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読書記録「家守綺譚」「冬虫夏草」

梨木香歩「家守綺譚」「冬虫夏草」を読んだ。

二作は連続した物語で、「家守綺譚」が初巻、「冬虫夏草」が二巻となっている。

まず感嘆したのは、その文章の技巧だ。二作ともに、現代日本語をもってして上代の日記文学を彷彿とさせるような古典調の文体を実現しており、あっと驚かんばかりの趣の深さだ。とくに「家守綺譚」の「木槿」の章の冒頭がすさまじい。声に出して読みたい日本語として日本中に知らしめたいくらいだ。

主人公は、売れない物書きの綿貫征四郎。行方不明になった友人・高堂の父親に頼まれて、住む人のいなくなった高堂の実家の家守として暮らしている。

「家守綺譚」では、季節の草木、それに人ならざるものたちとの隣り合った暮らしが描かれる。章の名前が「サルスベリ」や「ドクダミ」など必ず植物からとられており、当該の章名の植物と関わるエピソードが書かれる。

植物とともに、さも当たり前のように登場してくるのが人ならざるものたちだ。河童や人魚が庭の池に流れ着き、タヌキが人を化かし、老人に化けたカワウソが家の台所に鮎を置いていく。これらのような出来事が、一大事件として世の人を驚かせるのではなく、その土地の日常として織り込まれていく。また、私は先ほど植物と人ならざるものを分けて書いてしまったが、この世界では、2つの間に明確な境界線はない。それだけでなく、人と人ならざるものとの間も地続きであるように思われる。古来から日本の世界観がそうであったように。

「家守綺譚」を語るうえで忘れていけないのが、「ゴロー」と高堂だ。ある日、征四郎が出先から家に帰る途中で見知らぬ犬がついてくる。征四郎は犬を飼うことに後ろ向きだったが、この犬は家に居ついてしまい、征四郎は犬に「ゴロー」と名付ける。ゴローは賢く特別な犬で、ときに番犬として、ときに「仲介役」として活躍する。

そして実は、「ゴロー」の名前を考えたのは征四郎ではない。征四郎の友人の高堂だ。「あれ?でも高堂って行方不明になった人じゃなかったっけ?」と疑問に思った人は、ぜひ自分でこの本を手に取っていただきたい。

「家守綺譚」の続編である「冬虫夏草」では、ゴローが行方知れずになってしまう。物語のメインは征四郎がゴローを探す旅だ。行く先々で、征四郎はその土地の草木や暮らす人々、また人ならざるものと関わることになる。

正直なところ、私はこの二作を読み切れてはいない。一応最初から最後まで目を通しはしたのだが、物語の節々に施された暗喩、仕掛けを解ききれていないのだ。これから何度も読み返して、考察を深めていきたい。


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