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【アーカイブス#9】永遠に飛び立ってしまったヴィック・チェスナット *2010年1月

 2009年の暮れも押し迫ってから、そして年が明けて2010年になってからも、ずっとヴィック・チェスナット(Vic Chesnutt)のCDばかり聴いている。今はもう一月の終わりだというのに、ぼくの部屋ではほとんど毎日のようにヴィックの聞き親しんだ歌声が流れている。そしてぼくは悲しみに打ちひしがれている。というのもヴィックは、2009年12月25日にこの世を去ってしまったからだ。まだ45歳だった。彼の新しい歌が届けられることはもうない。

 ヴィック・チェスナットこと、ジェームス・ヴィクター・チェスナットは、1964年11月12日に生まれ、養子としてジョージア州のゼブロンという人口1000人にも満たない小さな町で育てられた。そして5歳の頃には、もう自分で曲を作っていたということだ。
 18歳の時にヴィックは自動車事故に遭って、首から下の四肢が麻痺状態となってしまった。それでも微かな感覚は残っていて、しばらくするとシンプルなコードだけだが、ギターも何とか弾けるようになった。しかし歩くのはもちろん無理で、その後は車椅子での生活を余儀なくされた。
 やがてヴィックはゼブロンからテネシー州のナッシュヴィルに移り住み、そこでウォルト・ホイットマン、エミリー・ディキンソン、W.H.オーデンなど多くの詩人たちの詩と出会い、大きな影響を受けることになった。

 事故から二年後、1985年にヴィックはジョージア州のアセンズに戻ったが、ジョージア州立大学のあるカレッジ・タウンのこの街からは、R.E.M.やB-52’Sといったバンドが登場して人気を集めていて、その頃アセンズは新たな音楽の発信地として世界から注目されるようになっていた。ちなみにゼブロンはアセンズから南西に80マイルほど行ったところにある町だ。
 アセンズでヴィックはまずはLa-Di-Dasというバンドに加わり、それからソロとなって、多くの人気ミュージシャンを輩出したアセンズの音楽シーンの中心的存在、40ワット・クラブで定期的にライブをやるようになった。
 そこでヴィックは、やはりかつては同じライブ・ハウスを根城としていたR.E.M.のマイケル・スタイプに認められ、彼のプロデュースで1990年にアルバム・デビューすることになった(そのアルバム『Little』のクレジットを見ると、1988年10月にジョン・キーンのスタジオでマイケル・スタイプによってレコーディングされ、キーン氏が回転椅子に座っていた、と書かれていて、プロデュースという言葉は使われていない)。

 ヴィック・チェスナットの存在が広く知られるようになったのは、R.E.M.のマイケル・スタイプがデビュー・アルバムをプロデュースしたからとか、四肢が麻痺した車椅子のシンガー・ソングライターだからということではなく(もちろんそういうことばかりを面白がって、話題にする人もいることはわかっているが)、何よりも彼がユーモラスで捻りがきき、独創的で示唆に富むユニークな歌を書き、優しく人間的で、時にはエキセントリックな歌声も聞かせる優れたシンガー・ソングライターだったからだとぼくは思う。
 かく言うぼくも最初は大好きなマイケル・スタイプが手がけているということで、出たばかりのヴィック・チェスナットのデビュー・アルバムに飛びついてしまった一人だが、そこで彼の歌そのものにすっかり惚れ込んでしまい、マイケルが関わっているといったようなことは、完全にどうでもいいこと、というかそれはちょっと言い過ぎで失礼だが、二の次になってしまった。

 1990年にデビュー・アルバム『Little』でヴィック・チェスナットを知ってから20年。ぼくはヴィックの新しいアルバムが出るたびに即座に買い求め、次々と届けられる彼の新しい歌に耳を傾け続けて来た。手もとにあるヴィックのアルバムを全部取り出してみると、何と16枚もある。ヴィック・チェスナットのソロ・アルバムが14枚と同じアセンズの音楽仲間、ワイドスプレッド・パニック(Widespread Panic)のメンバーと組んだブルート(brute)名義のアルバムが2枚。
 それとは別にR.E.M.、マドンナ、ジョー・ヘンリー、ガービッジ、インディゴ・ガールズなど20組近くのアーティストがヴィックの曲をカバーした、1996年夏リリースの『Sweet Relief 2: Gravity of Situation The Songs of Vic Chesnutt』というコンピレーション・アルバムもある。実は人気アーティストが参加したこのアルバムの登場によって、ヴィックの存在は、一部の熱心なファンの間だけでなく、より広く音楽ファンの間で知られるようになったと言ってもいいだろう。
 また同じ年にヴィックはビリー・ボブ・ソーントン監督、主演の映画『スリング・ブレイド(Sling Blade)』にも出演して、そこで歌も歌っているので、この映画を通しても新たなファンも獲得したに違いない。

 もちろんぼくもその映画は見ていて、動くヴィック・チェスナットの姿にお目にかかっているのだが、確か90年代の中頃か、ロサンジェルスで彼のライブを見たこともある。ぼくの記憶が正しければ、ウィルターン・シアターで行われたスザンヌ・ヴェガのコンサートのオープニング・アクトとしてヴィックが登場したのだ。
 スタッフに車椅子を押してもらってステージの中央まで来ると、ギターを爪弾きながら、次々と自作曲を披露し、わずか30分ほどだったが、ヴィック・チェスナットの世界をぼくは堪能することができた。結構お喋りで、おかしなことを言ってみんなを笑わせていたように思う。

