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そこに示された循環


この記事は、中公新書「古事記の起源」(工藤 隆著)の中から非常に感銘を受けた部分について紹介する事を目的に書いたものです。
2500文字程度ありますが、興味のある方は是非お読みくださいませ。神話から読み解かれた排泄物に関する内容です。

以下、その内容について、わたし自身の言葉でざっくりと説明してみます。
(全てに伝聞の語尾を用いるのは煩わしく、言い切りの語尾で記載した部分についても、著書に書かれている事を基にしているとご理解ください)

食物を大気津比売神に乞いき。ここに大気津比売神、鼻口及尻より種種の味物を取り出して、種種作りそなえて進るたてまつる
古事記

スサノオが高天原から追放された後、食べ物をオオゲツヒメの神(食物の神)に乞うたところ、オオゲツヒメは鼻と口と尻から食物を取り出し、料理をしてスサノオに献上した。
これは古事記だが、似たような話が書紀の中にあり、こちらはスサノオでは無く月読と記される。

別の話に移る。イザナミの死に関わる話だ。
イザナミは火の神加具土の出産で命を落とす事になるが、死の間際、イザナミ自身の嘔吐物と便と尿から神を生み、その後に亡くなっている。
イザナミが火の神を生んだ後に続く、排泄物から生まれた神は、金、土、水、生育そしてその子供は木(植物・食物)と、それぞれの名前から読み取れるらしい。
五行思想に例える事も多いが、焼き畑の火、農耕具の金属、栽培に欠かせない土と水が揃った上で木が生育する。これは農耕を表していると考える事もできる、と著者は説明する。
その上で、それらが排泄物を介して生まれたと言う点を重視している。

再度冒頭の話に戻ると、食べ物を出されたスサノオは「汚らしい」物を出してきた事に腹を立ててオオゲツヒメの神を殺してしまう。書紀の月読も同じだ。
イザナミの話では排泄物から農耕に関わる神が生まれる。スサノオもしくは月読の話では排泄器官から食べ物が生まれる。
これらの話から「排泄と作物」の関わりに著書は注目している。

さてここで、神話外の興味深い点に注目してみたい。
「豚の清掃局」をご存じだろうか。アジアの中で近代文明の影響をあまり受けていない地域では、人糞を豚が食べる風習が健在だと言う。古代からの風習だそうだ。
或いは風習は残っていなくても、過去の時代には行われていた事を示す資料等が存在すると言う。
日本ではどうだろう。
今日本で食べられている豚肉は、明治以降にイギリスから輸入されたものらしい。
ただ、研究により縄文・弥生期の日本に豚がいた事がわかっているそうだ。しかも家畜のように、人のごく近くで生息していた痕跡が認められている。
豚の清掃局が日本にもあったと考えるのが自然だ。
ところが弥生期のある時期から豚が消えていった事が同時にわかっている。痕跡が殆ど無くなっているのだそうだ。

日本で人糞を田畑の肥料にしていたとの最初の記述は、鎌倉時代に求められる。ただそれは、その時代に始まった事を意味するわけではない。いつから始まったのかについての資料は無いとの事だ。

排泄器官から食べ物が生まれる。先に上げた神話は、排泄物と作物の結びつきを表していると著者は指摘している。

古代の古代であれば、排泄物を「呪力」と考えていたのだろうとの推測が成り立つようだ。肥料と言う認識に辿り着く前に呪力として扱っていたのであれば、時代にとてもフィットするようにわたしには思える。

書紀の、月読が汚らしいと排泄器官から食べ物を出した食物神を殺してしまった事に天照は激怒して、月読を高天原から追放する。殺すのは行き過ぎだとしても、ストレートに読めば月読が怒るだけの理由は、ある。

また別の話ではあるが、スサノオが高天原の田んぼに糞尿を撒き散らした事について、天照は汚いと思いつつ、庇うような言い訳を自ら考えて、スサノオをあまり咎めてはいないのだ。
神話は時代ごとの思想や文明が折り重なっているが、今知られている神話が成立した時点で、清潔に対する認識と、呪術から転じた、排泄物の肥料化と言う科学になんとか折り合いをつけていると言えるのではないだろうか。

また特筆すべきは、世界の、とりわけ日本神話と関係が深い、中国やインドネシア・ポリネシア系の神話の中で、排泄に関わる物から食べ物が生まれるという話が見当たらないと言う点が挙げられている。
排泄物から「良い物」が生まれる話はある。けれど「食べ物」に繋がる話は聞かないと言う。
特筆と書いたのは、人糞の肥料化は、どうやら日本以外ではあまり聞かない話だと言う事実があるからだと著者は言う。
(ここで使われている日本とは、日本神話がカバーする地域を指している)

以上が、紹介したかった論考です。

文字で書き残すと言う手段を持たない時代に語られた話は、当然新たな要素が加わり変化を続けます。言ってみれば地層のようなもので、ならば「より古い部分を掘り起こして、そこから神話全体を眺めてみよう」と、著者はその作業を続けてきた研究者との事です。

この著書には他にもとても興味深い論考がありますが、今回紹介した部分に強く感銘を受けました。

歴史の見方に対して「その当時の文明と思考から伺える社会的背景」に興味を持つわたしからすると「素晴らしい解釈」だと思えたからです。

豚に食べさせて、その豚をまた人が食す場合も立派な循環が成り立ちます。ただ仏教の流入により殺生を嫌う世の中が来る前に、別の方法を生み出していた(著書によれば)のは幸いな事だったでしょう。
また呪術的行為から始まったのであれば、豚の有無に関係なく儀式として以前から存在していたとしても不思議では無いと思います。
「呪力のある排泄物からやがて人糞の肥料化へと進化した」とすれば、その考えは、とても納得がいきます。

また、何らかの意味が含まれていなかった場合、今回抜き出したような話は、単なる滑稽な笑い話であるかのような印象になりかねません。
体系的なストーリーとして作り上げられた国書にそぐわない気がします。

記紀の編纂時期は、中央集権国家を象徴する都城、藤原京・平城京の建設を成し遂げた時代です。
様々に語られていた神話を一旦体系的に纏めたのが帝紀と旧辞。そして文化の成熟度を背景に、更にそれを取捨選択しながら威信をかけて国書に仕上げたものが記紀だからです。
娯楽的な読み物では無かったと言う点については、常に留意する必要があると考えます。

神話は理をはじめ、様々な事象を説明してくれます。わたしは肥溜めの存在を知っている世代です。(見た事は無いですよ、都会っ子なんで 笑)
人糞を肥料にしていた事をまるで知らない世代ばかりになった世の中がやがて来るのでしょう。その時、神話のこの部分はどう感じられるのか、そんな事も考えてしまいました。

作物を基盤とした食物を摂取して排泄をする。その排泄物が、再び作物の生育を促す。
循環に関するこの国独自とも考えられる、素晴らしい知恵の存在について理解されるよう、願って止みません。


(通常一番のポイントをヘッダー画像に入れ込むわたしでも、さすがに💩ちゃんをヘッダーに入れ込むわけにはいかないと思った次第)


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