プーちゃん、おばあちゃんのところにいて。

私が家事などで手が放せないときや市場へいくとき、娘プーちゃんは一人で動画を見ていることが多くなった。

そんなとき、「おばあちゃんのいるところで見てくれる?」とよく頼む。

「おばあちゃんは、プーちゃんが目の見えるところにいるだけで嬉しいんだよ」と。

実際、プーちゃんがそばにきても、姑は最初の数分だけプーちゃんにかまう以外は、ラジオを聞いたり横になったりして過ごしている。

でも、プーちゃんがいるのといないのとでは大違いなんである。

プーちゃん効果、おそるべし。

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ここまでは私の想定内だった。

しかし、これを続けるうちに違う効果もあることがわかってきた。

姑だけでなくプーちゃんも心が安定することだ。

おばあちゃんのところへ行かないとき、プーちゃんは寝室にこもってグフグフと動画を見ている。

だけど、突然「ママー!」と声を上げて私を探すことがある。地震の後、私がそばにいないことを極端に恐れるようになったからだ。別に用事はない。ただ、いるかどうかを確認するだけだ。

姑も同じで「みどりー」とか「プットリー」とか、用もないのに呼ぶ。こちらは地震のトラウマというより認知症の初期症状で不安感・孤独感が大きくなっているからだろう。

ところが、そんなふうに呼ばれることがなくなった。
だって、2人で一緒にいるんだもん。
私がいなくても大丈夫なのだ。

おばあちゃんとプーちゃんは一緒にいるけど、それぞれ一人で何かを楽しんでいる。おばあちゃんはラジオ、プーちゃんはYouTubeだ。

が、ふと顔をあげた視線の先に心許せる家族がいる。

「あ、(おばあちゃんが/プーちゃんが)いる…」

こんなこといちいち声に出したりはしないだろう。
意識的に認識することもないかもしれない。

それでも、愛する人と一緒にいる安心感は大きい。

なるほど…。

私は、前々から子どもたちが遊びにくるのに別々の動画を見ていて、あれは何をしているんだと思っていた。

「せっかく来てくれてるのに一緒に遊びなよ、失礼じゃないの」とも思っていた。

でも、姑とプーちゃんの様子を見てわかった。

二人で同じことをしなくても、二人は二人でいる幸せを感じられるのだと。

例えば私も今、パソコンに向かってこの記事を入力しているが、その向こうにはプーちゃんがいる。

何の動画を見ているのかは知らないが、ときどき笑い声が聞こえる。

プーちゃんにも私がキーボードをたたく音が聞こえているだろう。

ただの気配でさえも、実はお互いの心を安らげている。

ははーん、そういうものなんだなぁ。

おばあちゃんと一緒にいてくれてありがとう、プーちゃん。
プーちゃんと一緒にいてくれてありがとう、おばあちゃん。

お互いの心に安らぎを与えてくれて、助かってるよ。


サポートはとってもありがたいです(ㅅ⁎ᵕᴗᵕ⁎) 2023年年末に家族で一時帰国をしようと考えています。2018年のロンボク地震以来、実に5年ぶり。日本の家族と再会するための旅の費用に充てさせていただきます。