漫画系二次創作オンリー絵師さんの不思議

漫画系二次創作オンリーの絵師さんの活動というものをかねがね不思議に思ってる。
二次創作オンリーが悪いと言ってるのではないですよ。

二次創作オンリーの場合、原作が好きで絵の道に入るわけですよね。
元々絵が好きだったにしても、物量的に大量に描き始めるのは原作への愛からではないかと思う。
でどれだけ愛を叫んでも二次創作は一通り叫んだらどこかで区切りが来ると思う。
その時、既に他に好きな原作があればそちらに乗り換えるのは容易に想像できる。

んでそうなると元々の二次創作での絵柄に次の新しい原作の絵柄のエッセンスを入れるのだろうとは思う。
そうやっていろんな好きな原作の絵のミックスで二次創作絵師さんの絵はできていくのだろう。多分。

多分、というのは元々私は不器用で二次創作で大変に苦労するからである。
私は一次創作のオリジナルの絵柄が基本である。
元々絵を描くのが好きで私の場合一次創作が始まりなのだ。
二次創作しようとすると原作のエッセンスをオリジナルの絵にどう違和感なく取り入れるかだけで七転八倒することになる。

そこで何が不思議になるかって、「原作が好き」というモチベーションだけで対象の作品と絵柄を変えてでも描き続けられる、ということについてである。
(二次から二次への乗り換えをしたことがないので推測でしかないが)

それは「絵が描きたい」のか、「二次創作自体が主目的」なのか。
ここがわからないのである。

もし仮に「二次創作自体が目的」だとしたら、絵を描くモチベが「この原作が好き」以外にないのだろうかというのが不思議なのである。

さらに、ではもしハマれる原作がなくなっちゃったら絵を描かなくなるのか?ということが不思議でたまらないのである。
それとも描き続けるために無理矢理にでも好きな作品を見つけようとするのだろうか。
そのような努力がもし仮に必要になるのだとしたら、それはそれで本末転倒のような気もして来るので不思議に思うのだ。

要は「絵を描くこと自体が絵を描く目的じゃない」(ように見える)、という部分が不思議ということである。

なんでそんなことを考えたかというとかつて一世を風靡し一時代を築いた同人サークルの絵師さんが、人気もあり実力もあり一時は商業イラストも描いてたのにやっぱり二次創作同人誌に戻って最終的にナマモノジャンルを「オリジナル」と表記して活動してたようなので。
(同人誌界隈のしきたりなのかな?ナマモノをオリジナルに分類するのは。よー知らんのよ。まあ二次創作ではない、と言えば確かにそうかも)

一時期とてもハマっていたサークルさんである。
とても上手いわ面白いわ泣かせるわで大好きだったサークルさんである。
商業イラストはラノベやBL小説の挿絵だったけど、正直作風合わんのでは…という作家さんともお仕事していた記憶がある。
二次創作ではとんでもすごいくっきりした絵を描いていたんですよ。
でも商業イラストは多分…二次創作で「人気のあったパターン」を踏襲した絵…と感じられた。

いや、ちゃんと描いてはいたんですよ商業イラストも。
デッサンしっかり体型ガッチリ画力は他の方に引けを取るところはない…けど。
多分、二次創作の時には「見えてた脳内イメージ」が、商業イラスト付けた作家さんの小説では見えなかったんだろう…な。

この絵師さんは、「脳内イメージ」が二次創作でしか見えなかったのかもしれない。
「脳内イメージ」の源が二次創作でしか発揮できなかったのかもしれない。
ただ、今となってはそれを確かめる術もない。

私個人の感覚で言えば、絵を描く原動力が自分の使用媒体に近ければ近いほどカニバリ感が強まるので、抵抗感が強い。

私のカニバリ感(抵抗感)の強さ比較
漫画絵>>>>>映画とかリアルナマモノ>小説>音楽

みたいな。

件の絵師さんは漫画やゲームの二次創作が多かった。
最後だけナマモノで、それ以外は元は全部漫画絵のものだった。
商業小説の挿絵も一時期はやっていたのだから直接ビジュアル的な刺激を受けないと描けない、とも言い切れないけれども。
ただ二次創作の方が生き生きしていたのは確かだ。
言うて二次創作でも生き生きなんて描けない人の方が大多数だもんなあ。

その中で見たらこの元大人気サークルの絵師さんは漫画絵由来の中では「脳内イメージ」をくっきり描けていたのだろう。
商業小説の挿絵はいつもの漫画絵由来の「脳内イメージ」がないからビタイチだったのかもしれない。
漫画絵由来で自分のツボにハマるものなら「脳内イメージ」を駆使できたのかもしれない。
それまで漫画絵二次創作しかやってなかったので直接的なビジュアル情報なしで「脳内イメージ」をはっきりさせる技術を磨いてなかったのかもしれない。

この絵師さんと同時期に同人活動していた元同人作家で今は商業誌でTV化映画化でぶいぶい言わしてる勢も複数いる。
だけどその中で私はこの絵師さんの作品の方がツボだった。
TV化映画化していて商業漫画家として大成功してる他の作家さんより好きだった。
結局私はこの絵師さんの「脳内イメージ」に反応していたのだと思う。
今商業漫画家として成功している人々との違いはそこだと思う。

逆に言うとこの絵師さんは不器用とも言えるのかもしれない。
面白く笑えて、とんでもない発想のギャグも描けるのに泣けるシリアス物も描けて、その才能の豊かさにただあんぐりと口を開けていた当時の私では考えもつかなかったことだが。

コンスタントに商業で成功できる絵師、というか漫画家はあざといまでに「感動させるツボ」を機械的に配置できる人なのだと思う。
私の好きだったこの絵師さんはそのあざとさがなかった。

「脳内イメージ」の赴くまま、「脳内イメージ」に従って描く。
ただしその「脳内イメージ」は好きな漫画かゲームのみが源泉だった。
「脳内イメージ」の源泉がジャンル的にカニバリそうなものばかりだったので、自力またはカニバリにならない媒体から「脳内イメージ」を凝らすことに慣れてなかったのかもしれない。

何やらホントか嘘かわからないそれっぽいアフォリズムと感動エピソードを機械的にばら撒いてそれっぽい感動話を描くという器用さあざとさは持ち合わせていなかったのだろう。

関連note

「脳内イメージ」に従って描こうとすると愚直に描かざるを得なくなる。
あざとさも計算高さも「脳内イメージ」を消し去ってしまうからだ。     

なので、漫画絵の二次創作絵師というカニバリそうな分野で「脳内イメージ」を駆使するというのは、供給元の細さという危うさもあるのかもしれない。
「脳内イメージ」を喚起する漫画かゲームの原作がなくなれば詰む。
小説やその他のジャンルの作品からは「脳内イメージ」を喚起できない。
「脳内イメージ」が描くモチベなので計算高く感動エピソードを配置するようなありがちな感動モノとかも描けない。
「脳内イメージ」を頼りに描くのに「脳内イメージ」の供給元が漫画絵のものに限られているというのは、言わば源泉の泉から流れる水流の細さ故に水源が途切れやすいデメリットがあるのかもしれない。

漫画絵二次創作オンリーの絵師さんは、いつかハマれる原作が無くなったら一次創作しますか?
それとも無理矢理次の二次創作元を探しますか?

色々考えてはみたけど結局この答えだけは分からず仕舞いである。

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