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【アーカイブス#26】日本から着いたばかりの夜、ブルックリンで至福のThe Low Anthemライブ体験 *2011年7月

 ニューヨークに住む古くからの友だちのメグから、「The Low Anthemというとても素敵なバンドのライブを見たよ」と教えてもらったのは、ちょうど一年前の夏のことだった。メグがいいというミュージシャンや音楽は絶対にはずれがないので、ぼくは早速そのバンドのCDを手に入れ、たちまちのうちに虜となってしまった。
 そしてすぐにこのMIDI RECORD CLUBの連載でThe Low Anthemのことを書かせてもらった。去年の8月の終りにアップした『素敵なバンドはいつもメグが教えてくれる』という文章で、そこでバンドの成り立ちなどを書いているので、もしまだ読んでいない方がいたら、この文章を読み進める前にぜひ読んでみてほしい。

 ぼくがThe Low Anthemに夢中になってから一年、その間にバンドは今年2月に通算三枚目となる新作アルバム『Smart Flesh』をリリースした。それを彼らのウェブサイトに予約して直接買うと、3曲のアウトテイク入りのダブル・アルバムで、ジャケットは手作りのシルク・スクリーン印刷でナンバリング入り、それにサイン入りのシルク・スクリーン印刷ポスターのおまけもつくという特典だらけだったので、もちろん大ファンのぼくとしてはそこで買わないわけがない。
 そういえばそれ以前にも彼らのサイトでTシャツを買ったことがあって、その時にうっかりして住所を日本語でしか書かなかったら、Tシャツが入った封筒の宛名が、その日本語を一生懸命真似して手書きで書かれていて、そのひたむきさと書かれた文字の微笑ましさにすごく心が和んでしまった。最初の「東京都」や「世田谷区」のあたりまでは、それこそ定規でも使ったかという感じでとても真剣に、丁寧に書かれているのだが、「羽根木」のあたりで怪しくなり、ぼくが住んでいるビルの名前の中にある「松」や「亀」という字は、力尽きてしまって、まったく判読できないものとなってしまっていた。

 話が少し脱線してしまったが、ぼくがThe Low Anthemを知ってからほぼ一年、ついに彼らのステージを見ることができた。今回はその至福の体験のことを書きたい。
 この6月の15日から25日まで、ぼくはほんとうに久しぶりにアメリカに出かけた。1980年代の終りから90年代は、音楽の原稿を書く仕事が中心だったから、ぼくはいろんな取材でそれこそ年中海外に出かけていたのだが、2000年代になってからはそうした仕事もまったくなくなってしまった。
 21世紀になってからアメリカに行くのは初めてだと思い込んでいたが、古いパスポートをチェックしてみたら、2003年の10月にニューヨークに行ったのが最後だった。そうか、9.11後のニューヨークにぼくは行っていたのだ。

 今回のニューヨーク行きは、マンハッタンからハドソン川に沿って北に列車で一時間ほど行ったところにあるクロトン・ポイント・パークで開かれる「Great Hudson River Revival Music & Environmental Festival」、通称ハドソン・クリアウォーター・フェスティバルを見に行くのと、その近くに住んでいる、ぼくが歌を歌うきっかけとなった偉大なるフォーク・シンガー、まさに「グランド・ティーチャーの中のグランド・ティーチャー」、ピート・シーガーに会いに行くのが目的で、ハドソン・クリアウォーター・フェスティバルも、ピート・シーガーがその中心で、シンボル的な存在となっている。
 ピート・シーガーに会えるのは、ピートとは1960年代の初めから交流がある東京フォークロア・センターの国崎清秀さんが、会いに行きたいと早くから連絡をされていて、それが実現することになった時、とんでもなく嬉しいことに「ピート・命」のぼくを誘ってくださったからだ。
 ハドソン・クリアウォーター・フェスティバルのことや、ピート・シーガーに会った話は、これからぼくのホームページの『徒然』という日記で詳しく書こうと思っているので、そのうちアップした時には、そちらもぜひ読んでみてほしい。

