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M004. 【哲学・本】ウィトゲンシュタイン関連4冊

※修正履歴※2020年11月12日:とある気づきがあって、「後期・『哲学探究』と、言語ゲーム」の後半部分を修正しました。要旨は変わりません。


「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本について書き留めるnoteの【3回目】です。

今回は哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889 - 1951)に関する、以下4冊の本。

古田徹也・著『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(2019年 KADOKAWA)。Kindle版の方で読みました。

橋爪大三郎・著『はじめての言語ゲーム』(2009年 講談社)。2013年に発行されたKindle版の方で読みました。

永井均・著『ウィトゲンシュタイン入門』(1995年 筑摩書房)。2005年に発行されたKindle版の方で読みました。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)。

ウィトゲンシュタインの思想については、哲学マップの記事でも少しだけ触れました。彼の哲学と「家族的類似性」のアイデアについて、より詳しく理解したいと思い、この度これら4冊の本を選びました。

難解なところも多く、僕には全てを理解することはできませんでした(そのため本記事ではイマイチな解釈のままで彼の哲学を紹介してしまうかもしれません…)。しかし「日常言語的には動物/植物とは何か?」という問いについて考える上で、重要な着想を得る事が出来ました。

にわか知識でざっくりとウィトゲンシュタインの哲学についてまとめると、彼の考え方は、言語の使われ方に限界や誤解があることを暴き、それを以て哲学的な問題を解決しようとするものです。

哲学とは、我々が所有する言語という手段(道具)によって我々の知性が魔法にかけられている事に対する、戦いなのである。

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

彼については天才的(変人的?)でドラマチックなエピソードが多く残されていて、ファンも多いらしく、彼を題材にした映画なんかもあるそうです。なぜか、いらすとやさんにも似顔絵の素材があります。

彼の考え方は、前期と呼ばれる時期と、後期と呼ばれる時期とで少し異なり、前期の代表作が『論理哲学論考』(略して『論考』)、後期の代表作が『哲学探究』(略して『探究』)です。家族的類似性の考え方は、『探究』の方で出てきます。

まず一般的なレビュー

ウィトゲンシュタインに関する本はとてもたくさんあって、どれを読んだらよいのやら…。とりあえず、『論考』の解説から読もうという事で、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 シリーズ世界の思想』から読み始めました。『論考』は非常に難解な著作だそうですが、この本は丁寧に整理して解説してくれます。『論考』の解釈の仕方はこれまでに色々出てきているそうですから、出版年の新しい解説本という点からも、この本は僕以外の初学者にもかなりオススメです。

次に、後期のウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方について知りたくなって、『はじめての言語ゲーム』を読み始めました。いかにも読みやすそうなタイトルじゃないですか。実際、文体はかなり平易で分かりやすいです。ウィトゲンシュタインのエピソードや、彼が生きた時代の社会情勢についても多く触れてくれているのが特徴です。しかし平易すぎて逆に物足りないというか、これで本当に理解したと言えるのだろうか?という気になってしまって、次に『ウィトゲンシュタイン入門』を読み始めました。

後から知ったことですが、『ウィトゲンシュタイン入門』は、タイトルこそ「入門」ですが、初学者にとって非常に読みにくい本だそうです。確かに、僕もはじめはさっぱり理解できなくて、今回noteにまとめるために改めて読んだら、じわじわ理解できるようにもなってきたという感じです。2、3冊目に読む本としてオススメしたい本ですね。ウィトゲンシュタインの哲学について、前期、中期、後期に分けて解説してくれています。

ここまでの3冊の本を読んでも、「家族的類似性」について多く文量を割いてくれる本がなかったので、それでは『探究』の邦訳本を読んでみようという事で手に取ったのが『『哲学的探求』読解』です。『探究』の邦訳本はいくつか存在していて、今月また新しい本が出るみたいです。何かのAmazonレビューで、数冊の邦訳を並べて比較してくれているものがあって、その中で黒崎さんの邦訳が一番読みやすかったため、この邦訳・解説本を選びました。この本は出版年が古く、もしかすると現在最前線のウィトゲンシュタイン研究者からすると物足りないところがあるかもしれません。

