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M002. 【哲学・本】哲学マップ

「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本について書き留めるnoteの【1回目】です。

今回は貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)です。2014年に発行されたKindle版の方で読みました。

僕は哲学については全くの初学者で、最近まで学ぼうとしたことはありませんでした。受動的に既得だった哲学についての知識といえば、ソクラテスと無知の知、プラトンとイデア、科学はもともと哲学だった、デカルト「我思うゆえに我あり」、数学を極めると哲学になるらしい、日常の何気ない出来事を精緻に説明しようとする学問……といったところでしょうか。

そんな具合ですので、まずは入門書を手に取ろうと思い、この本「哲学マップ」を選びました。amazonの商品ページによると「哲学を活用するためのガイドブック」とのこと。僕にぴったりです!

この本は数ヵ月前に読了し、その後他にも何冊か哲学関係の本を読んでいて、今回noteにまとめるにあたって再度目を通しました。

まず一般的なレビュー

非常に分かりやすかったです!

基本的には西洋哲学史的な内容で、古代ギリシャから現代まで、主要な西洋哲学者の考えが、時系列に沿って各時代の社会情勢と共に記載されています。

一方で全体を俯瞰して哲学的な発想や問いの特徴をまとめてくれたり、時代を超えて類似している思想に言及したりと、単なる歴史の記述に留めない工夫があります。後半では哲学史を踏まえて、「真理」「正義」といったテーマを哲学的に思考する、ちょっとした実践例もついています。僕のように特定の問題意識を持って哲学を学ぼうとする者には最適の入門書でした。

各思想について簡潔にまとめられているので、哲学全体の内カバーできている領域はおそらく狭いでしょう(僕自身が哲学全体に詳しいわけではないのにおこがましいですが、たぶん狭いです)。科学哲学についての言及もありますが少ないですし、クリプキーやパットナムの名前が出てこないところからして分析哲学についても詳しく書かれていないと思います。

「動物/植物とは何か?」 ー 普遍・差異

僕の持つ疑問の一つに、「動物/植物とは何か?」というものがあります。この問いが(この問いの質問者が)期待する回答は、「動物/植物とは〇〇である!」という、動物/植物についての定義です。「定義とは何か?」というと、、、これはまた込み入った議論になりそうですが、例えばWikipediaには次のような記載があります。

哲学用語の「定義」とは、本質を表現する命題のことである。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「定義」のWebページ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E7%BE%A9)(2020年9月27日閲覧)

つまりこの問いは、動物/植物の本質の表現について聞きたい問いということですね。

この「~とは何か?」という形式の問いは、この本に拠れば "哲学的問いの第一段階" にあたるとのことで、本の中でも初めの方から登場します。しかし問いに対する答えである「本質」については、全編通して様々な考え方が登場します。

僕はそれらを読んでいて、大まかに「本質」については、古代・中世から現代にかけて、普遍的・共通項的なものから否定的・"差異項"的なものへと考え方が広がっていくように感じました。

以下に該当箇所群を引用します。

【引用① ソクラテスについての部分】

日常、われわれが定義や本質を求めないのは、それぞれの概念や言葉の使い方を体得しているため、いちいち言語化する必要がないからである。定義や本質をあえて問うことによってソクラテスは、日常のあり方を食い破り、その外へ出ようとした。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

【引用② 古代~中世の西洋哲学についての部分】

イデアやそれにあたるもの(諸物の本質、理想、原因など)は、現実の諸物に先立つのか(プラトン)、諸物に内在するのか(アリストテレス)、諸物のあとに生まれるのか(中世唯名論)が問題となり、ついには各人の特殊性や認識能力が浮上する(スコトゥス、オッカム)。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

【引用③ トマスについての部分】

トマスによれば、まず、ある存在者(たとえばペーパーナイフ)がもつ性質には、本質と偶有性がある。…(中略)…金属や化学樹脂製のペーパーナイフもあるのだから「木製である」は、一部のペーパーナイフが偶然に有する性質「偶有性」である。それに対してペーパーナイフの本質とは、ペーパーナイフだったらかならずあてはまり、ペーパーナイフ以外にはあてはまらないような性質である。たとえば「刃をもつ」は、ペーパーナイフならかならずもつ性質だが、この性質があったからといってペーパーナイフであるというわけではない(出刃包丁かもしれない)ので、ペーパーナイフの本質ではない。とりあえず、「紙を切るに十分な程度の刃をもつ道具」なら、すべてのペーパーナイフにあてはまり、またペーパーナイフ以外にはあてはまらない、その本質であると言える。この性質をもつがゆえにペーパーナイフはペーパーナイフたりうるのである。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

