「号外」の感想(#文学フリマで買った本の感想 #3)
新聞歌壇で出会った歌人たちによる同人誌『号外』。
参加している歌人の方は、木村槿さん、金原弓起さん、鈴木精良さん、戸澤ユキさん、永井駿さん、永汐れいさん、薄暑なつさん、平安まだらさんという、ツイッターで短歌をやっていたら一度は名前を拝見したことはある新聞歌壇アベンジャーズ。
各自の東京歌壇東直子選歌欄の掲載歌に八〜十首連作を掲載。
dominaさんの装丁・イラストも楽しい。
上の句の願いが絶妙だ。
願いについて考えるとき、実現可能性と切実度のマトリックスがある。「あーあ、息子がジャスティンビーバーだったらなあ」(©ずん飯尾和樹)という実現可能性も切実度も低い願いはギャグになるし、駅の公衆トイレで顔面蒼白で個室トイレをノックしている人の願いは実現可能性も切実度も高く、何より基本的人権を守られるためにもすぐにでもスマホをしまって便座を譲ってあげなければならない。
「髪の毛を伸ばせるとこまで伸ばしたい」という願いは、やろうと思えばできるけど、あまり長いと日常生活に支障が出たり、変わった人だと思われる程度のもの。そして、どこまでしたいかというと、おそらくそれなりに髪を伸ばしたい願望があるだろうが、そこまで切実でもないのだ。
という願いを例えに出すような過去の願いを主体は思い出している。結句で、吐き捨てるように告げられる「いまさら」に、中途半端な思いで叶うことのなかった、しかし忘れられずに心にこびりつく願いに対する後悔があるようである。
川辺で読書をしているよう。対岸に打ち寄せる川の水面の動きや風の速さという自然現象にオーバーラップするように主体の読書にどこかせわしなさがあるように感じられる。
もしくは、そもそも文字やページはイメージだけのもので、ざわざわとした心を携えて、時間の経過を早く感じる午後の川辺にいる主体かもしれない。
連作のタイトルは、『しずかな砂浜』。静かさは、本当に穏やかなものもあれば、嵐の前の静けさのような不穏さの象徴ともなりうる。この一連は、どちらだろうか。
誰かに聞いてほしいことがある。しかし、それを話すには明るすぎるのだ。
この部屋の消灯時間の後でも、この街の消灯時間の後でもダメで、世界がまるごと消灯しないと話せないこと。
既に暗いというのに、さらに身を隠すように膝を抱える。
そこまでしてようやく本当のことを話せる。
複雑な工程を経てつくられたあやとりをもらった。
嬉しいけれど、ずっとそのままにしてはいられない。もちろん目の前で崩すことは渡してくれた人を傷つけることになるからできないが、だんだん疲れてくるし、正直飽きてくる。
下の句は、誰かに手渡したときのその人が戸惑ってしまうことへの戸惑いが浮かんだ。
不幸の手紙を転送して被害者にも加害者にもなってしまえばどれだけ楽か。
不幸を断ち切る覚悟はあっても、その振る舞いは簡単にできるものではなく、戸惑っている。
下り坂を自転車で駆け降りる爽快な涼しさのイメージ。
対して、歳月を重ねれば重ねるほど、涼しさを感じなくなるというのは、単に暑いというよりは、暑苦しいとか、蒸し暑いというねっとりとした暑さのよう。
繰り返される日常、過去の自分にとらわれること、日に日に強くなる社会的重圧、一方で衰えていく身体能力や思考の重さや速さ。
ときおり感じてしまう下り坂の涼しさはなかったことにして、私たちはまた蒸し暑い日々を生きる。
恋は風邪だ。意識は朦朧として、体温が熱を帯びる。
主体は心の中の雪原に飽きるまで自分を閉じ込めているという。すなわち、風邪をひいたのは、自分の行動のせいである。しかし、恋というものはそういうもので、恋愛感情が加速するとき、相手との関係をきっかけをせずとも、自己増殖させて、しまいには病に伏せるのだ。
句切れが独特で、8/9/9/5と感じたが、ぴったり31音になっていて、しまりがいい。
多くの人が刹那的にすれ違う渋谷のスクランブル交差点。
ヘッドホンで音楽を聞きながら歩いている人も多く、しかも雑踏の音をかき消すようにみな大音量で音漏れをしている。
それだけではなんの音楽かわからない音漏れを「こなごなの流れ星」と表現しているのが的確で、美しく、はかなく、渋谷だ。
スター選手のバッティングフォームを真似ている。
野球が上手いとかかっこいいとかではなく、「税金をめっちゃ納めてそうな選手」という捉え方がいい。
一連は野球部の思い出が並ぶ。徹底した口語体でつづられるユーモアの中に、どこか情けなさや青臭さが漂う歌が、どれも懐かしく、香ばしい。
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