内容はというと、なかなかに読みづらいです。『探究』という著作はあまり体系的にまとめられた書き方はされておらず、色々な話題に触れる文章がダラダラと続く感じです。一通り読み終わると、なるほど言語ゲームという発想について語るからには、こういう書き方になるしかないかもな、とも思えてきますが、読みづらいものは読みづらいです。架空の対話者との会話形式で記述されるところが多かったり、反語表現が多かったりするので、文中でどこからどこまでがウィトゲンシュタインの主張なのか分かりづらかったりします。文量も多く、読破するのに体力が要ります。しかし、僕の持つ疑問に対して有用な知見が多く、「家族的類似性」についても思ってたより多く言及されていたので、僕としては満足でした。最新の邦訳本も、折を見て読んでみようと思います。

前期・『論理哲学論考』と、語りえないこと

さて、『論考』の哲学史的位置づけと、その内容は概ね次の通り。

実際、『論理哲学論考』は、現代哲学の最重要文献に数え入れられるものである。哲学の問題すべてを一挙に解決するという、哲学史上でも他に類例のないほど野心的な試みを遂行したこの書物は、同時にまた、ある思想的潮流の本格的な始まりを告げる記念碑的な仕事でもある。すなわち、言語の論理を分析することを通して哲学的問題に解決を与えるという、いわゆる「言語論的転回」である。

出典:古田徹也・著『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(2019年 KADOKAWA)

古来人々は、「哲学」や、その一部門としての「倫理学」、「美学」、「形而上学」といった名の下で、経験的な内容を超えた世界の本質や原理について問うてきた。そして、それに対する解答を探ってきた。たとえば、なぜ世界は存在するのか。人の生きる意味は何か。普遍的な倫理や美とはどのようなものか。魂は不滅なのか。神は存在するのか。世界は因果法則に従っているのか、等々。ウィトゲンシュタインの考えでは、これらの問題はすべて人々の言語使用の混乱から生じたものにほかならない。つまり、昔から哲学の領域でなされてきた大半の議論は、言語が従っている論理について人々が十分な見通しをもっていないがゆえに延々と続けられてきた、全く無意味な問いと答えの応酬にすぎない、というのである。『論考』の末尾には、次のような一説が結論として掲げられている。おそらくは、現代哲学で最も有名な文章のひとつだろう。「語りえないことについては、沈黙しなければならない」

出典:古田徹也・著『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(2019年 KADOKAWA)

様々な問い。「なぜ世界は存在するのか?」「神は存在するか?」などなど…。これらは全て、言語によって問われ、言語によって考えられ、言語によって答えられてきました。ウィトゲンシュタインは『論考』において、言語が世界について何か有意味なことを語るには、どういう条件が必要なのか考察します。そして言語によって表すことのできる事柄(=語りえること)には限界があることを示し、伝統的な哲学的問答は言語の限界の外にあること(=語りえないこと)であると言います。

『論考』においては、「●●は、△△である。」というような形式の、「世界の構造を写し取って論理的に物事を表現する記号の配列(=命題)」こそが言語であるとみなされているようです(例えば、「ミドリムシは微生物である」とか、「ここに顕微鏡がある」とか)。このことは、まず世界というものが、何某かの構造を持って存在していて、言語はそれを写し取る表現方法なのだ、ということのように聞こえます。しかし、ウィトゲンシュタインの発想の順序は逆らしく、まず言語とはそういうものであって、この論理的な言語が有意味に何事かを語るには、世界はある一定の構造を持っていなければならないはずだ、と考えます。まず言語の在り方を認めてから、その前提へと考えを進めていくのです。すると言語の限界が見えてきます。言語が有意味であるためには、ある前提が成立していなければならないはずだが、その前提については、言語で語り尽くすことができない、と言うのです。

例えば、「あなたの視野」という世界を考えます。今この文を読んで下さっているあなたは、正常な視力を持っているから、あなたの視野に僕が書いた文が映り込んで、この文を読めているのだと思います。あなたの視野が在るからには、あなたの眼球も存在するはずですよね。これは視野が在るための前提というやつです。ところであなたの視野に、正にあなたの眼球が直に映ることは、あり得るでしょうか? 視野の中に、視野を成り立たせる前提の存在は映りえない。視野が在るということが、眼球の存在を前提としているが、眼球は決して視野の中に映ることはない。見えないことについては、無視せざるをえない…。

