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季語に宿る
万葉集、古今和歌集に季節分類の箇所が見られるように、季節詠みは古く和歌の時代から日本の詩歌には欠かせないものだったと言う。
季語が成立したのは平安時代後期。連歌俳諧を経て俳句に受け継がれている。
以前、古典を中心に、日本の文芸においては呪術的感性が根付いていると書いた。
「宿る」と感じる精神性だ。
季語の存在は、その流れにあるものだと考えている。俳句で季語を使うのは、単なる「ルール」と言うだけでは無く日本人の呪術的感性、精神性の集約とは言えないだろうか。
だから「季語を信頼する」と、そこに繋がるのでは無いどろうか。
俳句に於いて季語を中心に擬人化には慎重さが求められる。宿るものがあると感じるのであれば、擬人化はむしろ邪魔をしかねない気がする。
連句を教わって、季節と共に一歩も後戻りをせずに、前へ前へと歩みを進める文芸の在り方を知った。
月を見て、花を見て、雪を見て、心のヒダに灯る悲喜交交を詠みあげる。ひとつひとつの季語の中に宿る言霊に頭を垂れて詩歌の中に生かす。
俳句はもとよりそれ以外の韻文も、自由詩においてもそこを忘れずにいたいと、そんな事を思っている。
わたしはつくづく日本人なのだろう。
*このエッセイは同時にハイクサークルに向けたものでもあります。
俳句を学びたい方にはとても有意義なサークルです。
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