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大河ドラマ『光る君へ』


長い年月放映され続けてきた大河ドラマの中で、極めて特殊な作品であると感じる。
『光る君へ』である。

ある特定の歴史的人物について、その人物が成しえた事象についてフィクションを織り込みながらお芝居として描いてきた大河ドラマであったが、今主役の紫式部の特筆すべき功績は、絶大な世界的評価を得ている『源氏物語』を書いた、という事であるはずだ。
その文学作品を直接的には挿入せずに(脚本家談)、その世界観を成り立たせる大河ドラマは特殊であると、わたしは思う。

大鏡、栄花物語、小右記、紫式部日記等、数々を参照しながらであったとしても、古代へ行けば行くほどいわゆる史実を確定することは難しい。
摂関政治時代という社会的背景、思想、宗教観を当てはめながら考察がなされているのだろうと想像する。

『雲隠れ』と言うタイトルだけで光源氏の死を表し、「他に男ができたのだろうか」とわけがわからいと言ったふうの薫で結末を迎えるが、そこには『夢浮橋』というタイトルがつけられている。

源氏物語は男女の情を主題にした因果応報の物語であると言われている。一部の『罪』二部の『罰』そして三部を『あがない』であると考える学説もある。
そこに加えてわたしは、語り手を置き「思慮浅き者にはわかるまい」「見えている世界と真は必ずしも同じではない」といったような強い気持ちを込めているように感じるのだ。

「あはれ」を描ききったと言われるがその「あはれ」の最たるものがそれではないだろうか。同時にそうであっても、人は背負うものを背負う、哀しくも慈しむべきものと語りかけているようにわたしには思える。

貴族社会の中にあって、その世俗を壊しがたいものであるとわかりながら、その心を時に政治的立場に寄り添わせ、時に俯瞰しながら美意識と共に物語の中に落とし込む。千年の昔の、紫式部の筆の見事さである。

ドラマについて歴史を知る者の中には、史実を考えればどうのこうのと言うむきもある。それはそれでもっともと思いつつ、当時の、階級をもってしての常識的な考え方があったとしても、そこから外れる事は個々人の内心を中心にいくらでもあったであろうと考える。
末法を控え、また浄土信仰が広がり始めた時代なのだ。世相に対する現代人の賛否など、さほど意味はないと思える部分も多い。

だからこそ時代感覚を体感できない現代社会において、芝居の形で見せるのであれば、初回のまひろの母殺害という無謀な脚本にまでも、わたしは納得がいく。
「呪う」と言ったその時に、その原因を作ったのは自分であったことにも思い至り、恨みと自責の念を抱えた感受性の強い女性としてまひろは成長していく。
その女性が身分違いの恋を経て、学問に心を寄せ、大作を書いたのだと、フィクションであるとわかりつつも、大作執筆に導く動機付けとして、視聴者を納得させることが可能だ。

『物語』とはいわゆる散文の小説という意味の他に、古語を中心として『語る』『語り合う』『語って聞かせる』といった意味がある。源氏物語の最後は「と、そのようなことのように伝えられております」といった意味合いの伝聞調で終わっている。『いつの事かなどわからぬひとつの話を、語り手により語り終えた』ということだ。
後の事は好きにご想像あそばしませという『開かれた形』での結末であったがゆえに高い評価を受け、後世まで残ったと考える人は多い。

このドラマは紫式部が作り出した、源氏物語の中にいる『語り手たる人物』の人生を描いているような錯覚を覚える時もある。
源氏物語を真綿に包み上座に置く。そして描かずに視聴者に見せる、あるいは感じさせる。わたしはそのようにドラマを観ている。

ただこれはわたしの勝手な妄想に過ぎないが、その対象者は視聴者以外にもう一人いるように感じられてならない。

このドラマのタイトルは『光る君へ』なのだ。



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