雑記

「ネガティブに勝つのはポジティブではなく没頭だ」というのは、あるお笑い芸人の言葉であるが全く僕もこの意見には同意だ。僕は物事への関心がめちゃくちゃ両極端で、関心のない事にはとことん関心が持てない。例えば自分の生活。これに関心が持てない。部屋を綺麗にするとかご飯を食べるとかお風呂に入るだとか運動をするとか、そんな当たり前の人間としての生活に全く興味が湧かない。ここら辺に僕の社会不適合さが既に滲み出ている気がして自分の欠点だと思っている。じゃあ、逆に何に興味があるのかって話になるんだけど、その前に一つだけ言っておきたい事がある。僕は本当に真面目に答えていて、キザに気取ってカッコつけてはいないという事。これを留意した上で。僕は夜中の2時に聴く蝉の切ない声とか、雲に少し隠れたお月様とか、麻雀の統計的確率的な最適解、形而上学的な諸問題、そして人間そのもの。「人間そのものに興味があるってどういう事?」と読者諸賢なら思うであろう。単刀直入に言えば、人間という生き物の事が理解できないのだ。たしかに僕は相手の表情から機嫌を間違えずに察する事ができる時もあるし、声を聴けばその人の抱く感情を理解する事もある。ただ、僕の場合それらはこれまでの経験則と知識から成り立つもので、本来は理解するとかしないとかの話ではなく、本能的生物的なものであると僕は思っている。つまり僕は経験と知識から相手の感情を推測するだけで、僕の精神が理解し共感しているわけではない。とても細かい違いなのだけれど、僕にとっては途方もなく遠くて歯痒い違いなのだ。理解するプロセスが違うのだ。人工知能との受け答えに非常に似ていて、Siriなどを代表する彼ら(人工知能を"彼ら"と呼称するのは変な気もするが)は言葉を認識してビッグデータから最適解を導き出しているのだが、そこに感情はない。僕は自分に感情が無いと言っているのではない。僕には感情があり、映画を観れば感動するし悲しいと泣く。そうではなく、他人の感情を心から理解していないという事が言いたいのである。話が少しズレるが、哲学的ゾンビという単語を聞いた事はあるだろうか?これは「自分に感情がある事を他人に証明する事は不可能である」という哲学の問題で、脳のクオリアの問題とも関連があって興味がある人が万が一いたら検索して調べてみて欲しい。ついでに二重スリット問題とかも面白いよ。とにかく僕は人間不信である。だからこそ、信じようと努力するし理解しようと頑張れる。この逆説的で皮肉で不器用な人間への愛を誰か分かるかなあ。そんなお話。

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