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【アーカイブス#53】ローランド・ヴァン・キャンペンハウト *2013年10月

 今年2013年の2月、エリック・アンダースンの70歳のバースディ・パーティに出席するためだけに、はるばるオランダのユトレヒトの近くの小さな町まで飛んで行ったことはこの連載の3月の文章でとても詳しく書いた。パーティはエリックが現在住む町の近くの大きな農家を借りて行なわれたのだ。しかしひとつ書き忘れたことがある。そのパーティでベルギーの素晴らしいミュージシャンと出会ったことだ。
 彼の名前はローランド・ヴァン・キャンペンハウト(Roland Van Campenhout)。ベルギー人の名前の読み方がよくわからないので、カタカナでの表記がこれで合っているのかどうかよくわからないが、パーティで彼はみんなから「ローランド」と親しげに呼ばれていた。ヨーロッパやアメリカからエリックのパーティに集まったたくさんの人たちは、古くから彼のことをよく知っているようだった。寡聞にも、ぼくはこのパーティで知り合うまで、彼のことはまったく知らなかった。
 エリックのバースディ・パーティでは、エリックの知り合いのバンドがカントリーやアイリッシュ・ミュージックをずっと演奏していて、その間にエリックをはじめ、奥さんのインゲ、エリックの娘のサリやシグナなどが、それぞれソロで歌ったりしたが、その中で見事なギター・テクニックで味わい深いブルースを歌ってくれたのがローランドだった。長い髭をはやしたヒッピーか仙人のような風貌で、低く深い声でブルースを歌う彼に、ぼくはワインを飲むのも一時忘れて聞き惚れてしまった。エリックとも古くからの知り合いのようで、二人はとても親しげだった。
 パーティでぼくはローランドと二言、三言言葉を交わし、深夜にパーティが終ってホテルに帰ろうとすると、何と彼が前の奥さんと一緒に泊っているのはぼくと同じホテルだった。ぼくら同じヴァンに乗ってホテルに向かい、その中でもちょっぴりお喋りをした。

 パーティの翌々日、ぼくはまだエリックが住む町のホテルに泊っていたが、エリックから家に遊びにおいでと連絡が入り、タクシーに乗って彼の家に行くと、しばらくしてローランドもやって来た。エリックの家では、ローランドとぼくの間で話が弾み、彼は自分のこれまでの活動のことやピート・シーガーのことなどをいろいろお喋りをして、そこにあったギブソンのギターを手にして、これまで聞いたことがないような超変則のチュニングをして、不思議なギター・ソロも聞かせてくれた。
「おもしろいチュニングをすると、新しいメロディが生まれるし、これまでになかったギターのフレーズも見つけることができる」と言いながら、ローランドはいつまでもギターを弾き続けていた。
 ローランドたちは一足先にエリックの家から去ることになり、帰り際、彼はぼくに自分のCDを2枚もプレゼントしてくれた。そして「ムロを知っているか? 彼とは親友なんだ」と言う。ムロとは、ぼくもとても親しくしている翻訳家の室谷憲治さんの海外での呼び名だ。室谷さんはエリックとも大の親友だ。「6月にベルギー大使館の仕事で東京に歌いに行くことになっている。その時にムロと一緒に三人でぜひ会おう」と、ローランドは言って去って行った。

 エリックの家でぼくがローランドにもらったのは、彼が2008年に発表した『Never Enough』と2012年にリリースされた2枚組40曲入りのベスト・アルバム『Alle 40 Goed』の2枚だった(正確にはCDの枚数で言うと3枚だ)。東京に戻って早速『Never Enough』から聞き始めたぼくはたちまちのうちにローランドの世界の中に引きずり込まれてしまった。
 基本的に彼はブルースマンなのだが、アメリカのフォーク・ソングにもとても造詣が深く、フィンガー・ピッキングのギター・ソロも美しく繊細で独特の魅力があり、しかもあまり馴染みのない民族楽器も見事に弾きこなす。低い声で歌うというよりもポエトリー・リーディングのような語られるオリジナル曲は、チャールズ・ブコウスキーやアメリカのビート詩人に通じるところがあり、実際彼はグレゴリー・コーソ(Gregory Corso)の詩を自分の曲の中で取り上げてもいる。
 もう一枚の『Alle 40 Goed』には、1993年から2009年までの16年間の間にローランドが発表した曲の中から40曲が選ばれているベスト・アルバムで、『Never Enough』からも8曲収められている(『Never Enough』は10曲入りだから、ほとんどではないか!!)。
 このベスト・アルバムを聞くと、ローランドが単なるブルースマン、あるいはフォーク・シンガーの枠を超えた、とんでもなくスケールの大きなミュージシャンだということが確認できる。アルバムの中には朗々と歌い上げられるバラード曲からヨーロッパの民族音楽のような曲、あるいはルーヴィン・ブラザース、ローリング・ストーンズ、ジェシ・ウィンチェスター、カントリーのアレン・レイノルズなどの曲のカバー、はたまたボブ・ディランの「Masters of War/戦争の親玉」を母国語で歌った「Oorlogsgeleerden」まで、とにかく一曲一曲前の曲とはがらりと違ったスタイルの曲が飛び出して来て、このカメレオンのようなミュージシャンはいったい何者なんだと驚かされつつ、40曲をまったく飽きることなく聞き終えてしまう。
 そう、ローランド・ヴァン・キャンペンハウトとはいったい何者なのか?

