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君たち全員まぶしい①



8月4日、日曜日。

盛岡のまちは、さんさ最終日で、浮かれていて、みんな元気だなあ、と若干冷めた目で見ている人間は、きっと、私だけじゃないはず。


なぜ、祭りの熱気に飲まれないのか。

第一に、私は人混みが大の苦手である。わざわざ、例年以上の猛暑日に、人混みに飛び込みたいと思わない。

その次に、屋台って割高な上に無駄に行列だ、ということが挙げられる。信じられるか?屋台のメニューって、ほとんどコンビニで手に入るんだぜ。たこ焼きとか唐揚げとか、エアコンの効いた涼しい部屋でのんびり食すのが、夏の醍醐味だろ。知らんけど。

そして、最後。肝心なさんさ踊りは、正直人混みをかき分けてまで見たいというわけではない。と言いながら、数年前、さんさパレードに太鼓として参加したことがある。さんさ踊り自体は好き。それもそのはず、小学校の学芸会で、6年間さんさ踊りを経験していたから、体がいまだに覚えている。私とって、さんさ踊りは、真夏の夜の真ん中で行われる宴より、暖房がついた公民館で練習し、練習後、冬の空気を含んだ夜風で涼む帰り道のイメージが強い。引っ込み思案な性格のせいで、パレード後の打ち上げで、様々な人たちと交流する時間が苦痛だった点も、さんさを冷めた目で見る捻くれた人間をつくり上げた要因になっている。


嫌な人間になってしまった、と呆れる。世の中が楽しんでいるものを敬遠するのは、自由だが、みんな楽しんでいるのに、自分は楽しめるメンタルじゃないんだな、と卑下してしまうところが、よくないよね。わかる。楽しみたいんでしょ、夏も、お祭りも、さんさも、浮かれた雰囲気も、「夏のせい」で済まされちゃう夏のマジックも。自問自答し、「・・・本当は、ちょっと、いいなあ、とか思います」という自白を聞き逃さなかった私は、仕事終わりに、大通りへ繰り出すことにした。もちろん一人です。なぜ一人かというと、当日さんさ踊り参戦を決めたためと、急に誰かを遊びに誘うことが苦手なため。文章を書く活動をしている身としては、様々なイベントに突っ込んだほうがいいだろう、というのは建前で、ただ、人並みに夏らしいことをしてみたくなった。


仕事を定時で上がり、まだ明るい空の下、車を走らせる。盛岡駅の西口に車を停めたときには、ポツポツと雨が降り出していたので、さんさの時期って天候になかなか恵まれないことをふと思い出す。私自身、学生時代さんさパレードに参加したときも、豪雨が襲ってきて、パレード中止か否か危ういラインだったのだ。結局、太鼓にビニールを被せて、続行したけれど。西口の駐車場には、車に乗ろうとしている、私の同い年くらいの男の人3人組がいて、この人達はさんさ帰りかなあ、毎年この時期に集まってるのかなあ、いいなあ、とちょっぴり羨ましくなる。

それにしても、西口に車を停めたのは失敗だったか。さんさパレード出発地点から、20分は歩くだろう。運動不足の自分にとっては息切れがする距離だ。なぜ大通りや盛岡城跡公園付近に駐車しなかったというと、満車しているだろうという予測したからであって、空いている駐車場探しにぐるぐるするよりは、歩いたほうが早い、と考えたのだが、出発点の県庁に到着する頃には、西口に戻る体力があるか・・・不安である。

とりあえず何か冷たいものが飲みたい、屋台でしか買えないようなやつ、と県庁方面に向かって歩いてみる。本格的な夜を迎える前ということもあり、同じ方向に向かう人たちが圧倒的に多く、早速人混みの圧にやられそうになる。浴衣姿のカップル、部活帰りらしい、ジャージ姿の高校生、甚兵衛に着られている、お母さんに抱っこされた男の子。夏に向かって浮かれている人、人、人。歩きながら、渋滞してるなあ、と思う。車道の話ではなくて、歩道の話。皆、話しながら歩いているから、ゆっくりになるのだ。開運橋を渡りながら、ドラマのシーンに出てきそうな、賑わっているバー「アーロンスタンダード」を眺めながら、カラオケのキャッチに勤しんでいるお兄さんを横目に見ながら、ぼんやりと思う。

コロナ禍が、季語になっているんだな、と。

マスクを外している人が圧倒的に減り、思い切り笑う顔がはっきりと見えるようになった。飲み会があちこちで行われ、コロナ以前の2019年のさんさ踊りの光景とほとんど変わらない。

コロナ禍が深刻だった頃、もう通常の日常は送れないのだと、本気で思っていた。自由に旅行すること、大人数で集まること、マスクを手離せないこと。いつか、また日常が戻ってくるとわかっていれば、まだ明るい気持ちでいられたのだが、当時はそんな未来のことは想定できていなかった。まだ若いのにな、まだまだやりたいこと、行きたいところ、あるのにな、と連日流れる感染者発表のニュースを眺めながら、ため息をついたものだ。

それが、過去になった。もうお祭りができるし、飲み会もできるし、どこにでも行ける。一生続くってないなあ、と改めて思う。永遠ではないことは寂しさを含むが、永遠ではないことが救いにもなる。一生続くことがないという希望で、生活は成り立っている。

人混みは嫌い。騒がしい場所も嫌い。ムンと香る香水、焼き鳥の炭火、人間から放たれる生活臭。混ざり合って、鼻が曲がりそうだ。あー、帰ろうかな。コンビニでアイスコーヒー買って、テレビ見ながら、ダラダラしたいな。

いや、帰らない。夏に浮かれた情景をもっと焼き付けたい。今しかできないことを、してみたい。

まだ帰らないぞ、と歩みを早める。湿気を含んだ空気がまとわりついても、汗が流れても、ここは夏、永遠には続かない夏の真ん中である。



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