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【アーカイブス#56】ピート・シーガーこの世を去る *2014年1月

 10日とか二週間に一度ぐらいの割合で、ぼくはAmazon.co.jpのミュージックのページでPete Seegerのアルバムをチェックしている。
 ピート・シーガーはこれまでにライブ・アルバムを含めてオリジナルのソロ・アルバムを80枚前後発表しているし、コンピレーション・アルバムやグループでのアルバム、あるいは誰かと共演しているアルバムなども含めるとその数は優に100枚を越えてしまうだろう。
 ピート・シーガーのアルバムは、ぼくがフォーク・ソングを熱心に聞き始めた1960年代の半ばあたりから、新作が発表されるたびに必ず買い求め、以前に発表されていたものもかなりの枚数買い集めた。ぼくがレコード盤で持っているピートのアルバムは、恐らくは50枚以上になると思う。もちろんCDの時代になってからのピートの新しいアルバムも必ず手に入れている。
 それでもぼくの持っていないピート・シーガーのアルバムはまだまだたくさんあり、それにすでにレコード盤で持っているものがCD化されたりすると、それも手に入れたくなってしまう。それで今日は何か自分の持っていないピートのアルバムが安く売り出されていないかと、まめにAmazon.co.jpをチェックしてしまうというわけだ。というのも、時々ほんとうにとんでもなく安い値段で(たとえば1円とか!!)、ピートのアルバムが売り出されていたりする。ピート・シーガーが発表したすべてのアルバムを揃えたいという大きな夢を持っているぼくとしては、アルバムを安く手に入れられるそうしたチャンスを見逃す手はない。

 つい最近も1992年にソニー・ミュージックからリリースされた『Pete Seeger’s Family Concert』のCDを1円で買い求め(送料が340円)、それが届いたのが1月28日のことだった。
 その日は午後は向ケ丘遊園のスタジオで自分のバンドのリハーサル、夜は渋谷のDOMMUNEのスタジオで早川義夫さんとのトーク・ショーとライブのスケジュールが入っていたので、早めに家を出なければならず、届いたばかりのピートのアルバムは帰ってから、あるいは次の日にじっくり聞くことにした。
 リハーサルを終えて夕方にDOMMUNEのスタジオに駆けつけ、早川さんと2年振りの再会を喜び合い、簡単にサウンド・チェックを済ませた後、携帯の着信を確認してみると、2月に京都でぼくのライブを企画してくれている人から、「ピートさん、亡くならはったのですか? 英語読めません」というメッセージが入っていた。
 亡くなったという確かな知らせではなかったが、ぼくは「ピート・シーガーがこの世を去ったのか」と不安に駆られ、すぐに携帯でフェイスブックを見てみると、そこにはピート・シーガーが亡くなったことを伝える書き込みや、記事のシェアがすでにいっぱい流れていた。

 ピート・シーガーの逝去が明らかになった時、ぼくがまず思ったのは、ピート・シーガーも死ぬんだということだった。もちろん人は誰でも死ぬ。でも94歳になっても元気でいろんな場所で歌い続けているピートのニュースがあちこちから伝わってくる中、彼が死ぬことなんてありえないとどこかで思い込んでしまっていたようなところがある。94歳という高齢、声もあまり出なくなったし、バンジョーを弾く指も覚束なくなっている。それでもピートはまだまだ歌い続けてくれる。すぐにこの世を去ることはないだろう。不死身の人はいないとしても、ピートはかぎりなく不死身に近い人なのだ。あと何年も、それこそ100歳まで彼は歌ってくれる。年齢からいえば、いつ倒れたり、大変なことになってもおかしくないのに、ピートはまだまだぼくらと一緒にいてくれると、ぼくは強く思い込んでいた。
 でもピート・シーガーも死ぬんだ……。

 ニューヨーク・タイムスの1月28日の紙面には「ピート・シーガー、フォーク・ミュージックと社会変革のチャンピオン、94歳で逝去」というタイトルのもと、ジョン・パレレスによる長文の追悼記事が掲載された。それによるとピートは月曜日(27日)にマンハッタンのニューヨーク・プレジビタリアン・ホスピタル(ニューヨーク長老派教会病院)で亡くなり、孫のキタマ・カヒリ・ジャクソンがその事実を公表したと書かれている。
 またアメリカのウィキペディアのピート・シーガーのページには、マイクロソフト・ニュースを情報源にして次のような記述が新たに書き加えられた。「孫のキタマ・カヒル・ジャクソンの話によると、シーガーはニューヨークのプレジビタリアン・ホスピタルで、夜の9時30分頃、眠っているうちに安らかにあの世へと旅立った。シーガーがその病院に入院してから六日目のことだった。家族のみんなに見守られて彼は息を引きとった。シーガーは変わることなくずっと元気にしていて、亡くなる10日前には庭で木を叩き切っていたとカヒル・ジャクソンは語っている」