 実は今回のニューヨーク行きには、メグも深く絡んでいる。去年の夏にThe Low Anthemのことを聞かされた時から、早くニューヨークにおいで、7月のニューポート・フェスティバルを見においで、何とかしてピート・シーガーに会いに行こうと、ぼくは彼女に強く誘われ続けていた。
 そして国崎さんからピートに会えそうだという連絡があり、それがハドソン・クリアウォーター・フェスティバルの時期で、しかもそのフェスティバルにはThe Low Anthemも出演することがわかった。これは何が何でもニューヨークに行かなければと、厳しい経済状況の中、ぼくは何としてでも行くぞと一大決心をしたのだ。
 そしてメグに連絡すると、マンハッタンの安いアパートメント・ホテルを紹介してくれ、もっと節約したいなら自分の家に泊ってもいいと言ってくれ、ハドソン・クリアウォーター・フェスティバルも一緒に行くことになったし、国崎さんとのピート訪問にも彼女が通訳として行ってくれることになった。

 国崎さんもぼくも今回のニューヨーク行きは、一人旅ではなく友だちと一緒で、別々に日本を出発して、ハドソン・クリアウォーター・フェスティバルの前にニューヨークで合流しようということになっていた。
 ぼくと友人とはうまくニューヨーク行きの直行便が取れず、6月15日、成田からワシントンD.C.経由、そこで小さなコミューター機に乗り換えてニューヨーク入りした。成田を出発してほぼ16時間、成田に向けて朝早くに出発しているから、それこそ20時間以上の旅で、ぼくはワシントンD.C.までの機内ではほとんど眠ることができなかった。
 到着したのはクイーンズにある国内線のラ・ガーディア空港で、クイーンズに住んでいるメグが迎えに来てくれた。長旅で疲れているだろうと、最初の夜はメグの家に泊めてもらうことになっていた。
 ニューヨーク時間で夜の7時前に到着し、この夜はメグの家に行ってすぐにばたんキューだろうなと思っていたら、空港で会うなりメグは、「今夜はもう予定が入っているからね」と、嬉しそうに言うではないか。何とこの夜にブルックリンでThe Low Anthemのライブがあり、メグはみんなの分のチケットをあらかじめ買っておいてくれたのだ。
 くたくたとはいえ、The Low Anthemのライブがあると聞けば、しかもチケットも手に入っているというなら、行かないわけがない。ぼくの友だちもThe Low Anthemの大ファンだ。まずはメグの家に荷物を置きに行き、メグがサラダやパスタを作ってくれ、ワインもしっかり飲んで、すぐにもメグが手配してくれたカー・サービスの車で、みんなで会場へと向かった。

 この夜のThe Low Anthemのライブ会場は、ブルックリンのウィリアムズパーグ、お洒落なカフェやギャラリー、ショップなどが建ち並び、ニューヨークで最もホットなエリアのひとつとして注目を集めているベッドフォード・アヴェニューにある「Music Hall of Williamsburg」。その名のとおり、クラブというよりは、大きなステージもちゃんとあって、ちょっとした劇場という感じだ。
 ぼくらが着いた時には、ライブが始まったばかりで、一階のホールはまだ人もまばらだったが、ひとりステージに立ってギターを弾きながら歌っているのは、ダニエル・レフコウィッツ(Daniel Lefkowitz)ではないか!! 
 The Low Anthemの初期のメンバーで、音楽性の違いからかダニエルがソロとなってからも、バンドとはとても仲が良くて一緒に活動し、The Low Anthemもダニエルの曲を歌い続けている。
 ダニエルはペナペナのひどい音のアコースティック・ギターやエレクトリック・ギターを弾きながら、ブルースを柔軟に吸収した音楽を聞かせてくれる。自由で奔放、しかし我が道を行くという強い意志が感じられ、繊細さと剽軽さとを併せ持つ、とても魅力的なミュージシャンだ。以前にメグに送ってもらったダニエルのソロ・アルバム『Wilder Shores of Love』は、The Low Anthemのプロデュースによるもので、音作りはとても似ているが、彼の個性が鮮やかに浮かび上がっている傑作だとぼくは思う。

