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伊藤せい子、大いに語る 夕凪とともに歩んだ30年ーー「人との付き合い方、生活の過ごし方、音楽との向き合い方、今が一番ええ状態なんです」

インタビュー・テキスト/峯大貴 写真/浜村晴奈

ロックバンド夕凪が今年で30周年を迎えた。伊藤せい子(Vo)の呼びかけで1994年に地元・大阪で結成、現在はメンバーが大阪・東京に散らばりながらも精力的なライブ活動を続けている。生活に根差していながら、いつの間にか広大な宇宙へと連れ出されるようなバンドアンサンブルと、青天を衝くほどの力強い伊藤の歌が満たす夕凪のサウンド。また時折、藤井寿光(Dr)が加わり、藤山“ヤモリ”朋哉(Dr)とのツインドラム編成になったときの迫力ったら、もう最強のライブ・ジャム・バンドだ。

今年は実に10年ぶりとなる最新アルバム『日々の糧』が完成した。トライバルなリズムにマジカルな輪唱が折重なる、佐藤良成(ハンバート ハンバート)とタテタカコがゲスト参加の「丘の上」から始まり、盟友である野村麻紀のカバー「急行列車」、服部緑地の景色が鮮やかに浮かびあげる最新曲「喫煙所」など、人とのつながりや思い入れのある場所を丁寧に描き、ライブで叩き上げられた全10曲が収録されている。

本作のリリースに際して、伊藤せい子にインタビューを実施。夕凪としての活動だけではなく、梅田のライブバー〈ムジカジャポニカ〉を切り盛りし、大阪の秋の風物詩的野外コンサート『RAINBOW HILL』を〈服部緑地野外音楽堂〉で長らく主宰するなど、大阪の音楽シーンを盛り上げ、支えてきた要人である。そこで夕凪を軸としたこの30年のキャリアを大いに語ってもらった。

今回の取材は吉祥寺〈曼荼羅〉で行われたタテタカコの20周年記念ライブの翌日に東京で実施した。この日の夕凪は直前にメンバー2名が欠席となり、急遽アコースティック編成となったが、ひやひやしている自身の様すらも笑いと新鮮さに変えながら、本作収録の曲を披露していく堂々たるイレギュラーショー。一晩明けて取材場所に到着するなり「あんなん初めて。ひどかったでしょう」と笑う伊藤には、熟達しながらもいつまでも落ち着かないバンドマンの生き様が刻み込まれていた。

デッドを手掛かりに音楽性の模索を続けた90~00年代

ーー結成30周年を迎えて、今どんな感覚ですか?

「ずっと1970年代の音楽が好きやったし、着る服のテイストも昔から変わってないし、子どもが欲しいとも思ったことない。ずっと自分のためだけに生きてきたし、何も変わらないまま、今も朝まで飲んで、地べたで寝て。そしたらいつの間にか30年って感じです」

――メンバーも20年以上不変ですが、なぜここまで続けてこられたんだと思いますか?

「誰かが〈もうイヤや!〉と感じる隙を与えず、次のライブを入れてきました(笑)。20代は就職があるし、30~40代は結婚や子どもができたり、もうこの世代になると親のお世話をせなあかん人もいる。バンドを辞めるタイミングはなんぼでもあったけど、なるべく見ないようにライブして、打ち上げして、馬鹿みたいに酒飲んでという活動を続けてきました」

ーーしかし夕凪の音楽性は今に至るまで何度か大きな変化がありますよね。1stミニアルバムの『真昼の月』(1997年)を改めて聴いたんですけど、まるで別のバンドと思えるくらいにアグレッシブなロックサウンドで驚きました。

「20年以上、聴き直してなかったんですけど、この間知り合いのバーに飲みに行ったら、話のネタにかけられて久しぶりに聴いたんですよ。歌い方があまりにひどくて爆笑した。若くて声のトーンが今より高いのは当たり前やねんけど、もうフェイクに次ぐフェイク。欧陽菲菲のモノマネしてるような感じ(笑)。当時レコ評では〈声がしつこい〉、〈癖がありすぎる〉とか書かれて腹立っていたけど、これは言われても仕方ない」

――この作品で日本コロムビアからメジャーデビューしますが、夕凪にとって当時はどんな状況でしたか?

