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『生きる目的を見つけた』~緑のふるさと協力隊を経験して~

過疎化・少子化に悩みながらも地域を元気にしたい地方自治体と、農山村での活動や暮らしに関心をもつ若者をつなげるプログラムとして1994年にスタートした『緑のふるさと協力隊』。

これまでに107市町村で830人以上の隊員たちが活動してきました。

今回は、2018年度の25期隊員として、群馬県上野村で活動をした佐藤さんに協力隊への応募のきっかけと現在について書いてもらいました。


①  なぜ、緑のふるさと協力隊に応募したか

 事の始まりは、高校3年生の夏だった。
 元気良く蝉の大合唱が響く7月、一本の固定電話が鳴った。
「お前、本気で言っているのか!?」
電話越しに担任の教員が怒鳴っている。あまりの怒号に思わず耳を塞ぎたくなった。黙って聞いていると、教員は続けて電話越しに怒鳴る。
「推薦をやめるどころか、進学も諦めるのか!!」
怒り心頭なのがよくわかる。その日は学校で大学の指定校推薦を希望する人向けの説明会が行われる日だった。参加予定だった私は、突然辞退することを決めた。もちろん誰にも相談していない。
当然、教員たちは怒り心頭だった事は想像つく。今も電話越しに般若の様な形相でいる事もわかる。結局、30分に渡り説教と怒りを電話越しにぶつけられ、ため息混じりに電話はガチャっと音を立てて切られた。溜め息をつきたいのはこっちだよ、一方的に怒鳴りやがって…と心の中で悪態を吐きつつ、私はそっと受話器を置いて立ち尽くしていた。


 何も考え無しに進学しないことを決意した訳ではない。ただ、自分の進もうとしていた道が本当にやりたい事なのか疑問があった。当時の私は長年サッカーをやっていたこともあり、スポーツ系の学校に進学しようと決意していた。だが、部活中に二度にわたる左膝の大怪我を負った私は、競技生活を諦めざる終えない状況だった。競技ができないのに、競技にこだわるのもおかしな話だと考えた。
 他にも学ぶべきだろうと考えたのだが、他に学びたい分野がなく、理由も無いのに進学したところで得られるものも無ければ、親に大金を払わせるのも申し訳が立たない。かといって就職するにもどんな仕事があるとか、何が向いているとかわからない状態だった。
 ああ、こんな簡単に自分の人生って決まってしまうのか、案外あっさりしていてつまらないものだなと、思春期特有の思考が頭の中を駆け巡った。そんな事を考えている間にも時間は流れ、周りが続々と進路を決めて行く中、何もない宇宙を漂うようにその場にとどまり続けていた。
 何が自分をここまで不安にさせるのか。それは自分自身のことをよくわかっていないからだ。自分の特技、特性、性格、向き、不向き。何ができて、何ができないのかを、私はよくわかっていなかった。自分自身に目を向けてみても、どんな人間なのかよくわからない状態だった。透明人間のように、色も形も特徴もない存在。唯一ある特徴といえば、それは17歳という若さだけ。だが、それもみんなが均等に持っているものなので、自分らしい特徴にはならない。自分の存在と、生きる意味がよくわからないまま次の道を選ぶことはできない。だから一歩も踏み出せないのだと、都合よく解釈して自分を納得させた。


 そんな時、一つの小説に出会った。主人公は私と同じ路頭に迷った高校生。卒業後、半ば強制的に山村へと飛ばされて林業に従事していく。その中で出会っていく文化や人々に魅了され、徐々に自分の居場所と生きる目的を見つけていく物語だ。その時、若さも使い方によってはかけがえのない武器になることを少しだけ理解した。
 ならば私も、とりあえず今ある若さを存分に活かせる場所で生きてみたら変わるかもしれない。そうすれば次の道は拓くのではないかと、根拠のない自信が自分の中に湧き出た。今思えば不純な動機と狂気的な思考で少し呆れてしまう。そうして調べていくうちに出会ったのが「緑のふるさと協力隊」だった。それは宇宙を漂っていた自分の中に、一筋の強い光を差してくれた。これだ、自分が求めていたのはこれなのだと、一目惚れだった。
 こうして協力隊になることを決心した私は、早速説明会に参加し、激怒していた教員に話をし、また怒りをぶつけられながらも説得した。高校卒業後、自動車免許を取るために一年スポーツクラブで働いた後、19歳と5日で協力隊としての生活が幕を開けた。

