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名古屋 伏見

 2021年師走、新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置も発令なしの10月から続いているこの状態のおかげで、何となく日常を取り戻してはいた。もちろんこのまま終息するとは思ってはいなかったが、もしそうなれば幸いと誰しも思っていただろう。とは言え、今これを書いているこの時点でコロナ感染者は急増し、マンボウ下の状況。一ヶ月前が遠い昔にも感じる。
 その頃の師走の盛り場は、人通りもだいぶ戻っているように思えたが、ほとんどがマスク姿である。そして私が知る限りでは、飲み屋でやたらに騒いでいる輩はいなかった。静かに飲めば良いだけのことだ。酒は悪くない。
 そんな12月の初旬、前乗りで名古屋に行く。瀬戸市での昼公演のコンサートの為だが、当日乗りのメンバー、スタッフと翌朝に名古屋駅で落ち合うことにしたので、太閤口近くに宿をとった。近年、名古屋近辺での演奏はライヴハウスにせよホールにせよ当日入りがほとんどで、ここで一晩自由に過ごすのは多分十数年ぶりのことだろう。

 そして、夕刻に地下鉄伏見駅近くの大甚本店の暖簾をくぐる。ここに来るのはほぼ前乗りの時しかないのだが、一度だけリハーサルが早く終わったので、本番前の間まで寄ったことがあった。ただその時は30分程で戻らなければならなかったので、落ち着いた時間を過ごしたとは言えなかった。今回はそれ以来だから、まあ十年ぶりくらいか。ともかく私が居酒屋という場所に惹かれ始めたきっかけの一つの店だ。当然、名古屋前乗り決定時点で再訪は決めていたのだった。
 金曜日なので、16時過ぎでも多少混雑を想定していたが、予想以上であった。ただ一人なので、片付けるのを待つだけだが、今回はまず二階に通された。ここの二階は初めてなので興味深かったが、少し居酒屋風情には欠ける。が、ちょっと待っていると、お一人なら下で、と入口近辺の席をあてがわれた。導線のちょっと落ち着かない場所だが、店が良く見渡せ、何より酒燗器の近くなのが嬉しい。そして入口近くは一人客が相席になっていることが多く、それもまた良い。

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 まずは瓶ビール、つまみはとりあえず無しで。ここは肴は自分で取りに行くシステムなので、頼まなくても何も言われない。だいたい小皿のカウンター前は今は人が多い。ビールはゆっくり飲み干すが、店の雰囲気がどうも以前と違い、なかなか落ち着かない。見渡してみるとどうやら奥では忘年会なのか、店員が忙しそうだ。入口では後からの新規来店客は満席のために断られている。ああ、確かに此処でこんなに満席だったことはない、そりゃ落ち着かない訳だが、皆コロナ禍で抑えていたものをこの隙に少しでも解放したいのだ。そして私もその中の一人だ。席があっただけでもラッキーだと思い、ビールを追加し、小皿のテーブルを覗き、ポテトサラダを選ぶ。普段は然程食べないが、酒場では割とよくポテトサラダかマカロニサラダを注文している。おそらく自分の中でビールに合って少しずつつまめるものの選択肢が少ないからであろう。それに何処でも安価だ。

 自分の周りには一人客が多いのだが、男女カップルも二組はいた。何となく会話が聞こえてくるが、一組は予約のレストランまでの食前入店のようだ。それにしてはテーブルが結構豪勢で、刺身盛り合わせやら白子やら、そして二人ともビールを豪快に飲み干し、全て平らげ出て行った。30~40分程か。なかなかに凄いなと感心する。もう一組は割と若手、テーブルは少し離れていたのだが、酒が入って声が大きくなっているのか、聞きたくなくても聞こえてくる、ずっと東京の渋谷の話をしている。何でそんなことで盛り上げれるのかとも思ったが、これもまた酒場の日常だ。