「あの時期の記憶が丸ごと抜けているくらい、しんどかった。大阪に住んだまま東京でレコーディングしていたし、覚えているのは青山の〈ホテルアジア会館〉にずっと泊まってたなってくらい」

――結成して3年ほどでメジャーデビューなので順風満帆だと思ったのですが、何が大変でした?

「会社としては私をソロのボーカリストとして売り出したかったようで、バンドでは気に入っていた曲をボツにされたり、1曲目"インディアン天国(ヘブン)"の詞も私じゃなくて作詞家の石川あゆ子さんに提供していただいたんですよ。石川さんは私に使いたくない言葉やどういう考えを持っているのかすごく丁寧に取材をして書いてくれたんですけど、出来上がった歌詞が死生観にまつわるもので、〈いつの日か私が死んだら〉というフレーズがあって。ジム・モリソン(ドアーズ)の"The End"、ジャニス・ジョプリンの"生きながらブルースに葬られ(Buried Alive In The Blues)"とか、死ぬ直前にそれを予見するような歌を残している人も多いでしょ?私、歌は言霊だと信じているから、〈死ぬ〉なんてよう歌わん。まだまだ生きたいし。

だからちょっと複雑な作品で、今に至る夕凪のスタイルはメジャーから離れて、自主制作で作った『音楽』(2000年)くらいから出来ていった感覚です」

――そもそも夕凪はどういう音楽がやりたくて、結成したバンドだったんですか?

「そんなのはなかったですね。私が好きなメンバーを集めただけ。そもそも曲自体、スタジオに入ってキャッキャしてたら出来るもんやと思っていたんですよ。そこに歌詞をはめ込んだら完成って。しかも若い割にみんなうまかったから、どんなジャンルのアレンジもそこそこ出来ちゃう。だからコロムビア時代によく言われていたのは〈何がやりたいバンドかわからない〉」

――そこからどのように確立していったんですか?

「よく影響元としてザ・バンドを引き合いに出されていたんですけど、あんまりない。私が好きなのはやっぱりグレイトフル・デッドなんですよ。特に『Workingman’s Dead』(1970年)の時期のサイケでありジャムであり、なおかつがっつりコーラスが入っている感じ。フィッシュとかザ・バーズ、アメリカからも影響を受けました。自分たちはこの辺やなって気づき出したのが『音楽』(2001年)を出したり、ドラムがヤモリ(藤山朋哉)に変わった2000年~2002年ごろですね」

――『春一番』や『RAINBOW HILL』など野外でのライブの時は藤井寿光さんも加わってツインドラムになりますが、これもやっぱりGrateful Deadを意識されているんですか?

「もちろん。『春一番』に加えて2005年から自分たちで『RAINBOW HILL』を始めて、毎年野外でやるようになったから、そこは迫力出すためにツインでしょと。当時はまだANATAKIKOUにいた寿光にお願いしました。だから夕凪のライブは5人が基本、たまに寿光、さらに佐藤良成(ハンバート ハンバート)も加わって最大7人。ヤモリとは師弟関係でもあるので、お互いを尊重しながら密な音が出せるし、私もこの音圧に負けないように歌わなあかん」

――そういえば去年の『春一番』でもアルバム『音楽』の表題曲「音楽」を披露されていました。ずっとやり続けているレパートリーですし、やはり『音楽』という作品はターニングポイントなんですね。

「今に至る音楽性という意味ではもう一つ大きな変化があって、サウンドのカラーはどんどん出てきたのに、歌うのがどんどん嫌になってくるんです。それは梅田の〈HARDRAIN〉に入って、日々新しいミュージシャンたちを見る生活になったことが大きい。誰も私みたいにねっちゃりした歌い方をしてないし、もう時代に合わないなと思うようになっていって。だからミディに移籍してからの『室外音楽1』(2003年)、『室外音楽2』(2005年)まではインストも入っているんです。私はアナログシンセをいじってた」

――歌の自信を取り戻せたのはいつ頃でしたか?

「『夕凪Ⅲ〜食卓と愛〜』(2009年)を作ったときくらいですね。私のずっと先を行く先輩方の姿を見ていて、柔らかく歌おうと思ってもパンチが効いてしまうんやから、もうこのまま行ったらええかと思えるようになっていきました」

――どういう先輩に触発されましたか?