 つい最近までピート・シーガーがいろんなところに現われて、歌を歌ったり、さまざまな活動をしているというニュースが伝わったりしていたので、ピートはきっと寒い時期にちょっと体調を崩し、それがおおごとになってしまったのではないだろうか。何かの大きな病気を患っているということもなかったようなので、いくつかの新聞が伝えているように老衰による最期だったのだろう。
 去年の9月21日、ニューヨークのサラトガ・スプリングスで開かれた『ファーム・エイド』で、ニール・ヤングやウィリー・ネルソン、ジョン・メレンキャンプやデイヴ・マシューズと一緒に「This Land Is Your Land」を歌っているピートの映像がYouTubeですぐに流れたが、その時のピートはとても元気で、水圧破砕法(ハイドロ・フラッキング)によるシェール・ガス開発に反対し、ふるさとのニューヨークへの愛を歌った新たな歌詞をその曲に書き加えたりと、ほんとうに意気軒昂だった。まさかその4か月後にこんな悲しい知らせを聞くとは。
 それに今年の1月10日にはピートがウディ・ガスリーの精神を受け継いだ者に与えられるウディ・ガスリー・プライズを受賞し、2月22日にニューヨーク・シティのピーター・ノートン・シンフォニー・スペースで授賞式が行われることになっていた。まさかこんなにも突然、ピートがこの世から去ってしまうとは。

 2011年6月にぼくはニューヨークのハドソン川沿いのクロトン・ポイント・パークで開かれたクリアウォーター・フェスティバルを見に行き、その数日後にその近くのビーコンの山の中にあるピート・シーガーの家を訪ね、数時間一緒に過ごし、いろんな話をすることができた。
 その時のことはこの連載『グランド・ティーチャーズ』の2011年7月と8月の2か月にわたり、「夢が叶った。ピート・シーガー訪問記」というタイトルで詳しく書いているので、まだお読みになっていない方がいたら、ぜひぜひ読んでほしい。

 その文章でも触れているのだが、その時ぼくはピートに『ピート・シーガーを日本語で歌う』というアルバムを作りたいと伝えた。ところがピートはある言語を別の言語に移し変えて歌うということは、あまり快く思っていないようだった。ぼくとしてはピートの歌のメッセージを日本の多くの人にしっかりと、きちんと伝えたくて、それで日本語にして歌いたかったのだが(実際いっぱい日本語にして歌っているが)、そのあたりの思いをうまく伝えられなかった。それが今もとても心残りだ。

 1月28日、DOMMUNEでの早川義夫さんとのトーク&ライブ・イベントを終えて夜遅く家に帰ったぼくは、その日届いた『Pete Seeger’s Family Concert』を聞くことはなかった。それは今度じっくり聞くことにして、ぼくがとても気に入っている最近のピート・シーガーのアルバム、2008年、彼が89歳の時に発表した『Pete Seeger At 89』を今一度聞き返し、それから今となっては彼が最後に発表したアルバムの一枚となった『A More Perfect Union』の中のピートの歌「Fields of Harmony」に、「ハーモニーの野原を越えて飛び立って行こう」と歌われるまさに辞世の歌と思える曲に耳を傾けた。かぎりない感謝の思いを込めて。
 ピート・シーガーと出会わなかったら、彼の「We Shall Overcome」や「Waist Deep In The Big Muddy/腰まで泥まみれ」を聞かなかったら、ぼくは歌の道に進みはしなかっただろう。彼との出会いから50年となる今も歌い続けてはいなかっただろう。ピート・シーガーなしにぼくの人生はあり得ないのだ。

 ピート・シーガーさん、ほんとうにありがとうございます。とんでもなく大きくて、かけがえのない、ほんとうに大切なものをいただきました。もっともっとあなたの歌を聞きたいです。ぼくはあなたの歌にいつも耳を傾けながら、これからも歌い続けます。

 それから今となっては彼が最後に発表したアルバムの一枚となった『A More Perfect Union』の中のピートの歌「Fields of Harmony」に、「ハーモニーの野原を越えて飛び立って行こう」と歌われるまさに辞世の歌と思える曲に耳を傾けた。かぎりない感謝の思いを込めて。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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