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【アーカイブス#78】デヴィッド・ポー*2016年7月

デヴィッド・ポーのデビュー・アルバム『David Poe』がアメリカのソニー・ミュージック傘下の550 Musicレーベルからリリースされたのは1997年9月のことで、このアルバムは日本でもほとんど時を同じくしてエピック/ソニー・レコードから発売された。日本盤のアルバム・タイトルはそのままシンプルに『デヴィッド・ポー』で、オビに書かれていたキャッチ・コピーは、《NYCのリアルタイム・ストリート・フォーク“デヴィッド・ポー”名曲「ブルー・グラス・フォール」を含む11編の物語を携えてデビュー。》というものだった。
ニューヨークからの新しいストリート・フォーク・シンガーの登場、しかもアルバムのプロデュースはぼくの大好きなTボーン・バーネットということで、ぼくはそのアルバムにすぐにも耳を傾け、デヴィッドが自分の体験をもとにして作った物語性に富み、情景描写が豊かで、揺れ動く心の動きも繊細に微妙に鮮やかに表現されているその歌の数々にたちどころに心を奪われてしまった。その歌声も、巧みなギター・テクニックも、そして本格的に音楽活動を開始した頃の仲間と一緒に作り上げて来た、ありきたりのフォークの枠の中には決しておさまらない自由で大胆で瀟洒でもあるそのサウンドも実に魅力的だった。そうした歌やサウンドに独自のスパイスを効かせたと思えるTボーンの名伯楽ぶりも素晴らしかった。一枚のアルバムで、それまで存在をまったく知ることのなかったデヴィッド・ポーは、ぼくの心を鷲掴みしてしまったのだ。

エピック/ソニーからの『デヴィッド・ポー』の日本盤のFred Suicideという人(いったい何者!?)が書いた解説によると、オビには「NYCのリアルタイム・ストリート・フォーク」と書かれていたデヴィッドは、実はニューヨークの出身ではなく、オハイオ州デントンの出身で(生まれはミシガン州アン・アーバー)、小さい頃からクラシックを仕込まれ、その後いろんなジャンルの音楽に触れながら、いくつものガレージ・バンドでプレイし、スタジオの経験も積み、高校生の時に作ったバンドでレコードを出したところ、それがラジオでかかって、「何でもできるような気になった」ということだ。
大学はオハイオ州オックスフォードにある伝統校のマイアミ大学に進み、そこで科学を専攻して卒業。1991年、アコースティック・デュオをやっていたデヴィッドはニューヨークのC.B.G.B.の姉妹店であるパフォーマンス・スペースのC.B.G.B.’s 313 Galleryに出演し、その翌年マンハッタンに移り、そのギャラリーのハウス・サウンドを担当するアーティストとしてレギュラー出演することとなったと、日本盤の解説には書かれている。ニューヨークのバワリーにあるC.B.G.B.やC.B.G.B.’s 313 Galleryには、1990年代にニューヨークに行った時、ぼくもライブを見にどちらにも足を運んだことがあるが、C.B.G.B.の隣にあるギャラリーはどちらかというとアコースティック・ライブ中心の小さなスペースで、そこでデヴィッドはP.A.の仕事をしながら、しょっちゅう歌っていたのだろう。
ニューヨーク・パンク発祥の地、その拠点として知られたバワリーのC.B.G.B.は2006年には閉店となり、創設者のビリー・クリスタルもその翌年2007年にこの世を去って、伝説の存在となった。