 そう言えば、此処は以前は煙草が吸えたが、現在は全面禁煙になった。ただ、店の前すぐ外で喫煙はできる。伏見駅近くだが、路上禁煙区域ではなく灰皿が用意されているのだ。それと以前はアルコールはビールと日本酒のみだったが、今や焼酎やハイボール、チューハイもメニューに加わっている。老舗だが、微妙に変わってきているものだ。

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 さて、外での煙草で少し冷えを感じたので、燗酒にしよう。まずは熱燗で。またもとりあえずつまみ無しから。まだポテトサラダは残っているが、これじゃないよな、と思いつつまあ良いか。ああ、燗酒の樽の香りがたまらん。これだこれだ、と此処に来た証を感じる。
 店内はまだ少しだけしか空席はないが、店は落ち着いて来た。店員の往来も減ったし、周りは私より前に着席している男の一人ものばかりだ。そしてその誰もがあまり肴を並べない。(此処は勘定を皿でするので、食べ終わっても下げない。)静かに燗酒をお代わりして、そこにいるだけなのだ。そうだよ、この感じに惹かれたんだよな、と初めて来た時の雰囲気を思い起こさせた。気軽に酒を飲んで、そこに座っているだけなのに、少し凛としている、とでも言おうか。でも同世代の男ども、自分を見つめ直すとか、そんな深刻なことをしているわけじゃない。些細な日常の思い起こしか、遥か昔のこれまたちょっとした失敗とか、もしくは何も考えずぼーっとしているか、そんなところだろう。でもそれで良いのだ、私もそうだ。

 ようやく馴染んで来たので、本の頁を捲る。酒をちびちびやりながらの読書というのは、音楽関係以外では唯一の趣味だろう。私の読書は八割くらいは小説である。その内の一、二割は推理、SFものだが、それらは心の掴まれ方やその先を知りたい欲望に駆られ読むスピードが早くなる。もちろん面白いのだが、性分としては些細なことやゆっくりと何事もないようなものをだらだらと読むことを選んでいるようだ。だからペースは遅いほうが良い。よくわからなくて同じ文章を2度3度読み返すくらいが良いのだ。ただ今回は本の選択はちょっとこの場には違っていた。だいたい5分もすれば、その世界に入れるのだが、今回のはペースが変わりすぎるのだ。フォークナー『死の床に横たわりて』。各章が短く、しかも語り手が次々に変わっていき、話は進む。だから一定の流れではない。2~3頁で5分も経たずに次の章になる。そして次の語り手へ。こちらはその前に一杯ツィーと喉に流し込む。その繰り返しだ。ということは、否、まんまと本と酒のペースに巻き込まれてる訳か。ここでようやくこの選択は実は間違っていなかったことに気がつき、徳利が空になった。

 もう一杯かな、次は温燗で。

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 今度は酒のあてを考えるとしよう。いや、もう少し頁を捲る。1930年代のアメリカ南部とこの燗酒の香りが妙にマッチして来たのだ。おっ、次は子供の出番だ、これはキリがいいぞ、というところで、温燗を一口のみ、注文カウンターの黒板に足を運ぶ。見るまでもなく生牡蠣を食べようと思ったのだが、既に消されている。うむ、チビチビと長居の弱点だな。だが牡蠣はグラタンかフライならまだある。さっき運ばれていくのを目にしたグラタンも捨てがたいが、ここはまたしてもカキフライを選択。
 店内は少し空いて来たな、と思ったら、もう19時過ぎ、かれこれ二時間半くらい経っていた。徳利が半分くらいになる頃カキフライが到着。小ぶりで四つほどで、私にはちょうど良く、しかも味が濃い。ウスターソースがまた良い。もうほとんど常温に近い酒を味わいつつのこのカキフライは悪くない。小ぶりだったので尚更だ。

 確か21時閉店の大甚本店、まだお開きには時間があったが、ここで店を後にした。
 瓶ビール2本、徳利2本で4合、ポテトサラダ、カキフライで三時間近くのんびりさせてもらった。近年の一人飲みにしては、ゆっくりと量は飲んだ。宿までは歩いて帰ることにした。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
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