コラム 古の水との向き合い方
昨年、弥生期終焉以降(※)既に糞尿を肥料にしていた事が日本神話から読み取れると言う説を紹介した。
その流れで『水の道』と言う記事を書いた。
仮に仮説通りだったとしても、全ての人々の糞尿が肥料化するわけでは無い。記紀編纂にかかわる時代の汚水に対する考え方や衛生概念は、どの程度だったのか。
例によってしょうもない興味を記事にする(笑)
何年も前に読んだ『飛鳥の木簡※』を読み直した所、水に関してなるほどと感じる記述があったので興味深かった。少し紹介したいと思う。
わたしが子供の頃、田舎に行くと(富士吉田)道路に側溝があって、水が流れていた事を思い出すが、せいぜい幅30〜40センチ程度だったようにも思う。
藤原京の幹線道路は幅23メートル程度であった事がわかっており、道の両側にある側溝の幅はそれぞれ2メートル位あったとの事だ。
それ以外の条坊道路にも側溝があり、その側溝を流れる水は、恐らく大和川と合流し、大阪湾に注ぐ飛鳥川へ吸収されたのではないだろうか。
同時に排水溝跡も見つかっている。
この辺りまでの事は『水の道』でも紹介した。
そして『飛鳥の木簡』に、その側溝から一部の屋敷跡へ伸びる溝がいくつも見つかっていると記載があった。
溝を伝って側溝の水が引き込まれる。これはいわゆる水洗トイレだったと考えられると言う。(流したブツの行方は書かれていないが)
もちろん京内の家々全てに水を流す溝があった訳ではなく、多くは掘り込み式便所だった。これは1メートル程度の深さであった事が確認されている。
水洗も掘り込みもトイレであった事がわかるのは、そこから排便後、尻を拭き取るための籌木(通称クソベラ)がたくさん出ているからだ。←(いや、そのまま書いているだけ)
藤原京は大和三山をその内側に含む5.3キロ四方程度の広さだった。大きさは平城京、平安京をしのぐ。
唐の都城とは違い、周礼に習うように京の中央に宮が配置されている。
ところが地形的な高低差を考えると、この藤原京の中央にある藤原宮は低い位置にある。飛鳥川からも近い上にすぐ近くに丘がある。
藤原京の推定人口は、3〜4万人だったと言われる。
高い人口密度に対してトイレの数が充分であったとは言えず、側溝への垂れ流しも多かっただろうから、汚物を含む水が宮周辺に集まってしまうと言う弱点があった。
平城京遷都の大きな理由だったと考えられているようだ。
もうひとつ、飛鳥池遺跡で発掘された飛鳥池工房についての記載を加えてみたい。内容を要約した上で引用する。
衛生概念にとって切っても切れないものはやはり水なのだ。
不十分ながら、今から1300年以上前の『水との向き合い方』がわたしには感慨深かった。
もちろんこれが世界的に見て、発達しているのか遅れているのか、そこはわからないけれど。
さて冒頭に置いた過去記事。
このような古代初の都城の中で編纂が決められ(国史編纂構想のスタート時期はもっと早いが※)正史に繋がる神代の説話に、何の意味も持たせていないとは、わたしにはどうしても思えない。
さて、この話はこの辺りで終わりにしようと思う。
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※この時の記事で当初わたしは「弥生期のいつ頃かに」と記載していました。「弥生期終焉の時代」が正しいとわかったので、訂正してあります。
※市 大樹著
※皇極の時代にも国史編纂が行われていたようですが、完成には至っていません。
体系的な神話設立の時代は更にもっとずっと古く(6世紀位か?)ただ『神代』として正史の中でまとめられようとした時期を指しています。
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