「パクリ」と「参考」を分けるたった一つの要素〜パクリ肯定論理は鬼滅の「鬼論理」(3)

前回、前々回の続き。


鬼滅の刃における「鬼」と「人間」の対比

鬼滅の刃では炭治郎始めとする鬼殺隊隊員は柱を目指して人間離れした鍛錬を反復して行い、鬼を倒すだけの力量と精神力を身に付けようとする。
対する鬼は人間を食べることによって力を増大させる。
食べた人数が多いほど、食べた鬼殺隊の隊員の位と力量が高いほど鬼の力は増大する。
そこに精神力は要らない。

鬼のパワーアップはインスタントでお手軽だ。
食欲と嗜好を満たせばパワーアップできる。
人間のパワーアップは地味で効率が悪い。だから柱になれる者は限られている。
人間はフィジカルとテクニカルとメンタルの全てを極限まで鍛えるか、どれかに欠けがあってもそれを補う何か(モチベーションも含む)が必要になる。

そして、圧倒的に有利な特権的フィジカル能力を持つ鬼に対抗するには、例え柱にまで登り詰めようと有限のフィジカル能力にすぎない人間は、互いの信頼をもって諦めず、小さくともできること、弱者でもできることを含めて永遠の連環のように繋ぎ合って鬼舞辻無惨を倒すのだ。
鬼殺隊隊員も一律ではなく、能力は高低も含めて多様性に満ちている。
自分は弱いから何もできない、と絶望する不死川玄弥も炭治郎にかけられた過去の言葉(炭治郎の経験則から来る実感の伴った言葉)を思い起こし、奮起して見事に次の隊員たちに繋げていく。

ここに「鬼」と「人間」の価値基準の対比がくっきりと表れていることは、恐らくどんな人にも肯ってもらえる見解だろう。

「パクリの心」は「鬼心」

そもそも鬼の倫理観は「弱肉強食」「自己愛」「他者はどうでもいい(例え自陣営の者であっても)」である。
上弦同士であっても一見フレンドリーに振る舞って見せようと結局はマウントの取り合いの擬態である(童磨はマウント取り合いではなくフレンドリーで親身なフリのみであるし黒死牟は他と張り合ってはいないが、それぞれ自分に自信がある=他が劣ることを熟知しているが故の余裕だろう)

※余談だけど鬼滅の固有名詞が全部変換候補上位にちゃんと出てくるのがすごいな…(私は鬼滅の固有名詞を入力したの初めてマン)

ここで過去noteで紹介した雲上人Aさんの言葉を引用する。


『みんなお互い褒めあってるけど腹の中では自分の方が上だって思ってるの当たり前でしょ!
なのにあんた達は違うって言うの!?そんなはずないでしょ!!』

Aさんのセリフ
「おなじサークルの相方だって、みんなライバルなんだからね。表面上仲良くしてるように見えても、そんなの嘘! みんな自分が一番になりたくて、誰か売れるか目の色を変えて争ってるんだから」
「えー、でも私たち絵と文章で、ライバルになりようがないと思うんだけど…」
「それでもライバルなの。そういうものなの。あなた達はそうじゃないっていうの?」
とても不機嫌になるAさんだった。

同人界隈の雲上人Aさんが語った「同人界という修羅の国(または妖怪大戦争、あるいは限界集落のボス猿争い)」
https://note.com/midoriene/n/nfc78919aa800


…「弱肉強食」「自己愛」「他者はどうでもいい(例え自陣営の者であっても)」感に満ちていますね。

修羅の国同人界隈の基本スタンスが鬼滅で言うなら鬼寄りである、と雲上人Aさんは証言してくれたわけだ。

パクリ肯定論理は鬼滅の「鬼論理」

いくつか鬼滅からの引用をする。

①「そして強く美しい鬼は何をしてもいいのよ…!」
「醜い人間に生きてる価値無いんだから仲良くみんなで死に腐れろ」(10巻、堕姫)
「自分が不幸だった分は幸せな奴から取り立てねぇと取り返せねえ」(10巻、堕姫の口を借りた妓夫太郎)「柱の時間と君たちの時間は全く価値が違う 少し考えればわかるよね 刀鍛冶は戦えない 人の命を救えない 武器を作るしか能がないから」(12巻、過去を取り戻す前の時透無一郎)

②「あの娘を喰って取り込めば 私も太陽を克服できる‼︎」(15巻、鬼舞辻無惨)

③「きっ…気に食わぬ‼︎ 私とてこれほど集中したことはない‼︎ 芸術家として負けている気がする‼︎」
「気に食わぬ…殺すのは造作もなきことだが 何とかこの男に刀を放棄させたい‼︎ この集中を切りたい‼︎」(14巻、玉壺)

④「俺を正しく評価し認める者は"善"‼︎ 低く評価し認めない者が"悪"だ‼︎」(16巻、獪岳)
「俺は特別だ お前とは違う お前らとは違うんだ‼︎」(17巻、獪岳)

⑤「水獄鉢を抜けている‼︎ (略) 間もなく死ぬと思って向こうには意識を遣ってなかった いや しかしだ 逆に言えばそれだけ 私が集中していたということだ‼︎ よし‼︎」(14巻、玉壺)
「儂は生まれてから一度たりとも 嘘など吐いたことはない 善良な弱者だ 此程可哀想なのに 誰も同情しない」(14巻、半天狗)

