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『あの時の学びが生きる糧に』~緑のふるさと協力隊を経験して~

過疎化・少子化に悩みながらも地域を元気にしたい地方自治体と、農山村での活動や暮らしに関心をもつ若者をつなげるプログラムとして1994年にスタートした『緑のふるさと協力隊』。

これまでに107市町村で830人以上の隊員たちが活動してきました。

今回は、2009年度の16期隊員として、岐阜県白川町で活動をした松本さんに協力隊時代と現在について書いていただきました。

①緑のふるさと協力隊に参加した理由

 大学3年の時、祖父が亡くなりました。死を目の当たりにし、人はいつ死ぬか分からないから後悔のない生き方をしたいと思うようになりました。祖父は農家で何でもできる職人のような人でした。私は「教師になり、教科書をなぞる様な授業はできるかもしれないけれど、祖父のような生きる力はない。自分もいろいろなことを身に付けて、教師になりたい」と思いました。そんな時、友達から協力隊のことを教えてもらい応募しました。

②緑のふるさと協力隊時代を振り返って

 派遣先は、岐阜県白川町。白川郷はない白川町です。お茶や檜が有名で清流と緑で溢れる山間の町です。様々な仕事(農作業、山仕事、味噌や豆腐作り、町の行事など)の手伝いをしました。そこで祖父のような方々と一緒に作業しながら、その技や知恵、考え方などをたくさん学びました。分からないことは聞いて、やってみて、考えて、の繰り返し。縄の縛り方一つにしても奥が深いことを知りました。「考えてやってみる」って大切なことなのに、当たり前のことすぎて意外とやっていなかったことに気付きました。今まで敷かれたレールの上を温々と生きてきた私にとって、衝撃でした。だから毎日が楽しかったし、生きている実感がありました。

 外部から来た人間だからこそ、その土地の良さが分かることもあります。白川の人たちにとって当たり前のことでも、私には新鮮なんです。だから、感じたことを素直に伝えることが大切だと感じました。だんだん活動に慣れてきて、自分も白川のために役に立ちたいと思うようになりました。消防団に入り、町の安全に努めました。お茶のことを勉強するために、日本茶アドバイザーという資格を取りました。それを生かし、お茶の美味しい入れ方講座を開いたり、宣伝したりしました。


季節とともに時が流れていき、任期が終わる頃には少し白川の一員になれた気がしました。考えてやってみることの重要性、生活を豊かにする知恵の大切さ、人を思いやる心など多くのことを教えていただきました。

③今の自分

 緑のふるさと協力隊後、青年海外協力隊でタンザニアへ行きました。現地中学校で数学の教師をしました。その中で初等教育の大切さを実感し、帰国後通信課程で小学校教員免許を取得。現在、小学校教員として勤務しています。どこの子供たちも純朴で学びたい意欲があるところは同じです。しかし、タンザニアで出会った子供たちは十分な教育環境でないにも関わらず、笑顔で目を輝かせて学んでいました。いろんなもので満たされた環境下で学ぶ日本の子供たちに、白川や海外での経験を伝えているところです。教師になるまで遠回りをしましたが、それが生きる糧になっているのを実感しています。

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