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大阪ホテルと住友の人々


"その日、大阪ホテルの廊下と大食堂には数多の菊花の盆栽が、時を得処を得て、清香を放つてゐた。
友純の挨拶によって饗宴は始まり、宴酣になつて、松方正義は祝賀の詞を述べ、次いで川田小一郎が立つて、謝辞に代へると前置をして昔譚に入つた。"

住友春翠編纂委員会 .『住友春翠 本編』,1955,284p


財閥の中で最も長く古い歴史を持つ住友家。
尾道会議を経て、住友が銅山経営から銀行業へと重点を移す節目となる年−−冒頭で引用したのはその年開かれた住友銀行開業祝賀会の様子を伝えたものです。
住友銀行初代支配人・田辺貞吉による第一披露会が三度開催された後、行主である住友吉左衛門友純(以下「住友友純」「友純」と呼称する)主催の第二披露会会場に選ばれたのは大阪ホテルでした。

今回のnoteは少し前、X-旧Twitterのフォロワーさんが田辺貞吉邸に宛てたエンタイヤ(実逓便)を紹介されていた事がきっかけとなり、銀行と大阪ホテルの関係に焦点を絞って調べた事の記録です。

これまでに纏めたホテルの歴史や資料も良ければ併せてご覧ください。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

◆住友銀行開業第二披露会

『住友銀行八十年史』によると、この祝賀会が開かれたのは明治28(1895)年10月28日。(*1)
内閣総理大臣職を二度務めた松方正義、日本銀行総裁・川田小一郎をはじめ、大阪の官界、財界、金融界を代表する約270名もの有力者が集う煌びやかな宴であったようです。

この宴で川田小一郎が述べたのは、かつて別子銅山の接収を巡り、初代住友総理人の広瀬宰平と論争を繰り広げた時分の思い出話でした。
明治維新の折、別子銅山は新政府の追求により土佐藩に差し押さえられます。ところが広瀬が語った住友、そして国益に対する想いが接収に訪れた川田の心を大きく動かしました。両名の出願によって住友家の銅山経営は守られます。
銀行開業の祝宴にふさわしい昔話に呼応するよう、広瀬も答辞を述べて、和やかな空気のまま宴は夜の十時頃まで続きました。

"大阪ホテル西店"として中之島に純洋風のホテル建築が竣工するのは明治29(1896)年5月。祝賀会が開かれたのはまだ前身である自由亭ホテル時代の建物が建っていた頃になります。
前年明治28(1895)年1月に日本旅館部・洗心館を改築して"大阪ホテル東店"として営業を開始していたため、この頃既に東西どちらの建物も大阪ホテルと呼ばれていたようです。(*2)

大阪ホテル(西店にあたる洋館部) 外観



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◆住友吉左衛門友純とホテル


明治28(1895)年11月1日、万全の体制を整えた住友銀行は一斉に営業を開始します。銀行開業以降もホテルと住友家の関係は続き、創設者・住友友純は年中行事や社内行事の会場として頻繁に大阪ホテルを利用していました。

下記は友純の三男・住友友成らが纏めた『住友春翠』で紹介されている行事の一部です。
(伝記タイトルの「春翠」は友純が生涯使用していた雅号)

【大阪ホテルが会場となった行事】
◎住友の新年会(毎年1月5日)
◎紳士招待会(不定期、彼岸の頃か冬)
◎家長誕辰祝賀宴/誕辰祝宴
  (友純の旧暦誕生日後の春)
◎退職送別宴
  (総理事・伊庭貞剛、理事・河上謹一、同田辺貞吉)
◎住友家店員凱旋祝賀会
◎住友家叙勲祝の宴 

毎年恒例の年中行事となったものや、住友に大きく貢献した重役の送別、これ以外にも外国の賓客をもてなす晩餐会などに使われていた記録が残っています。
少しだけ、宴の内容も掘り下げてみましょう。

・紳士招待会

明治末期から大正期にかけての十数年間、友純は大阪における官民の主となる顔ぶれ200名程を大阪ホテルに招き、盛大な晩餐会を開いていました。
明治36(1903)年に始まったこれは”住友の紳士招待会”と呼ばれ、招待された者はこの年の紳士としてランクされる事になります。
この晩餐会のために燕尾服を新調する人がいた事から、燕尾服を"住友服"と呼んでいた時期もあったようです。それだけ、紳士招待会に呼ばれるかどうかは大阪の人々の中で大きな関心事でした。

同様に、神戸付近に在住していた外国人との合同招待会も開かれていました。こちらの会場には神戸のオリエンタルホテルが選ばれています。

明治末期『紳士の服装』より 

・誕辰祝宴

これは当初鰻谷本邸で行われていた友純の生誕祭です。実際の誕生日は1月18日(旧暦の12月21日)ですが、大阪ホテルを会場としてからの祝宴は、殆どが春になってから開かれていました。徐々に銀行の支店や従業員も増え、大正末期の出席者は約350名。家長の生誕祭は住友家及び住友銀行に関わる人々にとっても一大イベントでした。