本の中では、もう一つ、言語の限界を示す例えとして、ルイス・キャロルの寓話「亀がアキレスに語ったこと」の要旨が紹介されていました。

亀ははじめ、AであることとAならばBであることは認めているのに、Bであることを認めようとしない。そこで、アキレスは亀に、まずこの「論理法則」を納得させようとして「Aと、AならばBから、Bを導くことができる」という前件肯定式を受け入れるように求める。亀が難なくそれを受け入れたので、アキレスは得々として「今や、君は論理必然的にBを受け入れざるをえない」と言う。すると亀は、その論理法則(かりにPと名づけよう)を前提に加えないことには推論は完成しないと主張する。つまり、AAならばBだけではなく、それにP(Aでありかつ「AならばB」であるならばBである)を加えたとき、はじめてそこからBを導くことができる、というわけである。アキレスはしぶしぶそれを認め、「さて今や、君は論理必然的にBを受け入れざるをえない」と宣言する。すると亀は、今自分が認めた「AとAならばBとPからBを導くことができる」という規則をQと置き、それを前提に組み込むことを主張する。つまり、AAならばBPだけではなく、それにQを加えたとき、はじめてそこからBが導けるようになるはずだ(なぜなら、もしQを受け入れなかったならば、たとえ他のすべての前提を受け入れても、そこからBが帰結することはないであろうから)というわけである。しぶしぶそれを認めるアキレスの語調は、悲しげな響きを持ち始める。

出典:永井均・著『ウィトゲンシュタイン入門』(1995年 筑摩書房)

この、"前提への組み込み"は、この後、R、S、T…と永遠に続いてしまうことでしょう。視野と眼球の例えでは、「前提の存在に言及できない」という意味で、言語の限界を表現したつもりですが、こちらでは、「前提に言及できたとしても、前提の前提が問題になって、きりがない」という意味で、言語の限界を表現しています。言語(命題)が成り立つための前提となっている論理法則については、論理的な言語表現では語り尽くすことは不可能なのです。

しかし、もし論理法則にとらわれないような(=論理法則の外側にある)言語表現があれば、論理法則について語り尽くすこともできるかもしれません。例えば「ミドリムシは微生物である」は論理的な言語ですが、「であるミドリムシ微生物は」は論理法則にとらわれない言語表現です。しかし、人はこの論理法則にとらわれない言語表現を、意味ある命題として理解することはできないでしょう。

人々は論理的な言語によって物事を考え、論理的な言語によって物事を説明するので、論理的な言語の限界を超えた、論理の外側(前提)については理解することも想像することも出来ないのです。そして、伝統的な哲学の問答は往々にして、理解することも想像することもできないはずの、論理的な言語の外側に言及してしまっている。語りえないはずのことを、語りえると勘違いして、無意味な問答を繰り広げてしまっている、というわけです。

我々があれこれ考えたり、お話したりと、論理的な言語を使用しているからには、「私が存在している」ことや「世界が存在している」ことは、視野に映らない眼球のように、言語で語り尽くせない前提になっています。そのため「私」や「世界」の存在について問答することは、意味ある言語表現にはなり得ない、という具合……だと思います。

ところでこの、「言語には限界があって、外側は想像もつかない」とか、「伝統的な哲学の問答は言語の限界の外にある」とかいう『論考』の内容は、"語りえること"なのでしょうか? 言語の外側については想像することも出来ず、沈黙しなければならないはずなのに、『論考』自体が随分と言語の内と外について語ってしまっています。これについては、ウィトゲンシュタイン自身も承知の上だったようです。

私を理解するものは、私の諸命題を通過し ーそれらの上へー それらを超えて、上昇したとき、結局それらの無意味なことを知るにいたる。そのことによって、私の諸命題は何ごとかを明らかにするのである。(梯子を昇りきった後は、いわばそれを投げ捨てなければならないのだ。

出典:永井均・著『ウィトゲンシュタイン入門』(1995年 筑摩書房)

『論考』は、言語に限界があること示し、読者に気づかせるキッカケであって、気づかせるまでの過程は、やはり語りえないことを語ってしまっているもの(=投げ捨てなければならない梯子)ということだったようです。

後期・『哲学探究』と、言語ゲーム

『探究』で言及されるテーマは多岐にわたり、全てを理解することも、全てを紹介することも大変難しいです。この記事では中心テーマである「言語ゲーム」の話と、ミドリムシの分類について考える上で最も関係がありそうな、「家族的類似性」の話を取り上げます。まず『探究』は、次のような著作とのこと。