『デヴィッド・ポー』の日本盤のFred Suicide氏の解説からの引用を続けよう。1994年、デヴィッドはドラマーのシム・ケインと出会って、キリスト・ブラザーズというユニットを結成。やがてデヴィッドはシムのプロデュースで『Glass Suit』という6曲入りのEPを作って発表し、1996年の夏には550 Musicと契約を交わしてデビュー・アルバムのレコーディングに取り組むことになった。そのレコーディングにはシムや、同じく『Glass Suit』を一緒に作ったベーシストのジョン・アビーも参加し、『Glass Suit』を気に入ったTボーン・バーネットがデビュー・アルバムのプロデューサー役を買って出たということだ。
「デヴィッド・ポー、素晴らしいな」と、彼のデビュー・アルバムにしょっちゅう耳を傾ける日々が続き、それから半年が過ぎ、一年が過ぎ、アルバムのCDディスクがプレイヤーのトレイに置かれる回数もやがて減り始め、「デヴィッドは元気に活動しているのかな? 新しいアルバムはまだなのかな?」と思い始めた頃、何とデヴィッドが日本に歌いにやって来ることになった。しかも彼を日本に呼んだのは音楽好きのぼくの親しい友人のYさんで、彼女はもちろんプロフェッショナルのプロモーターなどではなく、自分一人で、あるいは友人たちと一緒に自分の好きなミュージシャンと連絡を取り合って、手作りで彼らの日本ツアーを企画し、実行に移している。
やがてバースリー(barthree)という名前で知られるようになる彼女のたちの「自分たちの好きなミュージシャンを自分たちが呼んで自分たちの手でライブ・ツアーを行う」というプロジェクトは、1999年1月のビル・ボンクのソロ・ライブが第一回目で、その後現在まで、スティーヴ・ウィン、ニール・カサール、ジェニファー・ジャクソン、グレン・フィリップス、ウィリー・ワイズリー、コリーン・ヒクセンボー、オータム・ディフェンス、キャリン・エリスなどなどの来日ツアーが実現している。その第二回目として1999年9月に行われたのがデヴィッド・ポーとロン・セクスミスのバンドのメンバーとしてちょうど来日していたビル・ボンクとドン・カーの三人での三ヶ所での東京公演だった。

バースリーとはうんと近いところにいるぼくはもちろんデヴィッドとビルとドンの三ヶ所でのライブをもちろん見に行き、デビュー・アルバムで聞き親しんでいた歌の数々や新しい歌をギブソンのでっかいアコースティック・ギター、J-200を抱えてデヴィッドがたったひとりで弾き語るのを存分に味わい、ライブの前後には彼といろんな話もすることができた。
今は亡き早稲田のジェリー・ジェフというお店で打ち上げを兼ねておまけのライブを行った時は、成り行きでぼくも歌い手だからと歌うことになってしまい、デヴィッドのギターを借りて「ミー・アンド・ボビー・マギー」や「ミスター・ボージャングル」を歌ったら、アメリカの有名な歌が日本語で歌うとそうなってしまうのかと、デヴィッドがとても驚き、大喜びしてくれたことをよく覚えている。そしてデビュー・アルバム『デヴィッド・ポー』のブックレットにサインをお願いしたら、「ニューヨークで一緒に騒げるのが待ちきれないよ」など、いっぱい言葉を添えて、生涯の宝物となる素晴らしいサインを彼はしてくれたのだ。

日本でも発売されたデヴィッド・ポーの1997年のデビュー・アルバムは、少しは話題にもなったのだが、残念なことにライブにまで足を運んでくれる人の数はとても少なかった。
2002年にはアメリカのソニー・ミュージックのエピック・レーベルからセカンド・アルバムの『The Late Album』が発表されたが、日本では一部の熱心なファンの間でしか話題になることがなかった。ブラッド・ジョーンズほか何人かのプロデューサーを迎え、最初の頃からの音楽仲間のシム・ケインとジョン・アビーをフィーチャーして作られたそのアルバムは、デビュー・アルバムの世界をより先に推し進め、より深い味わいと怪しい翳りを作り出していた意欲作で、これでデヴィッド・ポーの存在もより多くの人に知られるようになり、ぼくのようにその魅力に舞い上がってしまう人がどんどん出てくるだろうと喜んでいたのに、日本ではまったくそういう状況にはならなかった。どうしてなのか? とても悲しい…。

デヴィッドは東京でのライブがとても楽しかったというか、きっと強く印象に残っていたのだろう。来日してから3年後に発売されたアルバムなのに、『The Late Album』のブックレットの最後のページに手書きでびっちりと書かれた「THANKS」のクレジットの中には、バースリーのYさんやぼくの名前も入れてくれている。とても嬉しい…。もっともぼくの名前は、Goro Nahagawaになってしまっているのだが。