一度だけ大阪市中央公会堂が会場になった年があります。
婿養子・忠輝を病で失い、町の変化や喧騒に耐え兼ねて茶臼山本邸を離れる準備を進めていた(*3)友純は、大正13(1924)年秋に慣れ親しんだ大阪ホテルをも火災で失いました。

翌大正14(1925)年4月21日に開かれたのは還暦を迎えた友純の誕辰祝宴。世情に鑑みて燕尾服を廃し、それまでより質素で参加者の敷居を低くしたものでした。
これが中央公会堂で開かれた最初で最後の宴であり、住友吉左衛門友純にとっても最後の誕辰祝宴となりました。

・ホテルのボーイ

宴の他にこんな逸話が残っています。
大阪ホテルに勤めていた西山という14歳の若いボーイが、天王寺公園でホテルの出張店を手伝っていた時の事です。

"天王寺公園の博覧會會場の広場に大阪ホテルが天幕張の喫茶店を作り、西山が其処に手伝つていた夏のある日、博覧會を見た春翠が偶ここに憩うた。
前にサイダーを運んだ西山の態度に眼をとめた春翠は、まもなくホテルに申入れ、西山は九月に須磨別邸へ給仕として雇入れられて、春翠等の食事の世話などをすることになつた。"

住友春翠編纂委員会. 『住友春翠 本編』,1955,530p

友純は時折、須磨別邸で開く食事会のためにオリエンタルホテルや大阪ホテルなどから料理人を呼んでいました。
気に入ったボーイを雇ってしまう程ですから、ホテルのサービスにも大きな信頼を寄せていたのかもしれません。

住友須磨別邸
(現存せず,門柱のみ保存)
食堂


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◆田辺貞吉とホテル

もう一人、ホテルと関わりが深かったのが今回調べるきっかけとなった田辺貞吉
東京師範学校長を辞したのち、明治14(1881)年に住友へ入社し、住友銀行本店支配人となります。共同火災保険や京阪電気鉄道の社長、甲南学園の理事長の他、多くの会社で重役を歴任しました。
大阪ホテルもそのうちの一つです。

・ホテルの再建

先述した通り、明治29(1896)年に「大阪ホテル西店」として純洋風の建物が竣工。明治32(1899)年には外山修三ら銀行関係者によって組織された「大阪倶楽部ホテル」となります。

『株式会社大阪倶楽部ホテル 営業広告』より


ところがこの建物は失火により全焼。再建にあたり中心となって動いたのが、井上保次郎、藤本淸兵衛、田辺貞吉をはじめとした有志一同でした。
明治36(1903)年、五大ホテル同盟にも名を連ねた大阪ホテルの建物が竣工。
3年後、この時社長に就任していた田辺によって一度大阪市に売却されたホテルは、大塚卯三郎の経営へと引き継がれていく事になります。

再建後の大阪ホテル 絵葉書


・退職送別宴

明治37(1904)年、住友総理事・伊庭貞剛が退職するのと同時に理事・河上謹一、そして同じく理事を務めていた田辺貞吉も引退します。
彼らの合同送別会会場は勿論大阪ホテル。建物こそ変わっていましたが、開業時と同じ場所での開催となりました。
3人の同時引退は、伊庭の『老人は少壮者の邪魔をしないようにするといふことが一番必要だ』という言葉を受けたもの。連帯感を持っていた他の2人がこれに従ったと考えられています。
まだ54歳だった伊庭は琵琶湖の近くに邸宅を建設し隠居しました。この建築群は住友活機園として年に一度一般公開されています。

近江石山伊庭邸(住友活機園として現存)

・紳士招待会の出来事

のちに住友総本社の常務理事となる川田順の『住友囘想記 続』(中央公論社)にはこんな話が残されていました。
川田がまだ入社して間も無い時分、大阪ホテルで開催された紳士招待会の受付係を命じられた時の事です。

"定刻ようやく近づき、緊張していると、背の低い、やせこけた、色の黒い老人が、それでも燕尾服を着こんで、受付に来ては差し出口をいい、席札をああしろの、こうしろのという。てっきりボーイ長にちがいなしと睨んで
「うるさいよ。ここは僕らで固めているんだ。食堂へ引っ込んで、ボーイの見張でもしていたまえ」と私はきめ付けた。老人は黙って引っ込んだ。"

川田順.『住友囘想記 続』,中央公論社,1953,72p

そのボーイ長のような老人こそが田辺貞吉でした。川田の住友入社が明治40(1907)年、すでに田辺が理事を引退した後の事で面識が無かったのです。
受付係達は肝を冷やしてクビを覚悟しますが、この話はこう続きます。