それは、標語的に言えば、「事象の探究から文法の探究へ」という事である。或いは「何に於いて成り立っているのか?から如何に用いられているのか?へ」という事である。私は、時には「言語論的転回」などとも言われるこのような転換に、西欧的哲学の終焉をみる思いがする。『探求』とは、我々の思考にそのような転換を迫る――真に革命的な――著作なのである。

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

さて『論考』においては、「世界について何事かを語る命題」こそが言語であるとされていました。ウィトゲンシュタインの目的が、伝統的な哲学的問答が「語りえないもの」であると確認する事だったとすれば、言語に対してこの理解で十分だったでしょう。

しかし、日常的に人々が使用する言語というものは、世界について何事か語る命題の形式だけではありません。挨拶だとか、「◇◇してほしい」という願望や命令だとか、とても多様な使われ方をします。後期のウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という見方は、言語が使用される全ての場面に及びます。そしてやはり、言語の使われ方を考察することで、誤解や錯覚を暴きます。では、ざっくりと言語ゲームという見方について、説明することにチャレンジしてみようと思います。

ある人Aさんが、知らない国の知らないゲームに参加しているとしましょう。Aさんにとってこのゲームは未知のゲームで、事前にゲームのルールは聞かされていません。それどころか、Aさんは知らぬ間に、気が付いたら、このゲームをプレイさせられていたのです。ルール違反をすると他のプレイヤーから怒鳴られます。他のプレイヤーは異国人なので何を言っているか分かりませんが、どうやら怒られたり、間違いを指摘されたりしたように思われます。しかしプレイしている内に、Aさんは次第にルールを理解できてきたようで、ルール違反でないゲームプレイが出来るようになってきました。ただし未だに、正確なルールは未知のまま。それでもほとんど不都合なく、Aさんは他のプレイヤーと一緒になって、プレイを続行しています。そして実は、このゲームのプレイヤー達は皆、Aさんと同じ境遇でゲームをプレイし始めた人たちだったのです。誰も正確なルールを知らないまま、ゲームをプレイしている。超えてはいけなさそうな線が引かれていたり、勝敗を決める得点があったり、チームが3つに分かれていたり……決まったルールがあるようにしか見えないプレイヤーの動きとゲーム進行です。でも本当は誰も真のルールを知らないのです。もしかしたら、真のルールなんて無いのかもしれません。チームの数が2つでもなく、4つでもなく、3つでなければいけない根拠を誰も分かっていません。当然ながら、Aさんと、他のあるプレイヤーでは、異なったルールの解釈をしている可能性もあります。Aさんが絶対に超えてはいけない線だと思っている線を、他のプレイヤーは、超えてしまうと得点が下がるからなるべく超えない方が良い線、と思っているかもしれません。それでもこのプレイヤーとAさんの行動はある程度一致しているので、問題なくゲームが進行します。

