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アラサー女が触れてはいけないパンドラの箱

 本能的に触れてはいけないと分かってて、ごく稀に、開放的な気分になった時、閉鎖的な気分になった時、触れてしまうもの…

『抱かれそうで、抱かれなかった男の連絡先』

 先日、新卒から勤めている職場に退職の旨を告げ、開放的になったのか、数年ぶりに同期の男性に連絡をしてしまった。



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 一つ年上の彼とは内定時に出会い、本や映画の趣味で気が合った。電話越しの眠そうな声で、私のことを『君』と呼ぶのが好きだった。

 就職後、夜の東京タワーを眺めに散歩した時に、私が道のゴミを拾うと、何も通らない横断歩道の信号を待っていると、『素敵ですね』と呟く奥ゆかしさが、同年代の男性では珍しく、私の心を占領した。

 しかしその奥ゆかしさの反面、『交際をしないのであれば、地球から消えてほしいくらいだ』などと言う、はっきりとした情熱的な部分にたじろいだ。

 ちょうどその頃、婦人科系の病気により私の子宮は存続の危機を迎えており、どうしても男性と関係を持つ気になれなかった。でもその理由より、なぜかわからないが、私はずっと、彼とはあの夜の東京のままでいたかったのだ。

 彼とは別々の配属先になり、多少連絡を取るくらいになっていた。わたしは密かに治療を続けながら、仕事に励み、たまに彼の配属先の近くに行ってみては影を探すような気色の悪いこともした。

 すると数年後、会社の噂で彼に彼女ができたと聞いた。私は尋ねてみたかったものの、彼女の存在を確定させたくなかった。

 
 その直後、出張先で彼と出会ってしまった。

 明るく、まるで気にしてないかのように『彼女できたんですか?』。彼は一瞬目を見開いたものの、すぐ頷いた。
 
 彼女は国語の先生をしていた人で、彼と同い年、穏やかで、初デートの時のハンカチが偶然お揃いだった。

 勝手に延命措置をしていた私の恋というまでもないような何かは、彼が前を向いたまま話す彼女の偶像によって粉々になった。

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 逆に言えば、ただそれだけのことだった。しかし、これ以上彼の声を聞けば、わたしは言ってはならないことを言うし、やってはならないことをするとわかっていた。だからずっと、触れずにいた連絡先だった。

 『この度、退職することになりました。先に伝えておこうと思って』

 返信が来るかどうかなんて待ちたくもなくて、仕事中にささっと送った文章。それには着信で返ってきた。

 そこまできたらあとはもう簡単だった。わたしを止めていた本能は、今すぐに声を聞きたいという感情に一瞬で喰われた。『掛け直していいですか?』

 午後11時前だった。彼の『お疲れ様』に、泣きたくなった。退職の理由を話す私に、彼は『君らしいね』と言った。

 これまでの答え合わせは午前3時まで続いた。内緒にし続けた病気のこと、彼女ができたと聞いたときのこと、私の気持ち、彼の気持ち。

 とても寂しかった。でも、きっと絶対に、タイミングの合わない星というものはあるのだ。

 『道端のゴミを見るたび、君が居て、迷惑なんですよ。本棚にも君が居て。早く消えてほしいと、ずっと思ってるんです』

 いつか、私に地球から消えてほしいと言った彼は、まだ私に消えて欲しがっていた。それがどうしても嬉しかった。

 彼は少し笑いながら、『直接的な言い方になるんですけど』と前置いて、『抱けなかった女、ってことになるからですかね』と言った。

 あまりにも平凡で下品な言い回しは、私の五臓六腑に落ち切った。

 私が拾う道端のゴミにも、私の本棚にも彼がまだ居るのは『抱かれなかった男』だったからなのか。

 なんだ。きっとどこかで、何かを間違えて、彼の腕に抱かれていたなら、ここまで苦しまれることも愛おしむこともなかったのか。

 それならいい。その方がずっと楽だと思った。彼の中で、ずっと『抱けなかった女』でいる方がいい。いつまでも『消えてくれ』と思われ続ける方がいい。

 

 
 私には、本や映画は見ないけど、道端のゴミを拾う優しい彼がいます。

 だから、もう何かを間違えてしまわぬように、これを最後にします。

 タイミングの合わない星が、1番近づいた夜だっただけのこと。

 私も『早く消えてくれ』と思い続けるでしょうが、これからの夜、たまにはわざわざ思い出します。



 これからもあなたが歩く道にゴミが落ちてますように。

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