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【アーカイブス#61】マイカ・P・ヒンソン *2014年8月

 大好きなシンガー・ソングライター、マイカ・P・ヒンソン(Micah P. Hinson)の新しいアルバム『Micah P. Hinson And The Nothing』がフランスのTalitresというレーベルからこの春に発売された。前作のアルバム『Micah P. Hinson And The Pioneer Saboteurs』が2010年のリリースだったから、ほぼ4年ぶりということになる。手に入れてから何度も繰り返し聞き続けているが、渋くて穏やかで静かで屈折していて、いい意味で変態的なマイカの世界がいつものように存分に楽しめ、飽きるということがない。

 ぼくがこのシンガー・ソングライターの存在を知ったのは、2004年にイギリスのSketchbookレーベルからリリースされた彼のデビュー・アルバム『Micah P. Hinson And The Gospel of Progress』によってだった。まずは暗くて低いその歌声の虜となり、それから妙に歪んだその歌の世界の中にも引き込まれて行った。調べてみると1981年2月3日の生まれだと知ってびっくり。それこそ歌声だけ聞いていれば、初老の男の遅すぎたデビュー・アルバムといった感じなのだが、何とそのアルバムは彼が22歳の時にレコーディングされたものだったのだ。しかもこの渋さと暗さはイギリス人に違いないと思っていたところ、アメリカ人、しかもテキサスのアビリーン育ちだということもわかって、二度びっくりしてしまった。

 いずれにしても『Micah P. Hinson And The Gospel of Progress』で、彼の歌にすっかり魅了させられてしまったぼくは、その後2005年になって日の目を見た2000年のデモ・アルバム作品『The Baby & The Satellite 』、2006年の『Micah P. Hinson And The Opera Circuit』、2009年のカバー・アルバム『All Dressed Up And Smelling of Strangers』、2010年の『Micah P. Hinson And The Pioneer Saboteurs』と、彼が新しいアルバムを発表するたびに買い求めていった。
 ほかにも彼がイギリス人二人とアメリカ人二人の四人組のイギリスのバンド、ジ・アーリーズ(The Earlies)のアメリカ人のメンバー、ジョン・マーク・ラプハム(John Mark Lapham)と組んだユニット、ザ・レイト・コード(The late Cord)の5曲入りミニ・アルバムや2013年の5曲入りのデジタル・アルバム『Wishing for A Christmas Miracle with The Micah P. Hinson Family』をチェックして手に入れることも怠らなかった。

 最初は日の目を見なかったデモ・テープのアルバムやカバー・アルバムは別として、マイカがこれまでに発表したほとんどのアルバムのタイトルは『Micah P. Hinson And The ……』となっていて、彼が次々と新しいバンドを組んでいるのではないかとつい思ってしまうが、これは彼がその時々のレコーディング・セッションに参加した人たちにバンド名のような名前をつけているということなのだろう。だからミュージシャンはその都度変わっているが、2006年の『Micah P. Hinson And The Opera Circuit』から参加したT・ニコラス・フェルプスは、その後のアルバムにもギターやバンジョー、ラップ・スティール・ギターやベース、ピアノやシタールなどさまざまな楽器で登場し続け、マイクの音楽制作上での重要な片腕となっているようだ。

 ウィキペディアの記事をもとにしてマイカ・P・ヒンソンの経歴を紹介しておこう。前述したようにマイカは1981年2月3日の生まれで、生まれた場所はテネシー州メンフィスだったが、彼が生まれてすぐに家族はウェスト・ヴァージニアに引っ越し、4歳になると父親の仕事の関係でテキサス州アビリーンに落ち着いた。父親はアビリーン・クリスチャン・ユニバーシティで教鞭をとるようになったのだ。
 マイカの両親は音楽好きで、家にはピアノやダルシマーなどいろんな楽器があり、両親のお気に入りのミュージシャンはニール・ダイアモンドやジョン・デンバーだった。そして11歳になったマイカは父親にギターを買ってもらい、学芸会でも演奏するようになったが、彼が本格的に音楽を志すようになったのは兄の影響が大きく、兄が聞いていたミニストリーやザ・キュアーのアルバムを彼も聞くようになって曲作りも始め、高校の終り頃にはニルヴァーナやソニック・ユース、ダイナソー・ジュニアといったバンドの音楽に夢中になっていた。
 
