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私にとっての「読書」とは

私は好んで本を読みますが、いわゆる「読書家」ではありません。

読書が好きというと、月に何冊くらい読みますか、とか、〇〇のシリーズは読破しましたか、といった話になりますが、私の読書量は多くなく、読書家を名乗ることは到底できません。
実家に残してきたものもあるとはいえ、現在自宅にある小説の数はせいぜい150冊程度です。

しかし、何回も(ものによっては何十回、何百回も)繰り返し読んできたこれらは、私にとっての宝物です。物語の様々な台詞や情景が、心の中の引き出しに大切にしまわれており、私はそれらを自由に取り出すことができます。

唐突な話となりますが、私は小学生の頃給食が苦手でした。
それほど好き嫌いが多かったわけでもないのですが、時間内に食べ終えなければならない緊張感やガチャガチャと落ち着かない教室の空気感で胸がいっぱいになってしまい、食欲自体があまり湧かなかったのだと思います。

食べ残しが許されていなかったクラスでは、周りの皆が昼休みを過ごす中、しょっちゅう「居残り」をしていました。
配膳の時に量を減らしてもらえば良かったのかもしれませんが、少なくして、の一言もうまく言えない子どもでした。

「食べ残しは良くない」が絶対正義で(もちろんその意見は正しく、食品ロス等の問題が深刻なのも理解しています)、自分は食べ物を粗末にする悪い子だ、という思いが常に心にあったのでしょう。

世界の食糧難や食べ物を大事に、などという話を授業で聞くたびに、なんだか責められているような、居心地の悪さを感じていました。

そんな折、図書室で借りた児童書(『れんげ畑の真ん中で』というタイトルだったと記憶しています)に、主人公の女の子が大嫌いな給食の「くじら肉」を教科書のページに挟んで隠し、食べたように見せかけてこっそり持ち帰る、というコミカルなシーンがあるのを目にしました。

給食が苦手な主人公に「まだ食べ終わらないのか」と言っていつも意地悪をしてくる男の子を、「ちゃんと全部食べたよ」と見事に出し抜く様子が小気味よく、うまくは言えませんが、気分がすっと晴れるのを感じました。
特に悪びれる様子もなく「やってやったぜ」と得意げな主人公に、なんだか救われたような気持ちになったことを覚えています。

きっと、子どもに教えるべき道徳としては、褒められたものではないでしょう。
勇気を持って苦手な食べ物を克服し、給食が大好きになりましたー「正しい」ストーリーはおそらくこうです。

しかし、物語は文章読解のテキストでもなければ、道徳の教科書でもありません。

人生で起きる出来事は、そのほとんどが、そう簡単に白黒つけられるものではないでしょう。人間の本質もそうです。「完璧な善人」も「根っからの悪人」も極めて稀な存在で、大抵の人が(私含め)善人と悪人を行ったり来たりしているのだと思います。

これらのグレーの領域をいかように描くかということが、物語文学の真髄であり、魅力であると私は考えます。

若輩者で苦労知らずの私の人生経験など、取るに足らないものです。それでも、今まで苦しいことも悲しいこともありました。「それはただの甘えだ、もっと辛い人は大勢いる」「あなたは恵まれているんだから」頭ではわかっていても、こういった「正論」が辛いこともあります。

そんな時、私はいつも本の世界に救いを求め、逃げ込む場所としてきました。
読書はいつだって暗闇をそっと照らしうる存在として私に寄り添い、決して正論ではない優しい言葉で、時には強い言葉で、私を励ましてくれました。

自分のことを「深みのある人間」などとはまったく思いません。しかし、物語の世界のたくさんの言葉たちが、私自身の血となり肉となっていることを確かに感じています。

学生時代の専攻だった日本文学の教授が繰り返していた、「文学は『実学』である」という言葉が強く心にあります。
これからも、楽しい友人として、心強い人生の支えとして、愛する読書に親しんでいきたいと思います。

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