こんな風に見えるのが、人々の言語の使われ方、という事のようです。

人々は何故、多様に言語を使えているのか? と考えるにあたり、人々はどのようにして、言語を習得したのか? と考えることが有効です。

「机」と言えば、だれだって、ああ机のことね、とわかる。これは、なぜなのか。あんまり当たり前で、ふだんそんなことを、考えたりしない。でも、いざ説明しようとすると、これはけっこうむずかしいことなのだ。机がなにかを、言葉で説明したらどうか。でも、基本的なことほど、うまい定義をみつけるのがむずかしい。それに、定義に使った言葉(たとえば、板とか脚とか)を、もう一回説明して下さいと言われてしまいそうだ。(その説明を続けていくと、ぐるぐる回りになる。) …(中略)… 誰か(Aさんとする)が、机はなにか、わかっているとする。あなたが、机がなにか、わからなかったとする。そこでAさんは、いろんな机を順番にもってくる。これも机。これも机。どの机も、ちょっとずつ違っている。形が違う。脚の数が違う。大きさが違う。色が違う。材料が違う。……。でも全体として、どこか似ている。(これを「家族的類似」という。どっかの家族みたいに、なんとなく互いに似ているのだ。)それを順番に見ていくうちに、あなたはやがて、机がなにかを理解する。そして"わかった!"と叫ぶ。わかってしまえば、もうそれ以上、机を持ってきてもらう必要はない。なぜ、わかったのか。それはわからない。とにかくわかった。では、机とはなにか。説明できるとは限らない。定義できるとは限らない。 …(中略)… 有限個(ごく少数)をみるだけなのに、数えきれない場合にあてはまる規則(ルール)を理解する。こういう、なんとも不思議な能力によって、人間は言葉の意味を理解する。 …(中略)… 「ルールを理解する」のと、「ルールを記述する」のは違う。「机」なら「机」という言葉の、意味がわかることと、定義できることは違う。小さい子は、言葉を自然に使えるようになる。でも「言葉を定義してごらん」とか「文法を説明してごらん」とか言われても、説明できない。なにかを理解したり、なにかができたりすることのほうが根本で、それを説明することのほうは、二次的(派生的)である。 私たちが言葉を話せるようになるのは、言葉を理解したからであって、文法を教わったからではない。言葉の文法はあとから教わった。(それに、そもそも言葉がわからないと、文法を教わることができない。)これは、言語ゲームの重要な性質である。

出典:橋爪大三郎・著『はじめての言語ゲーム』(2009年 講談社)

人間は誰でも、もう世界が始まっているところに、遅れてやってくる(幼児として生まれる)。はじめ、この世界がどんなルールに従っているのか、ちっとも理解できない。でも、それを見ているうちに、だんだんわかるようになる。――これが私たちに共通する、この世界についての根源的な体験ではないだろうか。 …(中略)… 言葉はなぜ、意味をもつのか。言葉はなぜ、世界のなかの事物を指し示すことができるのか。それは、言葉が、言語ゲームのなかで、ルールによって事物と結びつけられているからである。そのことは、どうやって保証されるか。そのことが、それ以上、保証されることはない。人びとがルールを理解し、ルールに従ってふるまっていること。強いていえば、それだけが保証である。 このように考える『探究』は、「言葉は、なぜ意味をもつのか」という問いに対して、『論考』とは違ったもうひとつの解答を与えている。『論考』はその問いに、「言葉と世界とは、一対一に対応する」から、と答えた。ではなぜ、一対一に対応するのか。その対応は、説明されない。ただ、前提されるだけだった。『探究』はその問いに、「人びとが言語ゲームをしている」から、と答える。言語と世界との対応は、言語ゲームのなかでうみ出されるのだ。ではなぜ、人びとは言語ゲームをすることができるのか。それは、説明の必要がない、出発点である。

出典:橋爪大三郎・著『はじめての言語ゲーム』(2009年 講談社)

人々は色々な語句を使用して日々暮らしていますが、全ての語句について、例えば辞書で調べて、その意味を暗記している人は居ないでしょう。人はこれまで経験してきた言語の使われ方(ルールらしきもの)から、自然と自分の言語の使い方も形成していき、「●●」という語をこの場面で使うのは違和感があるとか、「△△」という語が自分の感情を表すのにぴったりだとか、そういった、明確な根拠には依らない、感覚で言語を使っていくことが多いように思えます。大抵の場合、「違和感」や「ぴったり」の具合は近しい人々の共同体ではほとんど一致しているので(そもそも、その共同体で暮らす経験により、これらの感覚は養われてきた)、この共同体においては、言語の使用が何らかのルール(言語をどんな状況でどう使うべきなのか)に従っているかのような状態ができあがります。”従っているかのような”というのが重要だと思います。言語についての明確なルールは、『論考』でいうところの「語りえないもの」で、明確なルールが言語使用の前提として有るとしか思えないし、そうとでも思わないと言語を使う事もできないけれど、明確なルールが有るとか無いとかは語り尽くせないものであって、共同体における言語の使用に、その存在が示されるのみです。

まず明確なルールがあって、それに従う言語の使用という事ではなく、逆に、まず言語の使用があって、そこに明確なルールが存在しているかのように示されるというのが、ウィトゲンシュタインの哲学のポイントのようです。ここは、やはり『論考』と共通した考え方があるように思えます。

