プーちゃん、おばあちゃんのところにいて。
私が家事などで手が放せないときや市場へいくとき、娘プーちゃんは一人で動画を見ていることが多くなった。
そんなとき、「おばあちゃんのいるところで見てくれる?」とよく頼む。
「おばあちゃんは、プーちゃんが目の見えるところにいるだけで嬉しいんだよ」と。
実際、プーちゃんがそばにきても、姑は最初の数分だけプーちゃんにかまう以外は、ラジオを聞いたり横になったりして過ごしている。
でも、プーちゃんがいるのといないのとでは大違いなんである。
プーちゃん効果、おそるべし。
ここまでは私の想定内だった。
しかし、これを続けるうちに違う効果もあることがわかってきた。
姑だけでなくプーちゃんも心が安定することだ。
おばあちゃんのところへ行かないとき、プーちゃんは寝室にこもってグフグフと動画を見ている。
だけど、突然「ママー!」と声を上げて私を探すことがある。地震の後、私がそばにいないことを極端に恐れるようになったからだ。別に用事はない。ただ、いるかどうかを確認するだけだ。
姑も同じで「みどりー」とか「プットリー」とか、用もないのに呼ぶ。こちらは地震のトラウマというより認知症の初期症状で不安感・孤独感が大きくなっているからだろう。
*
ところが、そんなふうに呼ばれることがなくなった。
だって、2人で一緒にいるんだもん。
私がいなくても大丈夫なのだ。
おばあちゃんとプーちゃんは一緒にいるけど、それぞれ一人で何かを楽しんでいる。おばあちゃんはラジオ、プーちゃんはYouTubeだ。
が、ふと顔をあげた視線の先に心許せる家族がいる。
「あ、(おばあちゃんが/プーちゃんが)いる…」
こんなこといちいち声に出したりはしないだろう。
意識的に認識することもないかもしれない。
それでも、愛する人と一緒にいる安心感は大きい。
なるほど…。
*
私は、前々から子どもたちが遊びにくるのに別々の動画を見ていて、あれは何をしているんだと思っていた。
「せっかく来てくれてるのに一緒に遊びなよ、失礼じゃないの」とも思っていた。
でも、姑とプーちゃんの様子を見てわかった。
二人で同じことをしなくても、二人は二人でいる幸せを感じられるのだと。
例えば私も今、パソコンに向かってこの記事を入力しているが、その向こうにはプーちゃんがいる。
何の動画を見ているのかは知らないが、ときどき笑い声が聞こえる。
プーちゃんにも私がキーボードをたたく音が聞こえているだろう。
ただの気配でさえも、実はお互いの心を安らげている。
ははーん、そういうものなんだなぁ。
おばあちゃんと一緒にいてくれてありがとう、プーちゃん。
プーちゃんと一緒にいてくれてありがとう、おばあちゃん。
お互いの心に安らぎを与えてくれて、助かってるよ。
サポートはとってもありがたいです(ㅅ⁎ᵕᴗᵕ⁎) 2023年年末に家族で一時帰国をしようと考えています。2018年のロンボク地震以来、実に5年ぶり。日本の家族と再会するための旅の費用に充てさせていただきます。