 ダニエルの40分ほどのステージの後、These United Statesというかなりラウドな音のロック・バンドが演奏し、この時ばかりは長旅の疲れや睡眠不足などで今にも倒れそうになってしまった。しかしロビーに一度引っ込んだりしたら、せっかくとったThe Low Anthemをかぶりつきで見られる場所を奪われてしまう。はるばる日本からやって来たばかりの、もうすぐ62歳になる、恐らくは会場の中ではThe Low Anthemの最年長のファンであるはずのこのぼくは、ステージの真ん前のフロアーに必死で立ち続けた。

 そしていよいよThe Low Anthemの登場。この夜は、ベン・ノックス・ミラー、ジェフリー・プライストウスキー、ジョシー・アダムス、マット・ダヴィッドソンの四人のメンバーだけではなく、曲によって二人のホーン・プレイヤーやダニエルなども参加して、曲ごとにメンバーがステージの上を右に行ったり、左に行ったりする。誰一人としてひとつの楽器を演奏し続ける者はいなくて、ギターやハーモニカ、足踏みオルガン、クラリネットやトランペット、ベースやバンジョー、バスドラの代わりに大太鼓を使っているようなドラム・セット、ハンマー・ダルシマーや擦って音を出すクロタルと呼ばれる調律されたシンバル、それにミュージカル・ソウ(音楽演奏用のノコギリ)などなど、とにかく多種多様な楽器が用いられる。
 この多彩な楽器編成というか、ユニークなアンサンブルがThe Low Anthemの音楽の大きな魅力となっているが、どうやら中心人物のベンは予定した曲順どおりステージ運びをせず、気分によって演奏する曲をその場で変更してしまうようで、そのたびにメンバーがいったん手にした楽器を置いて右往左往する姿が、見ていておかしかった(本人たちは大変だろうが…)。

 ステージの中央には1950年代頃にラジオ局で使われていたような、マイクが細い金属枠で支えられた、古いかたちのスタンド・マイクも置かれている(恐らくはレプリカか?)。The Low Anthemの別の大きな魅力と言える見事なハーモニーを聞かせる曲は、四人のメンバーが一本のそのマイクの回りに集まり、それぞれマイクから微妙に距離を取って、バランスを調整しながら歌う。そうして歌われた、「Ghost Woman Blues」や「Charlie Darwin」、「To Ohio」や「Cage The Songbird」といった曲も、あまりにもの美しさに、聞いていて思わず身震いしてしまった。そのスタイルで、この夜はレナード・コーエンの「Bird On The Wire」も飛び出したのにはびっくり。これまでThe Low Anthemのアルバムを聴いていて、どこかレナード・コーエンの世界と通じる曲もあるなと思っていたが、やはり彼らはレナードの音楽に一方ならぬ思いを抱いているのに違いない。

「Hey, All You Hippies!」といったロックっぽい曲も飛び出せば、「This God Damn House」の曲の最後で聴衆のみんなに携帯電話をハウリング(!?)させるように指示し、コオロギのような音を会場中に響かせる、The Low Anthemの「ライブ名物」もしっかり体験することができた。東京からニューヨークに到着したばかりの夜、体調こそぼろぼろだったが、90分があっという間に過ぎてしまったThe Low Anthemの素晴らしいライブに、ぼくの心は喜びに満ち溢れて軽やかに舞い上がり、今回のニューヨーク滞在は最高の滑り出しとなった。同じくThe Low Anthem大ファンの友人も、同じくぼろぼろだったが、大喜び、大満足だった。
 日本からの長旅で老体はボロボロだろうと、余計な心配をせずに、行けば絶対に満足するだろうと、チケットを買ってくれいたメグに改めて感謝。
 そしてぼくらはハドソン・クリアウォーター・フェスティバルでも、ブルックリンとはまたひと味違ったThe Low Anthemのライブを体験し、このバンドへの熱い思いはますます強まってしまった。ぜひとも日本にも来てほしい。そして日本でももっともっと多くの人たちにこのバンドを聞いてもらいたい。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html


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