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酒田


 冬の東北は随分久しぶりのことだった。頭の中で辿ると、それは東日本大震災より少し前で、かれこれ十五~六年ぶりだろうか。この2月、白崎映美さんのコンサートで山形と秋田に訪れた。そのかれこれ十五~六年前は宮城と山形を中心に周った記憶があるが、中でもよく覚えているのが、山形市より少し北での宿泊の夜のことである。自治体の小さなホールでの演奏を終えたその夜から雪が降り出した。山形市内ではない、多分左沢線沿線の町の宿に車で送ってもらう頃には、結構降りは強くなってきたが、運転する地元の方にとっては冬の日常茶飯事で、なんてことはなく無事に宿に着いた。そこは観光旅館ではなく、ビジネス旅館。昔で言うところの商人宿とか木賃宿という感じで、部屋に通されると、その4畳半一間は既に石油ストーブが灯され、部屋は十分に温まっていた。道すがらビールを調達して部屋に入ったのだが、その瞬間に、ああ日本酒にしておけば良かった、そんな部屋だった。(そういうどうでもいい些細なことはなんだか覚えていたりもするものだ。)雪の降る音が聞こえるかのような静かな夜で、小さな炬燵にも電源を入れ、一杯飲みながら本を読んでいた。特に疲れてはいなかったので、酒は程々に進み、本にも夢中になっているが、ストーブに宿の方がマジックで書いたであろう ”換気必須” の文字が目に留まり、時折扉を開ける。かなり夜も更けてきた頃、外から耳慣れない音が聞こえた。そろそろ就寝に備えて窓を開けての換気も気にしていたので、外を覗いてみると、除雪車の作業音だった。その窓の外は玄関の表通りとは反対側の細い路地に面していたのだったのだが、そこを細かに進む除雪車の動きと降り続ける雪に見惚れてしまったのだ。ただそれだけのことだが、この車寅次郎が泊まっていそうな部屋の雰囲気と相まって、冬の東北というとまずこの夜を思い出す。

 今回は公演前日入りの車移動。私も色々な場面でお世話になっているドライバーFさんの完璧な冬装備の自動車で関越道経由で北に向かった。群馬県の山間でも雪は少なく、新潟県に入っても雪景色とは程遠い。車窓から見えるいくつかのスキー場もかろうじて営業しているという程で人は少ない。そして日本海が近づくと雪はほぼ無く、なんだか肩透かしだが、自動車移動にとっては、大変に好都合で安心感を得られることこの上ない。
 村上市の北、山形県境が近くなる頃には夜になった。海の脇を走っても何も見えず、ここは海だよ、と言われないと分からないほどだ。そしてそのあたりで雪が舞い始めた。交通量はそこそこあるので、道がすぐに白くなるということはなかったが、みるみるうちにタイヤで踏み潰された轍が伸びている。その後、酒田市に入る頃には、すっかり雪景色になっていた。私は出発直前にゴム長靴を荷物に加えたが、メンバーの長靴購入でホームセンターに寄った際に駐車場に降り立つとその雪の密度の濃さに驚いた。子供だったら口にするのは良く分かる。
 酒田には二度目の来訪だが、前回がかなり前だったので、街中に入っていろいろ眺めていても、思い出すことはなかった。三十年は前だったと思うので、街並みも結構変わったことだろうし、その時は鉄道移動だったので、見え方もかなり違っているのだろう。
 
 さて、宿に着く。翌日の会場、酒田市民会館の隣の旅館で落ち着いた風情だ。フロント奥のロビーでもう一杯やりたくなるような落ち着きを得る。部屋は4畳半、トイレと風呂は付いていない。だが入り口には半畳ほどの踏み込みがあり、襖を開けると部屋がある。前述の部屋と比べ、灯りの所為か温もりを感じるし、窓の外の小さな中庭も良い。が、そのまま部屋でゆっくりするわけではなく、皆で雪の降る町を飲みに出ることになった。白崎さんの郷里の酒田なので、店を探すということはない。雪の中をただただ付いていった。こんなに長靴があって良かった、と思うことはそんなにはない。
 今回、私はチェロ奏者の坂本弘道さんからの紹介で参加と相なったが、その坂本さんは当日入りということで、雪の中を白崎さんの後に続いたのは、前述のドライバーFさん、ツアーマネージャーSさん、鍵盤とマンドリンのロケット・マツさんと私だった。
 そこそこの飲み屋街なのだが、雪の所為なのか割と暗い。しんしんと降り続いているので、かなり歩いたような気もしたが、たかだか5分程度だった。