【引用④ ロックについての部分】

色のように複数の単純観念に共通の性質を取り出してえられるものを抽象観念とよぶ。ちなみに、抽象とは、白、赤、黄色などの差異(種差)を捨て去り(捨像)、共通項を取り出すことである。数学のような知的活動、あるいは言語活動などが、単純観念からの複合と抽象という基本的道具だけを用いていかにして成立するかをパズルのように解いてゆく作業が、ロックの『人間知性論』だ。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

【引用⑤ ニーチェについての部分】

ニーチェは、善や真理、美といった価値が超越的実体に根拠を持つのではなく、たんなる差異であるとした上で、その差異すらも根底にある諸力のせめぎ合いから生まれては消えるものだとする。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

【引用⑥ 後期ウィトゲンシュタインについての部分】

全体に当てはまる特徴はなくても、相互にどこか似通い合いながら形成されるゆるいネットワークのことをウィトゲンシュタインは「家族的類似」とよぶ。こうして、プラトン以来の本質主義が否定され、反-本質主義への道が開かれる。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

【引用⑦ オースティンについての部分】

何かについて「本物の」と言われるのは、それが「ニセ物」でありうるときだけなのであり、「本物の」という言い方は「ニセ物」という否定的言い方の可能性があるときに、「ニセ物」という事態を否定するためにのみ使われる。このように、否定的言い方の可能性によって有用となる言葉をオースティンは「否定主導語」とよぶ。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

【引用⑧ ソシュールについての部分】

ところが、「右」という語の場合、なにかを集めてできた”右”という概念は存在せず、「右」を説明するには「左の反対」というしかない。このように、他の語との差異によって語の意味が規定されるという事情は、あらゆる語にあてはまる

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

【引用⑨ デリダについての部分】

「イデア/現実」の場合、経験し確かめることができるのは現実の個物だけであり、イデアは個物とその特徴が反対のものとしてしか特定できない。すなわち公式には前項があって後項が生み出されるとされているものの、実際には後項があって前項が生まれている。おなじことは、右にあげたすべての二項対立に言える。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

引用④までは、物事の本質については、諸物に普遍的に共有される共通点から表現されることが期待されていて、その本質がいかに存在しているか、またはいかに認識されるかについて取り沙汰されているようです(=本質主義?)。

一方引用⑤以降では、物事の本質は、諸物間の差異に基づいて表現されるものとして扱われる傾向を感じます(=反-本質主義?)。

動物の本質について考えると、前者では「動物」は、ネコ・ニワトリ・トカゲ・メダカ・タコ・カブトムシなど、動物と呼ばれる生物全てに共通し、かつ動物と呼ばれない生物には見られない性質を以て「動物とは○○である!」と定義できるとするのに対し、

後者では「動物」は、ネコ・ニワトリ・トカゲ・メダカ・タコ・カブトムシなど、動物と呼ばれる生物全てに共通する性質はなくても良くて動物とは呼べない生物たち(例えばタンポポ・イチョウ・ワラビ・ゼニゴケなどの植物)ありきで、それらとの差異を以て「植物と動物は●●という差異によって区別できる!」と定義されそうです。

後者の定義の仕方は、はじめに期待されていた回答の形式(「動物/植物とは○○である!」)とは異なりますが、僕としては後者の方が納得感を持てます。確かに、「動物とは呼べない生物」が存在していないと、「動物」という言葉は使われないはずですよね。すべての生物を動物と呼べるなら、「動物」と「生物」は定義が等しくなって言葉が消滅してしまいそうです。

とすると、新たな疑問として次の2つが想起されます。

疑問① 「動物とよべない生物」=「植物」ということでよいのか?

