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『源氏物語』が現代を生きる我々に教えてくれること

源氏物語は世界最古とされる長編小説であり、現代の常識とは大きく異なる貴族社会の様相や結婚制度を背景として書かれた物語である。

そのため、「妻がいるのにたくさんの女性と付き合う光源氏の行動が理解できない」「光源氏はとんでもない人物だ」
という感想に終始してしまいがちだと思う。
では、なぜ源氏物語は平安時代から現代まで読み継がれ、世界中で愛されているのだろうか。自分なりに考えてみた。私自身、学術的な知識は持ち合わせていないので、誤っている点があるかもしれないがご容赦いただきたい。

少し話が逸れるが、昭和期に活躍した作家・松本清張の代表作の一つに、『ゼロの焦点』がある。結婚したばかりの夫・鵜原憲一が突然失踪し、妻であり主人公の禎子という女性が夫の行方を探すミステリー小説だが、この物語の冒頭部分に次のような描写がある。

『禎子は鵜原憲一と二人きりで会って歩く日は一度もなかった。(中略)禎子は、見合いの席で瞥見した鵜原憲一に満足していた。』
『鵜原憲一について禎子に分からないところがたくさんあった。こういうところに勤めていて、こんな仕事をしていて、兄夫婦と同じ家にいた―そのこと以外になんにも分かっていないのだ。』

私は、これらに対して強い違和感を覚えた。お見合いで一度会っただけの相手と結婚を決め、二人で会うことは一度もなく、相手の人柄についてもよくわからない。自分の夫となる人物に対して、あまりにも知らないことだらけではないかと思ったのだ。

この作品が最初に出版されたのは1958年であり、私の祖母が20代だった頃の話である。つまり、我々の祖父母の世代にとって、おそらく結婚とはこれが「普通」だったのだ。
学校や職場等で相手と出会い、二人で遊びに行き、数年の交際期間を経て互いのことを知った上で結婚する―こういった現代の価値観が「普通」とされるようになったのは、せいぜいここ40年くらいの間の話なのだろう。

結局私の主張は何なのかというと、世の中の「普通」や「常識」というものは、時代の流れの中で簡単に変わっていくということだ。『平家物語』の冒頭にもあるように、この世はまさに「諸行無常」である。

では、この「諸行無常」の世の中において、変わらないこととは何なのか。
それは、人間の感情である。私は、源氏物語が千年にわたって読み継がれてきた最大の理由は、このことにあると考えている。

例えば、源氏物語の冒頭に登場する桐壺の更衣。彼女は低い身分でありながら帝の寵愛を受ける。すると、ほかの女御たちからの酷い嫌がらせに遭ってしまう。
私はこの部分を読んで、神尾葉子氏の漫画『花より男子』を思い出した。富裕層の家庭の子どもばかりが通う学園の中で、一般家庭出身の「庶民」である主人公の女子生徒が、学園で最も権力のある男子生徒と恋愛関係になる。主人公は、学園の女子生徒たちから嫌がらせを受ける。

千年の時を隔てた二つの物語の展開が、何一つ変わらないわけである。

そして、この物語の展開に対して我々読者が感じることもまた、同じである。嫌がらせを受ける桐壺の更衣ないし主人公の女子生徒に対して「こんな酷いことをされてかわいそうだ」と同情し、「いじめに負けないで頑張ってほしい」と応援する。

一方で、嫌がらせをする側である女御たち、女子生徒たちの心情がまったく理解できないという人はいないだろう。程度の差はあるにしろ、人をうらやむ気持ちや嫉妬の感情は、人間誰しもが当たり前に持っているものだからだ。この行動は嫉妬という感情が原因で…などと説明されなければわからない人は稀なはずである。
そしてこれらの類似は『花より男子』に限った話ではなく、例えば、西洋の童話である『シンデレラ』でも同じような場面は登場する。

古い時代、文字で書かれた源氏物語を読むことができたのは、皇族など身分の高い人物が多かったはずだが、えてしてそういった人物は孤独になりやすい。周囲の人間はみな敵という状況は少なからずあっただろうし、本心を打ち明けられる友など存在しない場合も多かったと思う。

源氏物語の作中でも、権力抗争の渦中で孤独に苦しむ光源氏の心情が描かれている。いにしえの時代の読者にとって、この物語に没頭できる一時は、何よりも心の支えとなり、癒しとなったことであろう。

そして、このことは現代社会を生きる我々にとっても同じことである。
我々人間は、自分の感情を常に外に出して生きているわけではない。特に、誰かを憎む気持ち、嫉妬、優越感などといった負の感情については、円滑に社会生活を営むためにもできるだけ隠している人の方が多いだろう。

中には、「自分は何て嫌な人間なのだろう」などと自己嫌悪に陥ってしまう人もいるはずだ。その時に、千年前の物語の中で生きる人たちの心情に触れることで、「このような感情を持ってしまうのは自分だけではないのだ」と気を楽にすることができる。

一方で、源氏物語では、人間の感情が暴走することで生じる悲劇についても描かれている。激しい憎悪や嫉妬心をコントロールできず、生霊となって光源氏の恋人と妻を呪い殺してしまう六条御息所の醜く哀れな姿がそれである。このことからは、負の感情をむき出しの状態で他人に向けることがいかに愚かで危険なことなのか、知ることができるはずだ。

人間を取り巻く環境や生活様式、価値観は、時代の流れの中で常に変化してきたし、これから先もめまぐるしく変化し続けることだろう。
しかし、人間の感情は、少なくとも千年前の人々と、驚くほど変わっていない。実際、源氏物語に登場する人間の心情は、現在でも、リアルな実感と生々しさを伴って我々の胸に迫ってくる。

人間の感情の本質は、これから先も、未来永劫変わらない可能性が高い。
そんな我々人間がより心豊かに生きていくためのヒントを、源氏物語は提示してくれているはずだ。このことこそが、千年にわたりこの物語が読み継がれ、愛されてきた真の理由ではないだろうか。

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