はじめましての自己紹介
こんにちは。ダブルケアのことを探求している看護師です。
ダブルケアって知っていますか?
ダブルケアという言葉を初めて知る人が多いと思いますが、決して他人事ではないのです。
このnoteでは私の自己紹介にお付き合いいただければ幸いです。
1.意思の強い子どもだった
私はとにかく意思が強い子どもでした。
「行くの!みどりちゃん、○○へ行くの!」
私の口癖でした。今でも言う時があります。
どこかへ行きたかったり、何かをしたかったりした時。そんな時、私の意思は強く固く、一歩も引かなかったそうです。
両親の中ではもはや笑い話になっています。
私は東北の田舎で生まれ育ちました。海はありませんが山や田んぼが私の遊び場でした。冬はたくさんの雪が降ります。かまくらや雪だるまを1人でせっせと作って遊んでいました。
また恥ずかしがりやの緊張しいで人前に出て話すのは苦手でした。誰かの後ろに隠れていました。でも目立つこと自体は苦手ではありませんでした。
中学生のことでした。
私の学区の中学校では必ずヘルメットの購入を求められました。私の代から、昔ながらの白い通学用ヘルメットだけではなく流線形の青いヘルメットも選べるようになりました。
私は青いヘルメットが「かっこいい!」と思い、購入しました。入学してからすぐのことです。交通安全教室が開かれ、ヘルメットを持参することになりました。
青いヘルメットをしていたのは約150人いた中で私一人だけでした。なんとなく恥ずかしい感じもありましたが、3年間使いました。
私の弟も同じように「かっこいい」と思って、青いヘルメットを買ったようですが、周囲に青いヘルメットを買った人がいなかったため、恥ずかしくなって白いヘルメットを買ったようです。
自分のやりたいことを、好きなようにやる。
そんな子ども時代でした。
2.最悪だった時期
高校生の時から少しずつ、坂を転がり落ちるように体調やメンタルが悪くなっていきました。大学生の時も人間関係や看護実習で身体もメンタルぼろぼろでした。
看護師として就職から一気に坂を転げ落ちてしまいました。最初にうつ病と診断され、合計5つの病名を付けられました。
薬も大量に処方され、薬漬けになりながらも必死で働いていました。ストレスが強く、毎日5食食べていました。みるみるうちに10kg以上体重が増えていきました。
仕事も転々としました。最初の病院は、人事部長から「あなたに戻る場所はない」と直々に言われました。大きい病院だったから、私のような身体もメンタルもボロボロの看護師が戻って、バリバリと仕事をこなすのは確かに厳しかったと思います。人事部長がいう事は最もだと思いますが、それでも当時を思い出すと、悲しく少し胸が痛いです。
実家へ戻り、看護師としての仕事を少し離れ、ドラックストアの仕事を始めました。働いているうちに「また看護師として働きたい」と思うようになり、病院の面接を受けました。
そこでも人間関係で悩み、身体もメンタルもぼろぼろになりました。薬を飲みながらも必死に働いていましたが、当時薬を毎日10錠以上飲んでいたためか頭は全く回らず、ミスを繰り返し、周りを呆れさせていきました。居場所は無くなるのに時間はかかりませんでした。
心身共に限界を迎え、仕事を辞めました。
その後、6つの病院の面接を受けました。全て不採用でした。8月という時期も関係していました。8月という時期は、新人さんが夜勤に入り始める頃で、私のような新人に近い中途採用を受け入れる余裕のある病院はありません。
途方に暮れながらもネットを調べていると、その週末に東京で看護師のイベントが開かれるということを知りました。急いでバスのチケットを取り、東京へ向かいました。そこで縁があり、東京で訪問看護に仕事を始めることになりました。
経験がなくてもOK、新人OKとの触れ込みで入職しましたが、甘くはありませんでした。周りは経験10年以上の看護師さんばかりでした。10年未満でも、指導者をしたことがある人や主任経験がある人がほとんどでした。
1人で訪問しても電話で相談出来ると言われても、緊急の時は現場である程度判断して、行動しなければなりません。そして的確に迅速に電話で報告し、指示を仰ぐ必要があります。