疑問②「●●という差異」というのは具体的にはどんなものを指すだろうか?

これは今後引き続き吟味して考えていく必要がありそうです。

二律背反(アンチノミー)

背反した二つの命題が同時に成立してしまうか、あるいはどちらも不成立となって決着がつかない事態を「二律背反(アンチノミー)」と言うと、カントに関する記述の中に書いてありました。

ところで「ミドリムシは動物である」と「ミドリムシは植物である」は二律背反になり得る命題の組み合わせでしょうか? 二つの命題が背反しているかどうか、考える必要があるように思います。

例えば上の疑問①についての答えで、「動物とよべない生物」=「植物」が真である、となった場合、二つの命題は背反するのでしょう。「ミドリムシは動物である」と「ミドリムシは植物(=動物とよべない生物)である」が同時に成立することは、少なくとも論理的には無さそうです。

全体をカバーする思考法

この本の中では ”哲学的発想法②” として、「全体をカバーする思考法」が挙げられています。先の本質についての議論もそうですが、ときに哲学者には「すべての○○に共通する性質とは…」「万物は▲▲で出来ている!」というような、全体をカバーする体系を構築しようとする志向が見られます。

分類学にも、全体をカバーする思考法が含まれるように思います。つまり、全生物を一つの体系で分類しようとする姿勢です。この姿勢の善し悪しはまだよく分かりませんが、他の諸科学にも見られる気がしていて、例えば全宇宙に普遍的な法則を見出そうとしている物理学は好例ではないでしょうか(あまり物理学に詳しくないので誤解があるかもしれません)。

このことは、後々分類学の歴史や科学哲学について調べるときに意識しておきたいポイントなので、覚えておこうと思います。

プラグマティズム

分類学も、物理学のように何か自然法則を見出そうとする活動でしょうか? 個々の生物には「動物」という言葉で表されるべき法則や「植物」という言葉で表されるべき法則があり、それを写し取る鏡が分類体系なのでしょうか?

クワインによれば、科学とは、自然に内在する法則をそのままうつしとった「自然の鏡」ではない。自然に内在する法則をうつしとるためには、仮説と実験結果との一対一対応が成立していなければならないが、実際にそれは成立しえない。ところがにもかかわらず、科学の内容がひとびとに認知され、知られていれば、それをもとにお互いの情報共有と合意形成(コミュニケーション)は成立し、事柄が説明されたことになる。こうした実践的目的のための有用性をもつ道具が科学だという考え方を「プラグマティズム(実用主義)」という。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

ここで引用したプラグマティズムの考え方によれば、そうではないようです。「動物」や「植物」という言葉や理論で生物が分類されることは、科学的なコミュニケーションが成立することに役立つ道具であり、自然に内在する法則を写し取ったものではないと。科学とはそういうものだそうです。

しかし全てそのように言い切ってしまってよいのでしょうか? やはり「動物」に分類されるにはそれなりの、「植物」に分類されるにはそれなりの、何か自然に内在する性質か法則かを手掛かりにして、分類体系は作られているように思えます。このあたりは分類学とその歴史を調べるときに、念頭に置いて考え続けていきたいところです。

複雑適応系

本の後半には、生物に関わる言及もありました。

近代の諸装置は、それを批判すると称するひとびとも含めて同一性の呪縛にとらわれている。ひとつは、種や個人などの「自己同一性」であり、もうひとつは、すべての区別や境界の根拠として設定される「同一者」だ。たとえば、進化論の系統樹生態系の食物連鎖は、唯一の起源から多様な種が発生し、多様な生物種が唯一の頂点に収束するツリー状構造として構想されている。ところが、生態系の中間に位置する植物が腐敗すれば細菌の食物となり、頂点に位置するワシの体内には、寄生虫が住む。種ではなく個体に注目すれば、すべての個体はあらゆる回路を経て他のあらゆる段階の個体と関係し、横断線が縦横にのびる「リゾーム(根茎)」構造の内にあることが分かる。リゾームは、すべての起源・目的となる同一者を求める西欧形而上学的思考の対極にある。…(中略)…固定された枠組みを流動化するメカニズムを示すのが「複雑適応系」の考え方だ。…(中略)…社会や経済、歴史は巨大複雑適応系である。なんらかの固定したシステムができあがっているように見えても、それは、複雑なシステムが自己生成、自己展開する中での過渡的局面にすぎない

