霞に消えゆく月のごとく
『光る君へ』が始まったので、少し書いてみたい。
今回の大河に興味が注がれるのは、従来の「史実をどのように脚色するか」とはやや趣きが異なるからではなかろうか。少なくともわたしにとってはそれだ。
そもそも古代をテーマにドラマ化するのであれば、あくまでも「お芝居」であるはずである。
不明である諱を「まひろ」としている事からもよくわかる。
漢詩人、歌人であった藤原為時の娘であり、藤式部もしくは紫式部といった通称を持つ女性というのが正しい。
でもそれではお芝居にはならない。
そのために今回付けられた「まひろ」である。
最初からひとつの「お芝居」として観よう思っている。
さて「光る君へ」ではどのように解釈するのであろうか。「源氏物語」を、である。
その解釈を元に、紫式部を描いて欲しい。
源氏物語について、本居宣長は「もののあはれ」を描き切った文学であると言い、和歌の教本である(論旨)とも言った。「もののあはれ」と言う無常感を内包した、思想的美意識を肝にした文学として筆を進めながら、書き手である紫式部の世の中の見方が色濃く織り込まれているのだろう。
カルチャーセンターにおいて古典を教える長谷川さんにコメント欄を通して、最後の「浮舟」は作者自身の姿であるという説を教えていただいた。
こちらの記事のコメント欄である。
人の世の悲喜こもごもを織り込みながら光り輝いた光源氏。彼がこの世を去った後にも続く物語。
浮舟は霞に包まれて消えゆく月なのか。
見上げる者の胸の奥底には何が残るのか。薫のそれ、読者のそれ。最終章は「夢浮橋」と、ある。
見事な完結を見せたと考えられる源氏物語。それが「光る君へ」と言うお芝居の中でどのように浮かび上がってくるのか。そして紫式部を「まひろ」という名で呼んだ意味が伝わってくるのかどうか。
わたしはそこを楽しみにしたい。
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