アオサを摘みながら
徳之島から沖永良部島へ向かう予定だった船が欠航し、ポッカリと予定が空いてしまった、ある日の午後。雨上がりの浜でアオサ海苔を摘むことにした。
早春の海岸に降り立つと、潮の引いた岩場は一面緑色のアオサに覆われ、苔がむしたように見える。緑の浜辺でアオサ摘みに励む人々の姿は、奄美の春を感じさせる風物詩だ。
潮溜まりの淵にしゃがみ、水中で揺れるアオサに狙いを定め、一株ずつ手で引き抜いていく。海水に浸したザルの中で、砂や細かなゴミを洗い落とす。太陽に照らされて温まった潮の香りと、海藻の柔らかな手触りを楽しみながら、ふと「アオサをとりに行こうよ」と誘う島唄「むちゃ加那節」の一節が思い浮かぶ。
島唄にもなり語り継がれる「むちゃ加那」は喜界島で生まれた美しい娘。島の女たちに美しさを妬まれ、アオサ摘みに誘われた先で、海に突き落とされてしまう。その死を知った母「うらとみ」もまた、娘の後を追って自害した。観光パンフレットなどには、そのように書いてある。
しかし私は、むちゃ加那の悲劇に疑問を感じていた。島の人たちはいつも、潮の引いた浅瀬でアオサを摘んでいたから。そんな場所で、後ろから押されて水に落ちたとしても、たいしたことにはならないんじゃないか…と。
ある時、喜界島の人と話していて謎が解けた。彼は曲名を聞いただけで「あ?むちゃ加那ね」と顔をしかめ、「アオサ摘みに行って、こうでしょ」と、頭を掴んで押さえつける仕草をして見せたのだ。彼はそれ以上を語らなかったが、何が起こったのかを察するには十分だった。
そのことを思い出し、アオサを摘みながらこの上ない長閑さに包まれていた私は、はるか昔の海辺で起きた出来事の暗さに目眩を覚える。島に降り注ぐ真夏の光と影にも似た、強烈なコントラストに戸惑いながら、「この陰影こそが奄美なのだ」とも感じていた。
(2019年2月13日『南海日日新聞』掲載)
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