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

もしかすると、既存の分類体系はここでいう「なんらかの固定したシステム」であり、先に考えた、分類体系の手掛かりになる何か自然に内在する性質か法則は、「複雑なシステムが自己生成、自己展開する中での過渡的局面」なのかもしれません。

「できあがっているように見える固定したシステム」ではなく「自己生成、自己展開する複雑なシステム」に意識を向けることができれば、自然に内在する法則をそのまま写し取った「自然の鏡」を作り上げることもできるのでしょうか。

複雑適応系の考え方は、おそらく生物の進化について考える上で重要です。いまの生物学は進化論抜きには語れないところがありますから、今後生物学について調べるなかでも、引き続き重要な考え方になるでしょう。

レンズ製作技術と定説の否定

最後に本から引用する箇所として、些細な記載かもしれませんが以下を挙げます。

ルネ・デカルト(1596-1650)は、法服貴族を親にもち、キリスト教の学校で教育を受けた秀才だった。ちょうどその頃、レンズ製作の技術が進み、望遠鏡が改良されたことから、ケプラーやコペルニクス、ガリレイによって、火星などの惑星にかんする新発見が相次ぎ、その結果、アリストテレスやプトレマイオスによって提唱され、キリスト教会の公式見解でもあった天動説が否定される。自身、三十年戦争に従軍したこともあって、デカルトはやがて、学校で教えられた、キリスト教をベースにした知識に疑いをもつにいたる。こうしてかれは「なにも信じられない」という状態に陥った。

出典:貫成人・著『哲学マップ』(2004年 筑摩書房)

どうやら人間には、自分の目で見た物事を手掛かりにして、見たことのない物事をも含む(≒全体をカバーしようとする)定説を作り上げようとする傾向があるようです。しかし技術の進歩によって文字通り視野が広がると、見えなかった物事が見えるようになり、以前まで見えていた物事だけで作り上げた定説が、誤っている可能性に気づかされます。

レンズ製作技術の向上はその分かりやすい例で、ここでは望遠鏡の登場が天動説を揺るがしています。これは「ミドリムシは動物か?植物か?」という問いが生じる背景にも大きく関わっている気がしています。かつて人間は肉眼で見える生物だけを手掛かりに、全生物を動物/植物に分類する体系を作り上げたと思われます。しかしレンズ製作技術の向上により顕微鏡が開発されたことで、肉眼では確認できなかった微小な生物が身近に存在していたことに気づかされました。はたして以前まで肉眼で見える生物を手掛かりに作り上げてきた分類体系は、顕微鏡下の微小な生物をもカバーできる定説なのか…? レンズ製作の歴史と分類学の歴史を並行して調べると、なかなか面白そうです。

考えてみると「定説が揺るがされる」多くの場合は、「視野が広がった」ことを背景としている気がします。文字通りの視野の広がりではないかもしれませんが、ミクロな物理現象について観測できるようになって量子力学の理論が生まれたり、遺伝子の存在やその配列を客観的に確かめられるようになって中立進化説が現れたり。

生物学や分類学に限らず、自然科学全般の歴史も調べておきたいと思っていますので、またそのときに、このことは意識してみることにします。

おわりに

自分が疑問に思っている事柄について、とてもたくさんの示唆を得る事が出来ました。まだ調べはじめなので、特別多くの学びがあったのだと思います。前回の記事で整理した疑問の内、特に次の疑問について考える上で役立ったように思います。

疑問1-1 なぜ多くの人が動物/植物の二者択一という前提を設定するのか?

疑問2-1-1 動物/植物とは何か?

疑問4-1 ミドリムシの分類について動物/植物の二者択一であることが、なぜ生物学的に誤りなのか?

疑問4-1-1 ミドリムシの分類について動物/植物の二者択一であることが、誤りだったとして、では正しい分類とは何か?

やはり哲学から調べ始めて正解だったという気がします。ここで得られた考え方や新しい疑問を意識しつつ、まだまだ調べものは続きます。

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