 田舎町のアビリーンに窮屈さを感じ、音楽だけでなくスケートボードやドラッグにも救いを求めていた頃、彼は後にジ・アーリーズのメンバーとなるテキサス出身のジョン・マーク・ラプハムと出会い、親交を深めるようになった。一時は仕事も住むところもなく、かなり悲惨な状態に陥ったこともあったが、やがてマイカは仕事も見つけてテキサス州のデントンに落ち着き、そこのカレッジで学ぶようにもなった。

 2000年の春にマイカはやはり後にジ・アーリーズのメンバーとなるギタリストのブランドン・カー、そしてプログラマーのティム・クーパーと一緒にアビリーンのブランドンのアパートの部屋やティムの家で8曲入りのデモ・テープ・アルバム『The Baby & The Satellite』を作った。
 その完成度の高さに心を奪われたジョン・マーク・ラプハムは、すでにジ・アーリーズとして活動を始めていたイギリスで、幾つかのインディーズ・レーベルにその音を紹介したものの、その時は残念ながら契約には至らなかった。しかしジョンはしつこくマイカの応援を続け、それから1年半後、BBCラジオの番組でマイカのデビュー・アルバム『Micah P. Hinson And The Gospel of Progress』に収録されている「The Possibilities」という曲のデモ音源をこっそり流すことに成功すると、それを聞いたスケッチブック・レーベルがマイカとレコーディング契約をしたいと申し出てきた。スケッチブックはジョンが最初にマイカの『The Baby & The Satellite』を持っていったインディーズ・レーベルのひとつだった。あらゆることがpossibilityとなるのだ。

 かくして2003年の冬、ジ・アーリーズのメンバーのクリスチャン・マッデン、ジャイルス・八ットン、ジョン・マーク・ラプハムなどと共にマンチェスターのスタジオでレコーディングが行なわれ、マイカ・P・ヒンソンはアルバム『Micah P. Hinson And The Gospel of Progress』でイギリスでアルバム・デビューすることになった。
 そして2005年にはジョン・マーク・ラプハムやブランドン・カーが参加しての『The Baby & The Stallite』の収録曲の再録音8曲とオリジナル音源8曲、合計16曲を一枚のアルバムにした『The Baby & The Satellite』、2006年には二枚目のスタジオ・アルバム『Micah P. Hinson And The Opera Circuit』と続き、マイカ・P・ヒンソンは本国アメリカ以上にイギリスやヨーロッパ各国で熱心な聞き手を獲得するようになっていった。
 イギリスやヨーロッパの歴史を背負い込んだ陰鬱な風景の中でこだまするどこか絶望的に聞こえるテキサンの歌声は、確かにあまりにも異色で、一度聞いたら忘れようがないほど強烈なものだった。

 2009年の『All Dressed Up And Smelling of Strangers』は、二枚組16曲入りのカバー・アルバムだが、そこでマイカが取り上げている曲はといえば、ジョン・デンバーの「This Old Guitar」、ボブ・ディランの「The Times They Are A-Changin’」、レナード・コーエンの「Suzanne」、フランク・シナトラの「My Way」、ロイ・オービソンの「Running Scared」、パッツィ・クラインの「Stop The World(And Let Me Off)」、エルヴィス・プレスリーの「Are You Lonesome Tonight」、レッドベリーの「In The Pines」、バディ・ホリーの「Listen To Me」、ジョージ・ハリスンの「While My Guitar Gently Weeps」などなど、レコーディング当時28歳の若者が選ぶ曲としてはあまりにも渋く、あまにもアナクロなのがびっくりなのだが、そのどれもが見事なまでにマイカの歌になってしまっていて、ここでもまたまた二度びっくりなのだ(そういえば2013年の5曲入りのデジタル・アルバム『Wishing for A Christmas Miracle with The Micah P. Hinson Family』でもマイカはジョン・デンバーの「Please Daddy(Don’t Get Drunk This Christmas)」を取り上げていた。この曲はぼくも日本語にして歌っている曲なので、何だかすごく嬉しかった。恐らくは親がジョン・デンバーのこの曲を聞いていて、マイカも覚えてしまったのではないだろうか)。

 日本ではほとんどちゃんと紹介されたことのないマイカ・P・ヒンソンだが、屈折して陰影に富む、そして現在33歳にしてはあまりにも渋くて老成しすぎているその音楽世界をぜひとも多くの人たちに味わってもらいたい。そして早く日本にもやって来て、ライブを実現してほしい。
 しかし最新作の『Micah P. Hinson And The Nothing』が完成する前、彼はカタロニアへの旅の途中でひどい自動車事故にあって、今も杖なしでは歩けないと伝えられている。とても心配だ。一日も早い完全な回復を、そして精力的な音楽活動の再開を心から願っている。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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