「"美しい"とは何か?」といった、言葉の使用の明確なルールについて問いただそうとする伝統的哲学的問いも、まるで「美しい」という言葉の使用方法に明確なルールが有るかのように見えるから問いたくなるけれど、それについては語りえないことです。言語に対する「◆◆とは何か?」という、言語ゲームのルールについての問いは、いわゆるメタな発想であって、本来は言語の外側に出ないと問いただせない内容です。しかし『論考』で確認したように、我々はどうしても言語の外から物事を理解する事が出来ないので、語りえないのです。そこを無理して、「◆◆とは何か?」という形式の、◆◆の中に「美しい」を入れてしまうと、チグハグな事が起こります。本来は「○○は美しい」とか、「▽▽は美しくない」とか、まるでルールが有るかのように現に使用されている、この形式が「美しい」という言葉の全てなのです。バレーボールをしているところにサッカーボールが放り込まれても、トスやレシーブされるだけで、サッカーボール本来の使われ方が現れることはありません。サッカーボールの本質は、サッカーの中でパスやドリブルされることです。「"美しい"とは何か?」という文を作ってしまった時点で、「美しい」に対する錯覚が始まっているのです。

哲学者たちが或る語――例えば「知識」、「存在」、「対象」、「私」、「命題」、「名前」、等々――を用い、そして事の本質を把握しようと試みるとき、人は常に自問しなくてはならない:それでは一体この語は、そこにその語の故郷があるところの言語ゲームに於いて、確かに事実そのように用いられているのか?―― 我々はこれらの語を、それらの形而上学的使用から日常的使用へと、連れ戻すのでなくてはならない。

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

日常言語的な「動物」という言葉についても、「猫は動物である」とか、「チューリップは動物でない」とか、こういった使われ方が、「動物」の全てという事でしょう。「動物とは何か?」などと、明確なルールについて問いはじめた時点で、日常的な「動物」という言葉の本質についての錯覚が始まる危険があります。

ところで、明確なルールについて言及できないとなると、言葉の使用方法(例えば「動物」という言葉をどんなときに使用するか)の細かい部分は、個々人がそれぞれの人生の中でどんな経験を積んできたかに依存して変化し得るでしょう。ある人がミドリムシのことを、「動物である」と即答するかどうかは、ここにかかっています。このような言語使用に許容されるブレのようなものが、「家族的類似性」として現れるのかもしれません。

家族的類似性と、ぼやけた境界

『探究』の中の、言葉の意味についての考察において、「家族的類似性」という考え方が登場します。

まあ例えば、我々が「ゲーム」と呼ぶところの事象について、考察しよう。私は、盤ゲーム、カードゲーム、ボールゲーム、格闘ゲーム、等々、を思っているのである。何が、これら全てに共通しているのか?――「それらには何か或るものが共有されていなくてはならない。さもないと、それらは「ゲーム」と呼ばれないから」などと言ってはならない。――そうではなく、それら全てに何か或るものが共有されているか否かを、良く見るべきなのである。――何故なら、君がそれらを良く見れば、それら全てに共有されている何か或るものを見出す事はないにしても、しかし君は、そこに類似性や血縁関係を見出すであろうし、しかも場合によっては、或る完全な系列をも見出すであろうから。先に言った事を改めて言えば、こうである:考えるな、見よ!―― …(中略)… そして今や、これらの考察の成果は、こうである:様々なゲームを順次見てゆくと、我々はそこに、相互に重なりあい交差しあう種々の――そして、大きな或いは小さな――類似性の、複雑な網状組織を見るのである。

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

私はこの類似性を、「家族的類似性(Familienähnlichkeit)」という語による以外、より良く特徴づける術を知らない;何故なら、家族のメンバーの間に成り立つ――体格、顔つき、眼の色、歩き方、気質、等々に於ける――種々多様な類似性は、当にそのように相互に重なりあい交差しあっているのであるから。――そして、私はこう言うであろう:「ゲーム」は一つの家族を構成しているのだ。そして同様にして、例えばいろいろな種類の数――基数、序数、自然数、整数、有理数、無理数、実数、虚数、複素数、等々――も、一つの家族を構成しているのである。しからば、何故我々は、或るものを「数」と呼ぶのか? さようそれは、その或るものが、人がこれまで数と呼んできた多くのものと、或る――直接的な――血縁関係を持っているからである;そして、この事によってその或るものは、我々がやはり数と呼ぶ他のものと、或る――間接的な――血縁関係を持つのである――と言えよう。そしてこのようにして我々は、我々の数の概念を拡張するのである;それは丁度我々が、糸をよる際に、繊維と繊維をより合わせるように、なのである。そしてここで注目すべき事は、糸の強さは、何らかの繊維がその糸の全体を貫いて通っている事にあるのではなく、多くの繊維が相互にずれながら重なりあっている事にあるのである、という事である。

