【岡山県鏡野町】「いつでも帰ってこられる場所へ」
3月16日(土)の活動報告会をもって1年間の任期を終えた30期10名の隊員たち。
任期を終えたばかりの彼らが、緑のふるさと協力隊としての1年間を振り返って、今思うことを紹介していきます。
今回は、岡山県鏡野町で活動をした為国友梨さんです。
あっという間の2年間だった。
今年は1年のサイクルがわかっている分動きやすいだろうと思っていたけれど、なかなか思うようにはいかないこともあった。
初めての活動、はじめましての人、より深く関わる機会のあった人。2年住むうちに感じた田舎の気になるところ。きちんと形になるかわからないがまとめたいと思う。
今年印象に残った活動のひとつが「第2のふるさとづくりプロジェクト」の取材である。私が協力隊2年目を過ごすことを決めた理由の一つに鏡野町をいつでも帰ってこられる場所にしたい、でも1年ではまだそれができていなかったと感じていたことがある。その”いつでも帰ってこられる場所”を一言で表すなら「第2のふるさと」になるのだと腑に落ちたのがこの取材だった。
迎えた当日。インタビューの中で「鏡野町でどんな生活をしてるの?鏡野町の魅力は?」など質問を受けていろいろ話すうちに自分の気持ちが整理されていった。「鏡野町ってどんなところ?」という質問に自然に答えられたことに「私は鏡野町のことを説明できるようになっていたのか」という発見もあった。写真や動画の撮影ポイントを探しに移動する最中など「鏡野町良いところですね!」と言ってもらえることに「そうでしょう、そうでしょう!良いところなんです」と我がことのように喜ぶ自分に鏡野町が私にとって自慢の大切な場所になっていることを自覚した。
鏡野町に暮らして2年目。今回の取材は当たり前になってしまっていた自分の変化や町の良さの数々に気づかせてもらう貴重な機会となった。「協力隊という外の目で町の良さを見つけてほしい、それを気づかせてもらった」と地域の方が言うのはこういうことかなと実感することもできた。1年目ではできなかった体験だと思う。
協力隊になって変化したことはたくさんあるが、ひとつあげるなら度胸がついたことをあげたい。協力隊として活動するなかで以前とは比べられないほどたくさんの人と話をし、進んではやらなかったようなことに挑戦をさせてもらった。各種イベントでの司会や素人演芸祭・富文化祭のステージなど人前に立つ機会はその最たるものである。不安や緊張はあったけれどやってみた事実、そしてそれを無事に終えられた経験が私の自信になった。高校在学中に不登校になり、人並みの経験をしていないことが根強いコンプレックスになっていた私にとって、これから生きていく上でとても大切なものを掴むことができたと思う。
失敗してもいいから、まずはやってみる。その度胸をくれたのは間違いなく緑のふるさと協力隊としてすごした2年間である。
今年目標として掲げていた一つが「協力隊が関わってこなかった地域での活動」である。
昨年一度だけ香北・大町地区に活動で行ったが、より深く関わりたいと考えていた。結局行けたのは夏の川遊びの準備・当日と越畑ミニ紅葉祭りくらいでほとんど参加ができなかったが、その数少ない機会に地域の人と話せたりその地域の様子を知れたりしたので無意味ではなかったと感じている。私自身は初めましての人なのに「道の駅通信いつも見てるよ!」と言ってもらったり、たまたま埼玉から移住してきたご家族がいたり。想像より若い人がいてその集まりもあるなど発見が多かった。住んでいる地域を深く知るのも面白いし、広く町内を知るのも面白いし…両立できないのが悩ましいけれど、それぞれに実りがあるなと思った。
〇〇から来た△△さん。移住してきた人のことを地域の人はだいたいそう紹介してくれる。移住してきて10年以上経っていてもである。
その土地で生まれ育った人と移住してきた人、全く同じに扱われるかというとそうではないのだろうなと口ぶりの端々に感じることがあった。差別ほど攻撃的ではないけれど、どこか線を引かれているように見える。嫁いできた人や若い人はまた違うのかもしれないが、定年後の移住はよその人という感覚が消えないのだろうと思う。地域住民にはなれても“その土地の人”になるのは難しい。感情の問題で何をしたらなれるというものでもないからだ。
やめろと言ってどうなるものでもないだろうし、やめるべきことかもわからない。でも移住してきた人の側からすると居心地の悪さがあるだろうと察する。移住者同士のコミュニティを作ってそういった些細な、でも確かにある話を共有できると少し楽に過ごせるのかなと愚考する。地域の意識を変えることはできるのか、どうしたらそうなるのか。考え続けたいと思う。
進路はひとまず保留にして協力隊を終えた。昨年は「ひとまず地元に帰ります」と口にすることに後ろめたいような気持ちがあった。それはどうしたいという考えもなく、ただ問題を先送りにしただけという自覚があったからだと今なら思う。今年も「ひとまず地元に帰ります!」と言ってきたが、自分自身の気持ちはすっきりしている。もう少しあちこちを見てみたいな、次の仕事は接客をしてみるのもいいかもとしたいことがあるからかなと思う。
協力隊参加前の自分なら「すぐに働かないと!」と焦っていただろうけれど、保留にしても大丈夫と思う余裕も協力隊になって得たものだと感じる。自分の可能性を信じられるようになった、と言い換えてもいいのかもしれない。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?