幸いに馘にされなかったのみならず、後日田邊主催の謡会に招かれ、又稀には拙宅にも来てくれた。

川田順.『住友囘想記 続』,中央公論社,1953,73p

このエピソードの書かれた章は他の住友重役との話と併せて”寛容”という題が付けられていますが、これはそのまま田辺貞吉の人柄を表していたのではないかと思われます。

彼に対する他の評を探すと、
『別に大議論を吐くにもあらず、大計画を営むにあらず、大経論を示すにあらざれども、その天性特得の調和性をもって群才の中に立ち…(中略)…
住友家政治を円満滑脱たらしめた』とありました。

高みを目指す訳ではなく調和を大事にする、寛容な田辺の気質は組織に無くてはならないものだったと窺えます。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇ ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

冒頭で触れた田辺邸宛ての絵葉書とはハガキモノの先輩であるヲガクズさんが紹介されていたもので、明治42(1909)年の消印が押されていました。

田辺貞吉と紳士招待会の話を踏まえると、引退後もホテルには顔を出していた事になります。ヲガクズさんのツイートにある通り、"壮吉様の結婚祝賀会"が大阪ホテルで開かれていたとしても不思議な事ではありません。
この”壮吉”は田辺貞吉の養子・田辺壮吉の事と考えられ、葉書自体は田辺邸の小西という人物に宛てたものだと教えて頂きました。

田辺貞吉邸(移築再生され現存)

現時点でこの小西姓の人物の正体は不明のままです。ただ同じく田辺家の養子となり、大阪商船や日本汽船で活躍した田辺貞造の旧姓が小西である事が分かっています。

どうしてこの絵葉書が気になったかと言うと、同じ写真を使用した未使用の葉書を一枚持っていたからです。発行された年と差し出された年が必ずしも近い訳ではありませんが、ヲガクズさんの絵葉書を見るまでは年代不明でした。

エンタイヤ(実逓便)は時にその時代を生きた人や場所の手掛かりとなるものをそっと教えてくれます。これまでに紹介した宴の参加者の中にはこの部屋で球撞きに興じた人もいたかもしれません。

大阪ホテル-撞球室と食堂-絵葉書
(筆者所有)

-おわりに-

中之島のホテル焼失後、住友はのちに経営の中枢を担う事になる新大阪ホテル建設計画への出資を何度か断っています。
大きな理由は2つ。
高速道路ができるなら観光の要となる京都への移動や宿泊も容易くなるため、大阪に新しいホテルは不要である事。
そして大阪におけるホテルへの責任はもう果たした、という事でした。

住友合資会社の湯川寛吉はこのように語っています。

"…大阪ホテルの株式を相当所有して、長年一銭の配当も受けることなく過ぎてきたが、大正十三年十一月、大阪ホテルが全焼したから元も子もすっかりなくなってしまった。現在、今橋ホテルが大阪ホテルと改称されて営業している。
それだけあればいいと思います。それで勘弁してもらいたい。"

犬丸徹三.『ホテルと共に七十年』,展望社,1964,210p

都市の迎賓館となるホテルが花めくよう支援してきた事も、教育や文化に深い関心があった住友家が行った社会活動のひとつだったのでしょうか。
府民のために美しい図書館の設置を望んだ住友友純、その実現に向けて奔走した田辺貞吉、そして野口孫一や日高胖をはじめ住友建築部の思いは今も中之島で息づいています。

大阪ホテルと住友人との並々ならぬ関係がちらりと垣間見えた瞬間でした。

薔薇の香る土佐堀川沿い
旧住友ビルディング

-今回の記事作成にあたり、快く資料引用の許可を下さったヲガクズさんに心より御礼申し上げます。-


(本文:りせん、編集:ryugamori)

≪注釈≫

*1.住友友純の伝記「住友春翠」では12月となっているが、他年表で開業に先立つ10月に開催された事が明記されているためこちらを正とする。

*2.明治末期は改称が繰り返され、洋館部は"大阪ホテル"、"大阪ホテル西店"など書き手によって呼び方が統一されていない。

*3.大阪市が美術館建設のために土地を探していた事も、社会活動に関心が高かった友純が茶臼山の土地を寄付する決め手となったとも考えられている。

【参考文献】

仁寿生命保険.『仁寿社報(90)』,1920
日高胖.『野口孫一博士建築図集』,1920
福原菊治.『紳士の服装』,関根商会高等洋服店,1911
住友銀行.『住友銀行三十年史』,1926
住友春翠編纂委員会 .『住友春翠 本編』,1955
住友銀行行史編纂委員会 .『住友銀行八十年史』,1973
住友資料館.『住友資料館報(18)』,1988
和木康光.『あかがねの命脈:住友物語』,中部経済新聞社,1967
栂井義雄.『小倉正恒伝・古田俊之助伝(日本財界人物伝全集;第10巻)』,東洋書館,1954
川田順.『住友回想記 』,中央公論社,1951
川田順.『続住友回想記 』,中央公論社,1953
村岡実.『日本のホテル小史(中公新書)』,中央公論社,1981
犬丸徹三.『ホテルと共に七十年』,展望社,1964
大川三雄.『明治・大正昭和戦前期における和風大邸宅の変容と展開に関する史的研究:近代和風建築史確立のための基礎的研究』,2000


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