私がお絵描きの心理的防衛ラインを堅固にした方法〜スタンスが近いプロ絵師さんが激レアな話
noteに自分のスタンスをこれでもかと書き続ける私だけど、似たスタンスの人はあんまり見たことがない。
…のですが、最近読んだnoteでインタビュー受けてたイラストレーターの方はかなり近いと感じました。
こちらです。
たとえばまず「おっ」と思ったのがこちら。
ちょっと私の幼児期に似てる…。
私の場合は先生にクレヨン持ってかれて、私が描きたかったのと違う方向に描き加えられてしまってショック受けたけど「いやだ」とは言えずそのままトラウマになったけど。
↓参照
「鬼の形相の凄みみたいなものをどうしても表現したい」のとは傾向が違うけど、上のnoteでも描いたように、「自分はこう描きたかったのに!」というはっきりしたイメージはその頃からあったのは確か。
あとこちらとか。
"模写や塗り絵ではなく、前日に見たコナンくんや蘭ちゃんを思い出しながら描いていたんです。"
"だけどうまく描けなくて、「どうしたらかわいくなるのか」「どうしたらあの絵に近づくのか」って、目の位置や顔の形を試行錯誤しながら何度も描いていたのをすごく覚えています。"
この辺わかりみが深すぎる。
昔私もそういう試行錯誤を延々としていたので。
んであんまり「思い出し描き」(自己脳内完結イメージ具象化)の人をあんまり見ない気がする。
脳内イメージにできるだけ近づけようと描く人もあまり見ない。
普通みんな大体初心者は「模写」するよね。
お手本の絵を隣に置いて見ながら描くかトレースするかして。
私の場合、多分小学校低学年の頃に真似したい絵を見ながら軽い気持ちで描いたことが、一度だけあって(もちろん模写と言えるほどのレベルではない)、多分「お、私けっこう描けるじゃん♪」とその瞬間は思ったんだと思う。
この辺うろ覚えだったけど、今思い出してみたらだんだんその後も思い出してきた。
その後は、じゃあってんで次に何にも見ないで同じ絵を再現しようとしたら…一向に似ない。
頑張っても歯を食いしばっても一向に似ない。
というかド下手クソだった。
たぶんこんな感じだった。
その時、「見て描いた絵は自分の実力ではなく、下駄履かされただけ」ってことをすごく強く感じたんだと思う。
そしてその落差がものすごくショックだった。
たぶんそれ以降、他人の作品を見て描いた絵は自分の実力じゃないから、ととにかく好きな絵は穴の開くほど見つめて脳内イメージに焼き付けて、脳内だけ見ながら描くようにしたと思う。
とにかく「実力じゃない」ということは強く思った。
どうやったら似るのか、ものすごく必死になって脳内に焼き付けてから試行錯誤したりしてた。
脳内焼き付けは貧乏故に得意だったしね。
(↓参考)
そういえば↑のnoteにも、
に似たこと書いてた。
し、もちろんそのための試行錯誤に相当期間を費やしたものである。
そんな昔から分析マッチョだったんだわ私。
分析マッチョについてはこちら↓
脱線したので話をインタビューに戻して、他にも印象深かったのは以下の箇所。
感情を動かす絵、は私もそうありたいと思っている。
というかこれがないのなら何のために描くのだろうとすら思う。
そしてこちらにも共感を覚えた。
以上にもすごくシンパシーを感じる。
かなり絵に対する考え方は近い気がする。
絵柄やジャンルは全然違うんだけどね。
やっぱりわかりみが深い。
以下とか特に。↓
奇を衒う、より極端なものを描くだけでは魅力的にはならないと私も思う。
関係ないけど私、エロで奇を衒いすぎとか、より極端なものを!とか描かれると、どんなシリアスなストーリーでも吹いちゃってストーリーが頭に入らなくなる質です。
お笑いやんけ、と思ってしまうので。
そんなに珍奇な体位とか演出、必要ですかね?