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

ある言葉が指し示すものについて、全てに共通するものが無くてよい、というのが重要ですね。このことをベン図を使って作図してみました。

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またいずれ記事にしたいところですが、実は生物の分類学の歴史を見てみると、★を探そうとする探求の意志を感じます。分類学の話は専門的な用語の話ですが、日常的な言葉においては、ウィトゲンシュタインの言うように、全てに共通な性質★を持たないもの達も、共通の言葉で指示され得るということですね。

ところでベン図に示したような、複数の集団を加え合わせた集団を、論理和と呼んだりします。なるほど家族的類似とは、全てに共通な部分を持たなくても良い論理和のことか、というと、ウィトゲンシュタイン的には、そうでもないようです。

[対話者は言う。]「よろしい。そうであるならば、君にとっての数という概念は、かの一つ一つ相互に血縁関係にある諸概念――基数、序数、自然数、整数、有理数、無理数、実数、虚数、複素数、等々――の、論理和として説明されるのだ。そして同様に、ゲームという概念は、対応する多くの部分概念の論理和として説明されるのだ」――[ウィトゲンシュタインは言う。]しかし、そうである必要はない。何故なら、確かに私はそのようにして「数」という概念に確固たる境界を与える事は出来る;即ち私は「数」という語を、そのようにして確固たる境界を与えられた概念に対する記号として、用いる事が出来る;しかし私は「数」という語を、その概念の範囲が境界によって閉じられていないようにも、用いる事が出来るのであるから。そして我々は確かに「ゲーム」という語を、そのように用いているのである。一体、ゲームという概念は如何に閉じられるというのか? 何がなおもゲームであり、何がもはやゲームではないのか? 君はゲームという概念の境界をはっきり言う事が出来るか? 出来ないであろう。君はゲームという概念に境界を引く事は出来る;何故なら、ゲームという概念には境界は未だ全く引かれてはいないのであるから。(しかし、君がこれまで「ゲーム」という語を用いたとき、この、ゲームという概念には境界は未だ全く引かれてはいない、という事が君を悩ます事は、全く無かったのである。) [対話者は言う。]「しかしそうすると、語の使用という事は、規則によって規制されてはいない事になってしまう;そして、我々が語で行なう「言語ゲーム」は、規則に従ってはいない事になってしまうのだ。」――[ウィトゲンシュタインは言う。]そんなことは無い。大切な事は、こうである;言語ゲームというものは、隅から隅まで規則によって縛られている、というわけではないのである;しかしまた、例えばテニスには、人がボールを打つ高さや強さについての規則など、存在しないが、[したがって、テニスというものは、隅から隅まで規則によって縛られている、というわけではないのであるが、]しかし、テニスはやはりゲームであり、規則も持っているのである。[そして勿論、同じ事が言語ゲームにも言えるのである。]

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

つまり日常的な言葉――それも、気が付いたら自然と使うようになっていたような、いつその言葉を覚えたのか記憶にないような言葉――については、ハッキリした境界線で区切られずに、ぼんやりとした範囲で、ものを指し示すことがあるというわけですね。

ところで境界の話はソシュールの時にも出てきましたね。ソシュールの言語学では、言葉は、世界を何らかの基準で切り分けた結果の部分とのことでした。「切り分ける」という表現が使われると、言葉の示す範囲はハッキリした境界線で囲われているような感じがしてしまいますが、そうでは無いということですね。

シャープな境界と、ぼやけた境界について、『探究』の中ではもう少し深掘りされています。

先に[前節で]言ったように、我々は――或る特定の目的のために――或る概念に境界を引く事は出来る。それで我々は、そうする事によって、初めてその概念を使用可能にするのか? その特定の目的のために、というのでないならば、全くそうではない! 例えば、1歩=75 cmという定義を与える人が、初めて「1歩」という単位(概念)を使用可能にするわけではないように、或る概念に境界を引く人が、その概念を使用可能にするわけではないのである。そして、もし君が「しかし以前には、「1歩」という概念は、不正確な単位であったのだ」と言いたいならば、私はこう答える:よろしい;それなら、それは不正確な単位であったのだ、としよう;――とはいえ君は、なお私に正確という事の定義を与えるという、義務を負うのである