デヴィッド・ポーの三作目のアルバムは、2004年にヨーロッパで、翌2005年にアメリカでリリースされた『Love Is Red』で、デヴィッド(歌とギター)、シム・ケイン(ドラムスとパーカッション)、ジョン・アビー(ベース)の3人で、2004年2月の一週間、ベルリンのモノンゴ・スタジオで(ほぼ)ライブでレコーディングされたもので、新曲5曲とデビュー・アルバムとセカンド・アルバムに収められていた5曲の再録音、全10曲が収められていた。全曲トリオでの演奏なので、アルバムのジャケットにはデヴィッドだけでなく、シム・ケインとジョン・アビーの名前も小さな字で入っていた。

そしてこのスタジオ・ライブ・アルバムのあたりから、デヴィッドはライブ・アルバム、ライブDVD(2007年のフィラデルフィアのワールド・カフェでのライブで、デヴィッドのほか、ギターにダンカン・シーク、ドラムスにダグ・ヨーウェル、ベースにミロ・デクルツが参加)、それにニューヨーク・シティのダンス・カンパニー、Ceder Lake Contemporary Balletの作品『The Copier』のための音楽、コンテンポラリー・ダンス・カンパニー、Pilobolusのダンス作品『Shadowland』のための音楽、ダンカン・シークと二人でマイク・マイアーズ監督の映画『Harvest』のための音楽などなどを手がけるようになり、シンガー・ソングライター、デヴィッド・ポーの新たなスタジオ・アルバムは長い間登場して来ないままになってしまった。
 それでデヴィッドの歌にあれだけ夢中になっていたぼくも、彼の新しい歌がなかなか聞けないということで、だんだんと関心が薄れていくようになっていった(ごめんなさい、ごめんなさい、薄情な聞き手でごめんなさい)。

そしてはたと気がついたら、デヴィッド・ポーは二年前の2014年に新しいオリジナル曲のスタジオ録音アルバム『GOD & THE GIRL』を自主制作のかたちで発表していて、遅ればせながら手を入れて聞いてみると、これがほんとうに、ほんとうに、ほんとうに素晴らしい作品なのだ。これまでのデヴィッドのアルバムの中で最もシンプルで素朴で、裸で剥き出しの音作りがされているアルバムで、敢えて言うならいちばんフォークっぽい(それでもありきたりのフォークとは遠くかけ離れた斬新な世界なのだが)。収められている歌はほとんどがラブ・ソングで、どの曲も単純明快な言葉や表現の繰り返しなのだが、やたらと難しい言葉を使ったり、もってまわった気取った言い回しをしている凡百の歌詞よりも、愛の優しさと切なさ、至福と残酷さ、喜びと悲しみが、100倍も、1,000倍も、10,000倍もリアルに、痛切に、深く、重く、ビリビリと伝わってくる。デヴィッド・ポーの独自で簡潔な歌詞の世界、ここに極まれりという感じだ。

『GOD & THE GIRL』は、エミール・ケルマンをプロデューサーに迎え、現在デヴィッドが暮らすロサンジェルスのナイト・キッチン・スタジオで録音されている。レコーディングにはジョン・アビー(ベース)、ホルヘ・バルビ(ドラムス)、エミール・ケルマン(チェロ)、ダグ・ヨーウェル(ドラムス)、エミー・ラーシュ(ヴォーカル)など、さまざまなミュージシャンが参加している。
ぼく自身の薄情さゆえに、少し遅れて聞くことになってしまった(ごめんなさい)デヴィッド・ポーのこの最新アルバム『GOD & THE GIRL』は、微塵の疑いもなくデヴィッドの最高傑作にして、ぼくがこれまでに聞いてきた数多くのシンガー・ソングライターのアルバムの中でもベスト10に入る素晴らしい作品だ。無人島に行く時に何枚かアルバムを持って行ってもいいと言われたら、必ずやその中の一枚に入れたい作品でもある。
この傑作『GOD & THE GIRL』と共に、今度こそ日本でもデヴィッド・ポーの素晴らしい魅力にみんなが気づいてくれますように。そして願わくばまたバースリーの呼びかけで、デヴィッドがまた日本に歌いに来てくれますように。彼の新しい歌をライブでいっぱい聞きたいし、おいしいワインを飲みながら彼といろんな話を久しぶりにいっぱいしたい。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html


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