笑っちゃうので勘弁してつかぁさい。
またしても盛大に脱線してしまった。
そしてさらにもうひとつシンパシーを感じたところ。
本当にかなり共感できる内容ばかりなんですけど、あえてもう少し私の考えを付け加えるなら、
これは鶏と卵のような気がする。
自分が楽しんで描いた(楽しい、ハッピーとは限らない。ちゃんとできあがるかハラハラドキドキしたりとかキャラのさまざまな心情にシンクロしながらとか、とにかく描きながら自分の感情も動いた)絵は、見た人も感情が動くのだと思う。
それから、私も鳥山明先生は、さりげないけど上手いなあといつも思う。
単に描画が漫画として上手い、というだけではない。
「『リアルタッチで上手いだろ(ドヤァ)』というこれ見よがしの上手さではなく」
「上手さすら意識させないほどさりげなく上手く」
「読者が飲み込みやすいかわいいデフォルメが上手く」
「個々のキャラのパーソナリティもさりげないのに極めて作り込まれてて上手く」
「キャラクターの善性や負の面の織り込みなども説教臭くなく自然で上手く」
「それでいて多様で自由な人生観のキャラを生き生きと描くのがとても上手い(たとえばブルマを当時のその時代に可愛くかっこよく描けるのはすごい)」
などなど、今思いついただけでも数えてみるとつくづく上手いなあと思う。
鳥山先生は、人間観察力が鋭く、ちょっとした毒も含ませられるのに、結局人間が好きなんだなあと作品を読むたびに感じるのだ。
あとこれ、あんまり言ってる人見たことないんですよね。↓
みんなけっこう「影響受けてナンボ」って感じじゃないですか、今って。
自他の境界をわざと分けないで、他人の受け売りで描いて「私のオリジナル作品よ!」って多いじゃないですか。
でも、私は他人の受け売りは恥ずかしくてできないのね。
そりゃ受け売りでも「私の手で描いたんだから私の絵!」って開き直れる人の方がいくらでも他人の作品にタダ乗りで描けて効率よくたくさん発表できるだろうし、「私アイデアマンでしょ!」ってフリもできるしいろいろ便利なんだろうけど。
でもそういうやり方(他人の受け売り)は私にとっては向いてないので。
そういう描き方では自分は胸を張って発表できないので。
そして、仮に元ネタがバレたら恥ずかしいし、それまで頰っ被りしてたのも輪をかけて恥ずかしい。
厚顔無恥にもほどがあるし。
そしてやっぱり元の作者の方に失礼だし。
何より前述の通り
「見て描いた絵は自分の実力ではなく、下駄履かされただけ」
と強烈に刻み込まれた体験があるので、どうしても肯定できない。
そして、そういう描き方では
「人間愛を加える」ことも、
「楽しんで描く」ことも、
感情を動かす絵を描くことも
できないと思う。
他人の受け売りという行為は
「人間愛」があるならできないと思うし、
「楽しんで描く」こともできないし、
(自他ともに)感情を動かす絵を描くこともできない。
なぜなら、受け売りを自分の実力のように振る舞うのは
他人への尊敬の念に欠ける行為だし、
後ろめたさが先に勝って「楽しんで描く」とか私は無理だし、
感動はその人だけのものであり、他人が横取りできるものではないから、
である。
そんなわけで私が子供の頃に「人の絵を見て描いた受け売りの絵」と、「何も見ないで描いた絵」の落差があまりにショックだったことは既に書いた通りである。
なのでその後も他人の作品を見た直後に(漫画を読んだ直後とかアニメを見た直後とかも含めて)絵を描くということは一切しなくなった。
とにかく他人の作品で下駄履かされた状態を自分の画力と勘違いしないように自分を戒めていたと思う。
他人の下駄で自分の画力を勘違いして後から自力だけで描いた絵の不出来さ、ショボさ、貧相さ、惨めさを二度と味わいたくなかったからだ。
自力だけで描いてもある程度の貧相さから抜け出せるようになることがその時の目標だっだと思う。
その上で↑の過去の私のnoteのように目を惹いて離さない絵の秘密を一生懸命試行錯誤していたと思う。
結果、他人の作品を見てから描いた絵と見ないで描いた絵のクオリティに落差がないところまでなんとか持っていくことはできたとは思う。
たとえばちょっと前に珍しくニヒルに描けたキャラ(当社比)もそう。
私の中にないニヒルという要素が、直近で読了したあしたのジョー効果で現れたとは思うけど、画力的には私そのもので、ちばてつや先生の作品を踏み台に上げ底したわけではない。
そもそもダイレクトに流用にならないよう一休みして(脳内から他者のダイレクトな影響が消えて)から描いているしね。
だから私的には何ら羞じるところはないし、納得はしてるっていう。
なので、ときどきこのnoteでも言ってるんだけど、「自分の画力に満足はしてないけど最低限納得はしてる」ってのはそういう意味。
「他人の作品を見てから描いた絵と見ないで描いた絵のクオリティに落差がない」という意味では自分の画力に対して最低限の納得感はクリアしてる。
でも満足な理想の画力ではない。
っていう話ね。
いや、だって、自分の実力を勘違いするため、他人にも勘違いさせるためにセコく他人のものを盗んで自分のもののフリをするって、明らかに「小物ムーブ」じゃないですか。
以前のnoteで触れた「大物の器がないのに大物に見られたい小物」そのものの。
↓大物の器がないのに大物に見られたい小物について触れたnote
自分は大物ではもちろんないけれど、せめてそういう挙動くらいは「明らかに小物そのものの言動はしたくないなあ」とか、思いません?
私は自分を棚に上げて小物を嫌う、紛うことなき同族嫌悪小物マンなので、小物ムーブだと思うものは回避したいんですよ。
なぜかというと小物ムーブって、行為として美しくないじゃないですか。
そしてその行為を実行したら明らかに誰が見ても立派な小物そのものに成り下がっちゃうじゃないですか。
自分が小物なのは重々承知だけど、それでも小物の中でもまだマシな小物でありたいじゃないですか。え?私だけ?
(ちなみに、その大物小物のnoteを書いてから、しばらく私と相方の間で「あのnoteは小物に対するヘイト!みどりーぬは小物ヘイター!」というネタが流行った)
別な視点で言うと、
自分の技術だけでここまでなんとか描ける、という確信はお絵描きにおける自分の心理的防衛ラインが固まったことでもある。
たとえどんな素晴らしい高価なツールがなくとも、何を参考にしなくとも、紙と鉛筆1本さえあれば最低限ここまでは描けるぞ、という安心感。
これがあると、他人が如何に何をド派手にどう描いていようと、自分は自分だと胸を張っていられる安心感。
他人に引け目を感じなくて済む安心感。
自分をたとえ最低限であっても信じることができる安心感。
自分の技術だと確信を持って言える安心感。
その安心感の有無って、私的にはメンタルヘルス的に全然違うのよ。
まあ私にとっては、という話で万人に当てはまるわけじゃないけど。
そんなわけで、いろいろ脱線したけど、あんまり自分と似たスタンスの「プロの」イラストレーターさんを見たことがなかったけど、初めて見て、かなりのシンクロ具合に驚いた話から始まって超絶脱線した話。
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