 そこで早速インターネットで検索してみると、ローランドのオフィシャル・ホーム・ページもウィキペディアのローランドのページもすぐに見つかったのだが、これがどちらもベルギーの言葉で書かれているので、ぼくにはまったくちんぷんかんぷんだ。ベルギーはベルギー語というものはなく、使われているのは地域によってフランス語とオランダ語に分かれているのだが、ローランドの母国語はフラマン語とも呼ばれるオランダ語の方だった。
 何か英語のページはないものかと必死に探したところ、ローランドの「My Space」のページに唯一英語のバイオグラフィーが掲載されていた。そこでようやくぼくは彼の正体を知ることが出来た。
 ローランドはベルギー西部のフランダース(フランドル)地方出身で(ベルギーのウィキペディアによると1945年生まれとある)、1960年代初めにウィリアム&ローランド・スキッフル・グループのメンバーとして音楽活動を開始し、その後Miek & Roelというフォーク・デュオのバック・ミュージシャンを経て、69年からソロとして活躍するようになった。
 CBSと契約して1971年にはソロ・デビュー・アルバムの『A Tine For You』を発表し、その後も72年、74年、75年とコンスタントにアルバムを発表し続けたが、やがてローランドはロリー・ギャラガー・バンドのメンバーとなって世界中をツアーし、ブルースに深く入り込むようになった。1981年にはまたソロ・ミュージシャンに戻ってアルバムを発表し、1985年のアルバム『76 Centimeters Per Second』が、彼にとっては最初の商業的な成功作となった。
 90年代になるとAmo Hintjensとのユニット、Charles et les Lulusでロックを追求するようになり、1998年にはベルギーのフランデレン音楽家協会が主催するZAMUアワードで長年にわたって音楽をやり続けたということで賞をもらっている。
 ベルギーのウィキペディアを見ると、21世紀になってもローランドはソロとして、はたまたさまざまなミュージシャンたちと共演しつつ、精力的に活動しているようで(フラマン語なので正確にはわからないのだが)、彼が現在までに発表したアルバムは、ベスト・アルバムも含めると25枚に及ぶ。

 オランダでのエリックのバースディ・パーティには彼の新しいアルバムを発表しているドイツはケルンのメイヤー・レコード(Meyer Records)の代表のヴェルナー・メイヤーさんも来ていて、ぼくは彼とも知り合うことができ、嬉しいことにメイヤー・レコードで出しているいろんなアルバムを送ってもらえることになった。しかももっと嬉しいことに、彼はパーティでぼくがエリックと一緒に日本語で歌った「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」をとても気に入ってくれ、メイヤー・レコードでさまざまなシンガー・ソングライターが弾き語りで一曲ずつ歌うコンピレーション・アルバムを作る予定なので、そこに日本語の歌で参加しないかという、すごい申し出までされてしまった。この企画は現在深く静かに進行中で、録音した音源はすでにドイツに送っている。これから先どういうことになるのかわからないが、歌い始めて45年、もしかしてドイツ・デビューが果せるようになったとしたら、これはもうぼくにとっては実に画期的なできごとだ。
 話はちょっと脱線してしまったが、ケルンのメイヤー・レコードからは最近リリースしたアルバムがどどっと東京のぼくのところに送られて来て(ありがたいことです)、その中の一枚がローランド・ヴァン・キャンペンハウトの新しいアルバム『Dah Bluesz Iz-a Comming』だった。

 これは2012年3月26日にケルンのTheater Der Kellerで、ローランドがハーモニカのSteven De bryn、竹笛やZhongruanなど中国の楽器を演奏するPascale Michielsと三人で行なったコンサートのライブ・アルバム。レッドベリーやソニー・ボーイ・ウィリアムソンのブルースや、「In The Pines」、「Going Down Slow」といったトラディショナル・ナンバー、そしてローランドのオリジナル曲やギター・インストゥルメンタルなど9曲が収められている。
 ローランドの渋みのある歌、三人のスリリングで緊張感溢れる演奏(Stevenのハーモニカが鬼気迫るすごさだ!!)が楽しめ、今現在のローランドの音楽をリアルに伝えてくれる。
 恐らくこの6月にローランドが来日した時にもこんな音楽を披露してくれたに違いない。あれっ、してくれたに違いない? そう、6月はぼくもばたばたしていたのだが、ローランドからは連絡はなく、室谷憲治さんからも何の情報も入って来ず、結局日本でのローランドとの再会は実現しなかったのだ。残念無念。でもローランドとは世界のどこかでまたばったりと会えるような気がする。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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