎日だったが何故か学校を行くのをやめなかった。なんか負けたくなかった、そんな状況に。単純なやつだ。でも「よくがんばった」とあの頃の自分に言ってあげたい。

自分の話に熱が入ってしまった。子供の学校の話に戻そう。

子供の学校を考えた時、とにかく私が体験したことは子供には体験して欲しくなかった。そんな体験は呪縛となって人を小さく小さく萎縮させていくのだから。

呪縛はなくてもよいのなら、ない世界で子供には育ってほしいと思い、二人は小学校一年生から高校卒業までオルタナティブスクールに通った(二人目はまだ在学中だが)。そこも合わないなら学校に行かない選択肢もある。学校は無理してまで行くところだと私は思わない。

オルタナティブスクールが子供達にとってはたしてよかったのか、すぐにはわからない。きっとオルタナティブスクールに行ったがための弊害もきっとあるはず。なんでもそうだろう。選んだものと選ばなかったものにはそれぞれの影響がそれぞれのかたちで湖に投げた小石のように波紋が広がっていく。

また違う形の呪縛があるのであろう。

でも一つだけ願うこととしてはどんな呪縛であれ、自分から自分を解放しようとするベクトルと熱量が備わっていたらうれしい。

結局はそれが全てかもしれない。希望と熱量があればきっと羽ばたけるだろう。



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