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

人は、「ゲーム」という概念はぼやけた境界をもった概念である、と言う事が出来る。――[対話者は言う。]「しかし、ぼやけた境界を持った概念は、そもそも概念なのか?」――[ウィトゲンシュタインは言う。]おそらく君は、問うであろう:シャープでない肖像写真は、そもそも肖像写真なのか、と。確かに人は、シャープでない肖像写真をシャープな肖像写真で置き換えた方が、常に好ましい結果を得る事が出来るのか? シャープでない肖像写真こそが、しばしば、当に我々が必要とするものではないのか? フレーゲは概念を領域と比較して、こう言う:人は、ぼやけた境界を持つ領域を、そもそも領域と呼ぶ事は出来ないであろう。おそらくこれは、我々は、ぼやけた境界を持つ領域では何事をも行なう事が出来ないであろう、という事を意味しているのである。――しかし、「君はおおよそこの辺りに立っていよ!」と言う事は、無意味であろうか?

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

もし或る人が或るシャープな境界線を引いても、私はそれを、私もまた常に引こうと欲してした境界線として、或いは、私自身は既に心の中では引いていた境界線として、認知する事は出来ないであろう。何故なら、私は全く境界線を引こうとは欲していなかったのであるから。それ故、人はこう言う事が出来る:彼の概念は私の概念と、同じではないが、血縁関係はあるのである。そして、ここに於ける血縁関係とは、言うなれば、――一つは、ぼやけた境界線で囲まれた色面で構成され;他は、似た形をし、似た配置をとってはいるが、しかし、シャープな境界線で囲まれた色面で構成されている――二つの絵の関係なのである。それ故、彼の概念は私の概念と血縁関係があるという事は、彼の概念は私の概念と差異があるという事が否定し得ないように、否定し得ない事なのである。

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

[対話者は言う。]「しかしその説明は、そうは言っても、不正確ではないのか?」――[ウィトゲンシュタインは言う。]そうである;人は何故その説明を「不正確」と呼んではならないのか? [そう呼びたければ、そう呼んでもよかろう。]しかし今や我々は、「不正確」という語で何を意味するのか、という事だけは理解しなくてはならない! 何故なら、「不正確」という語は、「使用不可能」を意味しているわけではないのであるから。そして我々はなお、その説明とは対照的に、我々が「正確」な説明と呼ぶものについて、よく考えなくてはならない! …(中略)… [ウィトゲンシュタインは言う。]「不正確」、それは本来非難の言葉であり、「正確」、それは本来賞賛の言葉なのである。そしてこの事が言う事は、確かに、こうである:不正確では、より正確な場合のようには、完全に目的を達する事が出来ない。それ故、ここに於ける問題は、我々が「目的」と呼ぶものは何か、という事なのである。もし私が、太陽の我々からの距離を1 mの正確さで述べないならば、そして、家具職人に机の寸法を0.001 mmの正確さで述べないならば、私が言う事は不正確なのであろうか? [勿論、そうではない。] 我々は、正確さの理想として一つの理想を予め予定する事は出来ない;我々は、そのような理想として何を想像すべきかを――君自身が、何がそう呼ばれるべきかを、確言するのでない限り――知らないのである。しかし、そのような確言――君を満足させる確言――をうまく言う事は、君にとっては困難な事になるであろう。

出典:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)

動物/植物とは何か?、という疑問では、専門用語についての問い方がシャープな境界線の問いであって、日常言語についての問い方はぼやけた境界線の問いなのでしょう。そして、シャープな境界線を要するときは、なにか目的があるはずとのこと…

では、「ミドリムシは動物か?植物か?」という問いが発せられるとき、質問者の目的は何なのか…?

もしかすると、この質問に正しく回答するには、質問の目的を探る方法が、まず必要なのかもしれないですね。

おわりに

ウィトゲンシュタインの哲学、難解なところも多かったですが、参考になるものでした。家族的類似性や、ぼやけた境界、「現にこうなっているからには、こんな前提があるはずだ」とか、「あるはずの前提について表現しきれない」とか、興味深いアイデアをたくさんもらった気がします。

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