②協力隊を終えて、今の私

 協力隊としての1年は、私にとっては青春で、人生で最高に面白く、最高に辛い1年だった。なぜなら、様々な人たちと出会い、様々な経験をし、自分がいかに狭い世界を生きていて、自分が非常に無力であることをこれでもかというほど痛感したからだ。
 その中でも一番学びになったのは、様々な人の生き方だ。
 私が派遣された群馬県上野村は、人口の二割(当時の記録)はIターン者、つまり私と同じように外から上野村を選んで来ている方が多い。物と人と仕事であふれている都市部とは違うのに、何がそんなに魅了されるのか、最初は全然わからなかった。でも、多くの人たちと関わっていく中で、出会ってきた人一人ひとりに、揺らぐことのない信念を持っている人が多かった。だから迷いが少なく、常に前をみて現状に悲観することなく突き進む強さが上野村の人たちにはあった。空っぽだった僕から見れば、自然と憧れと尊敬を抱く大人が非常に多かった。

 それ以外にも、自分一人にできることはちっぽけで、周りがいるから活かされていることも痛感した。協力隊として参加した私はとにかく人として未熟だった。自分自身を客観視できず、根拠のない自信だけが肥大しすぎて、失敗の連続だった。協力隊という看板と、地域の人の優しさに胡坐をかき、自分も何か大きいことをできると信じて疑わない、本当に未熟な人間だった。いざ蓋を開けてみれば、自分一人でできることなどちっぽけな事しかなく、自分の理想と現実との差に勝手に絶望して、自暴自棄になることもしばしば。同級生たちが学生生活を楽しんでいる姿を見て、何度もやめようと考え、無力な自分を受け止められずに一人枕を濡らす夜がいくつもあった。 


 そんな自分を優しく受け止めてくれた青年団の方々、自分を思って叱ってくれた役場の方々、黙って見守ってくれた地域の方々、そして遠く離れていても支えてくれた同期の方々。周りに素敵な人たちが多くいてくれたから、もう少し頑張ろうと思い踏みとどまることもできた。人の優しさや温かさが明日を生きる活力をくれることを知った。温かくも力強いエネルギーが人にはあるのだと思えた。
 だから、自分もそんなエネルギーを出せる人間になりたい。多くの人のために自分が持てる力と優しさを与えられる人間になりたい。その意思が協力隊の活動をより有意義な物にしてくれた。活動を通して様々な人たちから様々な形で感謝をいただいた。感謝されて初めて自分という人間が存在する理由を感じた。自分は人に貢献する為に生きているんだと、生きている意味をこの一年で教えてくれた。そしてそれは憧れていた人達のように、私の中で強い信念となり、揺らぐことない支柱として私を内側から支えてくれている。      

 あれから6年の月日が流れた。
 私は今、地元横浜で整体師として仕事をしている。自分の小さな手が、様々な人達の心と身体に寄り添い、健康体へと導いていく。自分の信念と経験と理想を全て体現できる天職に就く事が出来た。自分が努力すればするほど、貢献できる人数が増える、生き甲斐とやり甲斐を感じて過ごせる多忙な毎日は、生きる充足感をもたらしてくれる。私が今幸せに包まれながら前進できるのは、あの一年で出逢ってきた人達が居て、今もなお目指すべき目標として背中を見せてくれている。緑のふるさと協力隊での経験が、その後の人生を充実させてくれているのだ。当時の思い出は今も色褪せる事なく、心の中で温かい光を放ちながら輝いている。


 現在、協力隊に興味がある人や、現役の隊員たちや、何か現状に悩んでいる人に伝えたいのは、何かを変えるのに大きな勇気は必要ないということだ。悩んで立ち尽くす気力を、小さな一歩に変換して足を出す気力にすればいい。恐る恐るでも、勢いよく両足でジャンプしてもいい。その一歩が新しい世界を見せてくれる。そして自分自身も新しいステージに引き上げてくれる。気がついたら色んなものが変わっているのだ。自分も、世界も、見える景色も全てが変わる。変わった先の世界はきっと、自分自身を満足させるものになっていると思う。
 何も知らなかった19歳の未熟者でも、一年乗り越えて大きく変えてくれた。変わった先の人生を充実して過ごしている人間がここにいる。だから小さな勇気を持って、踏み出して欲しい。その勇気に応えるように、何かしらの発見を新しい世界は与えてくれるだろう。


 すべては自分次第。今の自分を作りあげてくれた緑のふるさと協力隊という機会に感謝している。もし、興味があれば自分の可能性を信じて、知らない世界への一歩を踏み出してみてはいかがだろうか。

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