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大地のおきて

まずされることのない質問だけど、

「世界陸上、注目している競技は何ですか?」
「オリンピックで見たいレースは?」
「はじめまして。ところで好きな陸上競技は?」
などと尋ねられたら、

「3000m障害です。」
と答えると思う。
レースとして、ショウとして、ギャグとして、これほどハイレベルな競技もなかなかない。


…2004年のアテネ五輪は、時差のせいで放送時間帯は深夜。後寝五輪などと呼ばれていたが、暇な大学生にとってはテレビショッピングしかやってない時間帯に放送してくれるのはいい暇つぶしだった。
深夜3:00過ぎ、テレビ画面に映り込んだのは異様な光景だった。トラックにはばかでかいハードルがいくつか、300Mのあたりには浅いプールのようなものがあり、水が溜まっている。なんだこれ、と思いつつ観戦することに。どうやら決勝らしい。
スタートするや選手たちはかなりのペースを維持しながらハードルをびょんびょん跳び越えていく。110mのハードルよりも高いから「軽やかにまたぐ」というよりスーパーマリオだ。そしてたしか5個目のハードルを越えたところには水たまり。すごい勢いで水たまりに飛び込む。水が撥ねる。コースはびしゃびしゃだ。

これはすごい。

何よりも「ワイルドだな」と思った。
整備しつくされ、純粋な人間の運動能力だけを競うために作られたはずのトラックから、山野の匂いがし始める。


ここでウィキペディア情報を

ヨーロッパなどで人気の高いクロスカントリーのレースをトラック上で再現するためにつくられたと言われ、障害物(いわゆる平均台にハードル色のペイントを施したもの)が28個、水濠が7個の計35個の障害がトラック上にある。障害物の高さは、男子が91.4cm、女子が76.2cmである。水濠の深さは、男女とも、一番深いところで0.7メートル。水濠の長さは、男子が3.66メートル、女子が3.06メートルある。
3000メートルという比較的長い距離を走るものの、約80メートルおきに跳躍しなければならないため、スピードを維持しないと、障害を越えることができないという過酷なレースであり、ジャンプ時の着地等で相当な体力を奪われることになるため、ペース配分を考えないと好記録はおろか完走すら出来なくなるという競技である。

…高校のクラスメートに「ワイルド」というあだ名の奴がいたが、名は体を表すという言葉を反証する好例で、美術の時間に自画像を描きながら「美しい」を連発するナルシスト、好きな歌手はマリリン・マンソン。驚異的な広さの肩幅以外はどこもワイルドという感じではなかった。

とにかく現代のワイルドの体現者たちはびょんびょんばしゃばしゃ必死にレースを続けていた。
気付くと上位の選手はほとんどアフリカ系になっている。しかも同じユニフォームが3人。

実況「そろそろ来ましたね。」
解説「ええ。この競技はケニアのお家芸みたいなもんですからね。」

ケニアか…。

なぜか納得してしまう響きだ。彼らはきっと学校にも長い道のりを走って通っていたんだろう。途中、藪を飛び越えたり水たまりに入ったりもしていたはずだ。給食を炊き出すための薪を拾いながら通ったせいで、足腰がさらに鍛えられたのかもしれない。

見ると先頭集団はケニア3選手ともう一人アフリカ系選手の争いになっていた。とりあえず負けてる方を応援してしまう心理が働く。根性みせるんだ。表彰台独占は防げ。4位の選手を思わず見守る。

実況「先頭にカタールの選手がついていっています。去年ケニアから帰化した選手です。」


お前もか。


もう下手に応援なんかせずに、見る全てを受け容れるしかないんだと思った。
このレース展開を見るに、世界大会よりもケニアの国内大会のほうがレベルが高いくらいかもしれない。アフリカの選手にとって五輪代表になれるかなれないかはリアルに生活がかかっているはずだ。豊かな産油国からの誘いをうけ、家族のために、生まれ育った大地を捨てたんだろう。

もう何も言うまい。


レースのクライマックス、先頭は完全にケニア勢3人に絞られていた。
それにしても驚異的な身体能力だ。ハードルを跳び越えるバネ、水の負荷をものともしない強靱さ。チーター。ガゼル。あの辺りにいそうな動物たちが思わず浮かぶ。

地中海世界アテネの競技場は、もはや完全にサバンナだ。もう狩りだ、狩り。

ゴール100メートルほど前。最後のハードルを越えると、先頭走者は後ろを振り返った。勝利を確信したらしい。
するとおもむろにスピードをゆるめ、20メートルほど遅れた二位、三位のケニア選手を待ち、手を叩き、抱き合い、もう何かあっちの方の祭りみたいにしてゴールに入った。
タイムとか本当どうでもいいらしかった。
圧倒的勝者だけが許されたわがままだ。受け容れるしかなかった。

次にこの競技の世界大会が見られるのはいつになるんだろうか。
ほんとすごいんです。

…ちなみにこの競技の世界記録はカタールのサイフ・サイード・シャヒーン選手の持つ、7分53秒62である。

彼の元の名前はステファン・チェロノ。もちろんケニア出身だ。

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