先輩や上司も忙しいので、手短に必要な要件を言わなければならないのですが「どうしよう」とテンパってしまうと、どのように報告していいのか、病院で経験を積んでいない私は「何が言いたいの」と常に怒られていました。
そして常に先輩や上司が電話に出られるわけではありません。移動中や処置中、会議中、他の電話対応中である場合があります。
患者さんの命を預かる責任感に押しつぶされ、メンタルが病んでいきました。辞めようとしましたが、別の支店へ異動することになりました。
そこで頑張ろうと思いましたが、感染症流行のため、事業所を閉めることになり無職になりました。
働かなくては生きていけないと思い、様々な病院や訪問看護ステーションへ見学や面接へ行きました。見学だけのはずなのに、「看護師向いてない」と言われ、涙したこともあります。自己肯定感、自尊心はどんどんと下がっていきました。
「私なんて」が口癖でした。
雇ってもらえる場所で働きました。訪問看護ステーションやデイサービスなど様々な職場で働きましたが、人の目が怖くなり、人間関係でつまずいてしまい、すぐに辞めるということを繰り返してしまいました。一カ月仕事して、「もうだめだ・・」と仕事へ行けなくなり、仕事を辞める、ということを繰り返していました。
履歴書も一枚ではおさまらなくなってしまいました。
仕事が決まる度に、引っ越しをしていました。「私のことを知らない土地に行きたい」という、そんな想いが強かったのだと思います。
引っ越しの旅にお金はかかります。お金も貯めようとしても全く貯まりませんでした。
そんな状況だから、両親は常に心配していました。
友人もいなくなってしまいました。どんどんと離れていきました。友人に相談しても、私自身が「でも」「だって」の繰り返しで友人は怒ってしまい、絶縁状態になってしまいました。
グルグル状態で抜け出せなかった私自身は苦しかったのですが、それでもそんな私に付き合わせてしまい、怒らせてしまったのは申し訳なかったです。
恋人もいたのですが・・モラハラ気質の人でした。私自身のことを貶す上に、私の家族のことも貶す人でした。それでも「この人と分かれてしまったら、私の価値はない」という歪んだ価値観がありました。自分の価値を保証してくれる存在に依存して、とても苦しかったです。
3.コミュニケーションを学んで
私には何もありませんでした。抜け出す方法も調べました。精神科にも通いました。リワークプログラムにも参加しました。認知行動療法、アドラー心理学など様々なことを学び、実践してみましたが抜け出すことが出来ませんでした。
たぶんFacebookの投稿が流れてきたのかな?
看護師が行う「フリーランスナースの歩き方」があることを知り、藁をもすがる思いで参加してみました。
他の参加者はやりたいことが決まっているみたいで、私にはその人達がキラキラ見えました。私は羨ましさや自分の情けなさで部屋の中で縮こまっていました。
話を聞いてる中でコミュニケーション、心理学、認知科学、日本文化を学べる講座がスタートしていると聞きました。18カ月間のコースで、すでに始まっているけど今なら参加間に合うかもしれないと言われました。
その講座を受けるにあたり、条件が課されていました。それは「看護師経験10年以上」という条件でした。
どうしても参加したいのならば聞いてください
私は当時、看護師経験が6年ほどでした。ここでも、看護師経験という壁があるのかと、泣きそうになりました。
どうにもならないことは何もないよ
なんかすっと、腑に落ちた感覚がありました。1日考えて、考えが変わらなければ主催の人にメールしようと思いました。
朝起きて、考えが変わらなかったのでメールして、講座に途中から参加することが出来ました。
正直、何をするのか全く分からずに講座を受け始めました。でも人生を変えるんだ、幸せに生きるんだとそれだけを考えていました。
後々、主催の人からは「ほっとけば死にそうだった」と言われます笑
確かにあのまま行けば、そうなっていていたかもしれません。
受講料は高額でした。仕事が続かず、引っ越し貧乏になっていた私にとってはとんでもない金額でした。果たして払えるのかと思いました。