 15枚以上に及ぶぼくのヴィック・チェスナットCDコレクションの中でも、このひと月、聴く頻度が特に高いのは、ここ最近出されたものだった。新しい順に遡ってみると、2009年10月の初めに出た『Skitter on Take-Off』(Vapor 2-521680)、2009年9月の終わりに出た『At The Cut』(Constellation CST-060-2)、そして2007年9月に出た『North Star Deserter』(Constellation CST-046-2)。これらの三枚を繰り返し聴いている。
 そして三枚のアルバムに共通して言えるのは、それ以前のアルバムと違って、全体が暗く沈んでいて、どこか死の影が被っているように思えてしまうことだ。
『North Star Deserter』と『At The Cut』の二枚のアルバムは、同じコンステレーション・レコードに所属するアーティスト、ジー・シルヴァー・マウント・ザイオン・メモリアル・オーケストラ&トラララ・バンド(Thee Silver Mt. Zion Memorial Orchestra & Tra-La-La Band)やフランキー・スパロ(Frankie Sparo)、そしてフガジ(Fugazi)のガイ・ピチョトーなどと一緒にモントリオールで録音されている。
『North Star Deserter』は、ヴィックとは20年来の親友のドキュメンタリー映画監督、ジェム・コーエンによってプロデュースされていて、彼は「レコーディングにはW.H.オーデン、フィリップ・ガストン、それにもちろんニーナ・シモンの亡霊がゲストとして招かれた。いつかわたしたちも亡霊になる」と、ブックレットに記している。アルバムではニーナ・シモンの「Fodder on Her Wings」がカバーされていた。


 そして『North Star Deserter』よりもっと陰鬱になったという印象を受ける『At The Cut』には、「Flirted With You All My Life」という強烈な歌があり、そこでヴィックは、「これまでずっと俺はおまえといちゃついてきた。いつも一緒で、一度か二度キスしたことすらあった。でも友だちをおまえに奪われて、自分がまだ覚悟できていないことに気づいたんだ」と、悲壮な声で歌っている。「死よ、俺はまだ覚悟ができていない」
「おまえ」とは、歌の中で「Oh Death」と呼びかけられていることからわかるように、死神のことだ。そしてヴィックは、あるインタビューでこの曲に関する質問を受けて、「これまで三度か四度、自殺未遂をしたことがある」と告白している。


 発売日はたった数週間の違いだが、ヴィックの遺作となる『Skitter On Take-Off』は、バイオリンやコントラバス、ギターやキーボード、ドラムスなどいろんな楽器が入り、コーラスもつけられた、音楽的に変化に富むコンステレーションでの二枚のアルバムとは異なり、ほとんどがヴィックのガット・ギターの弾き語りで歌われている、とてもシンプルな作品だ。
 しかし聴くほどに、切なく、寂しく、胸が引き裂かれてしまうようになってしまうアルバムで、軽やかに飛び立つことを意味するアルバム・タイトルも、離陸や旅立ち、飛翔とはいったい何を意味するのか、深く考えさせられる。またヴィックがこの最後のアルバムをジョナサン・リッチマンをプロデューサーの一人に迎え、ニール・ヤングのレーベルで作ったというのも、不思議な因縁というか、何やらとても感慨深くなってしまう。ヴィックが敬愛してやまない二人の大先輩との仕事が、彼の最後の作品となってしまったのだ。

 ヴィック・チェスナットは筋肉緩和治療薬の過剰服用で、アセンズの病院で昏睡状態になったということだ。そして2009年12月25日の午後2時59分、家族や友だちに見守られて息を引きとった。
 ヴェイパー・レコードのウェブサイトには、ヴィック・チェスナットのあまりにも早すぎる死を悼むマイケル・スタイプやパティ・スミス、ニュートラル・ミルク・ホテルのジェフ・マンガム、『North Star Deserter』のプロデューサーのジェム・コーエン、フィルム・キュレーターのマーク・マッケルハッタンなどの言葉が紹介されている。中でもぼくは、パティ・スミスの、「ヴィックはこの世のものとは思えないエネルギーを持ちながらも同時に人間味に溢れたどこにでもいるような人で、目の前にいるかと思えば、完全に別世界にいて、子どもにして老人だった」というのがとても心に残った。そしてパティは、「アルバムを出す前、自分は浮浪者だったと彼は言っていた。今、彼は天使の歌声を響かせながら、放浪の旅へと飛び立って行く」と、悼辞を締めくくっている。

 もうすぐ二月になるが、ぼくの部屋ではまだまだヴィック・チェスナットの天使の歌声が繰り返し流れ続けることだろう。日本にもヴィック・チェスナットの熱心なファンがいる。しかしこんなにも素敵なシンガー・ソングライターが、これまで日本のいわゆる「洋楽」シーンの中で、ほとんど無視同然の扱いを受けていたとは、何とも残念でならない。
 もちろん日本盤が出たからOKとか、そんな薄っぺらい話ではないが、彼の歌の世界や歌詞の面白さなどが、もっときちんと日本でも紹介されていたらと、「洋楽」の世界に身を置いている一人として、忸怩たる気持ちに襲われてしまう。いなくなってしまってから注目されても、それはあまりに遅すぎるし、あまりにも寂しいことなのだ。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html


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