⑥「お館様の仰った通りだ "確固たる自分"があれば 両の足を力一杯踏ん張れる 自分が何者なのかわかれば 迷いも戸惑いも焦燥も消え失せ 振り下ろされる刃から 逃れられる鬼はいない」(14巻、過去を取り戻し痣者になった時透無一郎)

⑦「どんな時もアンタからは不満の音がしてた 心の中の幸せを入れる箱に穴が空いてるんだ どんどん幸せが零れていく その穴に早く気づいて塞がなきゃ 満たされることはない」(17巻、善逸)

まだまだ引用したい箇所はあるのだが、こうやって改めて拾ってみると現時点ですらかなりの量になってしまったので、今回はここで打ち止めすることにする。

①は弱肉強食理論だ。鬼及び炭治郎に感化される前の柱の一部に見られる「強者以外は不要」論である。
この論理は前項の通り「修羅の国」同人界隈で一般的らしいとの証言を複数見聞している。

関連note

②は相手を喰って取り込めば自分の力になるという理論だが、これは創作上の設定だから成立する理論であって、現実には適用されない。
かつて民族的にカニバリズムの習俗のある部族には一部信じられていたらしいが、現代の価値観では当然ながら否定される理論である。
だが【パクリ及びバレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】では広く信じられている思想である。
絵柄ストーキングで丸呑みしてしまえばすれば元絵のクオリアまで取り込めると信じてるからこそ「Bさんの絵から基礎画力を7割引した2Dだけ描き慣れたBさん絵柄ストーカー漫画家C」は絵柄ストーキングしたのだろうし、【パクリ及びバレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】絵師もクオリア持ちの絵師の絵の一部だけでも喰えばクオリアが手に入る、とでも思ってないとクオリア持ちの絵師の絵を付け回し続けることはしないはずである。

関連note

実際「他人の絵を喰ったら自分の画力になる」という思い込みが既に間違いなく鬼論理じゃないですか。
少なくとも柱を目指す隊員のようにフィジカル(基礎画力)、メンタル(ともすると周囲の雑音に紛れそうな脳内イメージを手放さず自我を確立する)、テクニカル(お絵描き技法を他人のそれを丸呑みではなく根拠から理解し応用できるようになる)みたいな地味な鍛錬の繰り返しが必要な上達法ではない。

他人の絵を喰って上手くなりたいってのは鬼滅の鬼のようにお手軽インスタントですぐ上手くなりたいというムシのいい願望だよね。
実際は喰っても画力は上がらない。見栄えはその時だけちょっと良くなるかもしれないが、何も見ないで次に再現できる技術にはなってないはず。
何故なら『先っちょだけ』の切り貼り=小手先の誤魔化しにすぎないからだ。
根本的な技法の根拠を理解できないうちは、小手先の誤魔化しテクニックでしかないのだ。

③はダイレクトに本気で打ち込む芸術家に嫉妬するエセ芸術家の思考回路そのものである。
これも【『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】というか修羅の国同人界隈では当然蔓延しているであろうルサンチマンの病である。
雲上人Aさんの噴火の経緯を見てもそう思うし、絵のストーキング自体がルサンチマンのなせる技である。
ルサンチマンから来る行動パターンは自分を鍛えて相手を超える、ではなく「相手を貶めて自分を上げる」、である。

④は【『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】に主に広く蔓延する厄介な病、「ダメ脳内補正」という認知の歪みの典型的な思考形態そのものである。

関連note

⑤は③の嫉妬から自己を救済するべく自己欺瞞を自らに信じ込ませようと唱える呪文や経文のようなものである。
【『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】では頻繁に見られる現実逃避のための呪文だ。

⑥は人間の世界が野生動物のような弱肉強食ではないこと、そして「自分の(幽けき)脳内イメージを他人の芝生の青さに流されず自分自身として保つこと」が、自分より上手い絵師を目にしても自分が否定されたように感じることもなく、自分を保てるのではという私の仮説に通じるものだ。

関連note

⑦は私から見た【『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】、及びダメ脳内補正と承認欲求と自己顕示欲の劫火に焼かれている諸氏の姿そのものである。

関連note

いかがだろう。

加えて序盤に書いたように鬼と鬼殺隊のパワーアップ方法の違いは【『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】とクオリア持ちの絵師の上達方法と被らないだろうか。
【『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】は相手の絵を(一部でも)喰らうことが上達法と信じている
ようだしクオリア持ちの絵師は物理的に存在しない脳内イメージを繰り返し繰り返しなぞって確認しながらイメージ通りに具現化しようと地味な努力を繰り返す。

あくまで現時点の私から見た視点なので、例えば「いや、【『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】、及びダメ脳内補正と承認欲求と自己顕示欲の劫火に焼かれている諸氏の考え方や上達法の方が炭治郎や人間の考え方やパワーアップ法と一致してるだろうが!」という方がおられれば、根拠を添えて反論していただければ幸いである。
それこそがヘーゲルの弁証法に於けるアウフヘーベンへの道であり、反論=人格否定ではない、ことを一応弁えているつもりなので、遠慮せずにお願いしたい。

(続)


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