いろいろな意味であとに引けない私は学んだものを必死に実践していきました。
4.学び終わったあとのこと
10錠以上飲んでいた薬も必要なくなりました。夜10時には眠くなり1回も起きることなく朝7時に目が覚めます。
基本的に仕事も休むことなく行けるようになりました。
家族とのわだかまりもなくなりました。
モラハラ気質のパートナーとは別れることが出来ました。
薬膳やかっさ、アロマのことを学び、身体を整えるケアを学んでいます。料理も好きで、薬膳の知識を活かしながら日々の体調を整えるレシピを調べ、作ったりしています。周りからすると、丁寧に生活しているな~と言われます。
読書が好きで、最近は図書館で本を借りるということを覚えて、毎月40冊ほど読んでいます。
仕事や人間関係で悩むことが多かったのですがそれもなくなりました。先輩の一言や、患者さんとの関り方で何か引っかかることがあると、フラッシュバックのようにイヤな気持ちや感覚を繰り返し再現していましたが、それもなくなりました。基本的にイヤな記憶を次の日に持ち越すことはありません。
人間関係のストレスはぐっと減りました。人とコミュニケーションを取ることが怖くなくなりました。
自分のことを好きになれました。私は自分のことが嫌いでした。いわゆる自己肯定感もあがり、自分のことを卑下することもなくなりました。自分に〇をしてあげられるようになりました。
私は私、と思えるようになりました。
「どうして普通のことが出来ないんだろう」
「どうして周りと同じように仕事が出来ないんだろう」
ずっと周りと自分を比較していました。人と比べることをやめることが出来ました。
NHKの教育アニメしか見れない時期がありました。日々のニュース、ワイドナショーなどは見ているだけで疲れてしまっていました。ぬいぐるみ劇や、みんなのうた。何も考えなくて、ほっこりする、そんな番組しか見れませんでした。
身体が動かなくなり、寝ていることが多い時期もありました。やりたいことがあっても、見えない壁があるようで「どうして私は出来ないんだろう」と泣いている日々でした。
自分のやりたいことをやれるようになりました。
5.noteで書きたいこと
ダブルケアという言葉を知っていますか?
複数のケアが同時進行している状態です。一番多い形が『介護×子育て』のダブルケアです。でもそれだけではありません。
「ダブルケア」という言葉を知ったのは偶然でした。医療ライターの仕事をいただいた時、「ダブルケア」について書いて欲しいという依頼がありました。当時の私はダブルケアという言葉を知りませんでした。
記事を書くにあたり、当事者団体の代表の方にコンタクトを取り、色々とインタビューさせてもらいました。
そして訪問看護師として働いていたとき、「もしかしてあの人も・・」と患者さんのご家族を思い返しました。
話を聞けば聞くほど、他人事ではないと感じました。私自身の両親もダブルケアラーでした。
ダブルケアは少子高齢化、晩婚化、晩産化が影響しています。これからの40代以下のほとんどがダブルケアを経験する可能性があります。
在宅で介護が必要な状況になると、必ずダブルケア状態になっている人はいます。気が付いていないだけです。
ダブルケアの難しさは『介護×子育て』だけではなく、様々な形があること。そしてケアが多くなればなるほど、複雑になっていきます。
『介護×子育て』だけではなく、そこには仕事やお金のことが密接に絡んできます。そして自分自身の健康、家族の健康も関わってきます。介護だけ、子育てだけでも体力や気力が必要ですが、2つともなると目の前のことをこなすだけでも日々大変です。
介護×子育て×仕事×お金×健康
行政に頼ろうとしても、「ここの管轄ではありませんので」とたらい回しにされることもあります。
今の世の中で「ダブルケアラー」って、とてもしんどいのではないかと思いました。だから「ダブルケアラー」が少しでも楽になるようなことを書いていきたいと思います。
これからやっていきたいこと
お話が出来る場を作っていきたいと思います。
長文ですが、目を通していただきありがとうございました!
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