 何も知らなくても迷うことなく、扉を開けるこの店構え。もし満員だったら、このままこの店前を肴に雪見酒でも良い。
 入り口すぐのカウンターがなんとも魅力があったが、5人ということで座敷に通される。ただ残念なことにそろそろ肴のラストオーダーの時間なので、もうその辺りは任せるままにした。

 どのつまみもそう滑らかなものではなく、頬張ると逞しさが先立つ。中でもこの写真の一番奥にある赤かぶ(あつみかぶ)の漬物は酸っぱさと甘さが絶妙で美味だが、咀嚼にはちょっと時間を要する。だが、ついつい手が伸びてしまう。

 暖簾を下ろした後も、こちらの酒や肴が尽きるまで追い立てられることなく、短い時間ではあったが、ゆっくりとこの酒場を堪能した。帰り際に、次はここで飲みたい、と切に感じた小さなカウンターの写真を撮った。

 その後歩いて別の店へ行く。白崎さんはともかくSさんもFさんもこの界隈は熟知していて、もうただ後を付いて行くばかりである。辿り着いたそこは年配の女性がおそらく一人で切り盛りしているであろう店で、平日でも夜遅くまでの営業しているとのことだ。店内はいくつかの若者のグループが見受けられたが、程よい話し声で再び落ち着く。そこでもそこそこは飲んだのではあるが、慣れない長靴で雪道を徒歩で帰るので、本当に適度に軽くひっかけただけだった。
 そして宿に戻り、一人での大浴場を満喫し、缶ビール350mlと共に吉川英治の歴史小説の頁を少し捲り、床に着いた。

 翌日、坂本さんも無事到着し、コンサートは執り行われた。楽しくそしてとても濃密な瞬間が多々あった。写真をいくつか載せておこう。(撮影 : 楽智)

 商工会議所主催のコンサートだったが、ステージの造形と商工会のメンバーが登場するアトラクションのそのギャップをなんとも微笑ましくも思った。しかし本番となると、我々はただ集中して演奏した。

 この旅、私はエレキギターとアコースティック・ギターの二つで臨むこととなった。東京でのリハーサルの後、エレキはテレキャスターやジャガーにするか迷っていたのだが、編成上、バンドのレンジを広げるより、重心を下げて落ち着かせる方向にすべくグレッチ2622Tにした。アコースティックとの持ち替えもボディの形状がこちらの方が都合が良く、何より購入から二年半、ネックがようやく落ち着いてきて、わずか0コンマの弦高差がやっと保たれるようになったのだ。これは新品で安価な量産品では仕方がないことでもあり、チューニングを色々変えることを想定して使っているのだが、よく使うDチューニング、Dmodal、Gチューニングの弦を緩める方ではなく、二度上のEやAと上げる方向で試したのが功を奏したのかもしれない。長年のただの感だったのだが、ホッとした。
 ギターアンプは雪道での車移動や運搬を考慮してフェンダーではなく、何度も修理を重ねているヤマハ J-25を選んだ。かつてステージの本番でいきなり不具合になり、その後おっかなびっくりの状態だったが、何度かのメンテナンスを経て、復活。私はこれはトランジスタで響かせる日本ならではのエレキの音の最高峰の一つだと思っている。ただ、このJシリーズは1970年代後半のものなので、バッフルの合板の経年劣化がどのモデルも著しく、それをパイン材に変えるだけで驚きの効果がある。後は自分の好みに合わせスピーカーの変更。オリジナルは少し薄めの響きだが、この埃っぽさは魅力の一つでもある。が少し歪みも多い。なので、エミネンスのヘンプコーンを載せ替える。歪みは減少し、出音も大きくなったが、エイジングは時間がかかり、ようやく最近落ち着いてきたのだ。

 ついつい最後は楽器と機材の話になってしまった。今回、出番はそう多くはなかったが、重要な役割を担ったアコースティック・ギターの話は次回に回すこととしよう。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
official website: http://skri.blog01.linkclub.jp/
twitter: https://twitter.com/sakuraiyoshiki 

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