「メスカリン・ドライブがソノシート出していたころから聴いていたうつみようこさん、渕上純子さん(ふちがみとふなと)、アーント・サリーの頃から大好きだったBikkeさん、あと小川美潮さんの存在も大きいですね。この声から浅川マキさんや、金子マリさんの系譜にいるボーカリストに見られがちで、もちろん大好きなんですけど、歌として受けた影響が大きいのはそっちの方たち。やっぱり根本はフォークやブルースではなくサイケ、ニュー・ウェイヴの人間なので」

20年以上出演を続ける春一番への想い

――先ほど話に出てきましたが、そもそも梅田のライブハウス〈HARDRAIN〉でブッキングをされるようになったのはなぜなんですか?

「ホントにたまたま。最初は厨房担当で入ったのに、ブッキングにも口を出してほしいと言われて、最後には雇われ店長まで……。今では家族みたいな関係のハンバート ハンバートと出会ったのも〈HARDRAIN〉時代で、ミディ前社長の大蔵博さんが、〈せい子は絶対気に入るから〉って連れてきたのが最初。それでハマって何回も出てもらいました。ちなみに『春一番』の福岡風太(主催者)が初めてハンバート ハンバートを観たのもここ」

――夕凪、ハンバート ハンバートは今では共に『春一番』にはなくてはならない出演者ですが、そもそも夕凪が出演するようになった経緯は?

「昔からあべちゃん(阿部登)は知り合いやったから、それまで所属していた事務所を抜けて自主でやっていくって報告したときに〈ハルイチ、出てみる?〉って言われたのが2002年ですね。当時の『春一番』は今よりもっとぐちゃぐちゃで、70年代から続けている素晴らしい人もたくさん出ているけど、普段は普通の仕事しているようなおっさんがガチャガチャしたハードコアやってお客さんからヤジを食らうみたいな場面も多かった。だからちょっと迷いながら出たのを覚えています。

でもこのステージを大蔵さんが観てくれて、ミディでのアルバム制作とコンピレーションアルバムの参加が決まりました。それが『室外音楽1』と、野村麻紀やふちがみとふなと、ニカちゃん(二階堂和美)も参加している『JAPANESE GIRLS 2003 WEST』(共に2003年)。あと〈磔磔〉のボス(水島博範)も観に来てて、ずいぶんご無沙汰していたけど「数年ぶりに観たらめちゃめちゃ感動した」って褒めまくってくれて、また〈磔磔〉に呼んでくれるようになった。結果『春一番』で夕凪の活動はすごくよくなったんですよ」

――『春一番』での夕凪のステージは、西岡恭蔵さんが作ったテーマ曲「春一番」のカバーをやることでもお馴染みで、前作『室外音楽3』(2014年)にも収録されています。

「演奏するようになったのは2011年、初めてトリをやらせてもらった年です。私たちがカバーしていいものか、〈なんやねんお前ら〉って思われへんか迷いましたが、風太に喜んでもらうために自分たちのアレンジでやりました。そしたら風太が崩れ落ちて泣いてくれた(笑)。いろんな人から今まで聴いたことない〈春一番〉でよかったって言ってくれたし、自信になりましたね。

歌詞に出てくる〈君の春の祭〉っていうのは〈風太の祭〉と思っているので、普段のライブでは絶対やりません。同じ日に出演することが多いハンバート ハンバートもカバーしているから、いつも良成とどうするか相談するけど〈ここは春一番なんやから、何回もやっていいやろ〉って、2組ともやってる」

RAINBOW HILLとムジカジャポニカ、「自分が出る場所は自分で作る」精神

――2005年からは『春一番』と同じ〈服部緑地野外音楽堂〉で、野外コンサート『RAINBOW HILL』を立ち上げ、毎年大阪の秋の風物詩として松沢知幸さんと主宰されています。

「始めるきっかけには『春一番』も関わっていて、2005年で一度終わりにするって告知までしていたんですよ。でもあの〈服部緑地野外音楽堂〉で私はもっとライブをやりたいから、使いたいってあべちゃんに相談したんです。〈素人には無理や〉って言われたけど〈そっちの舞台監督に福岡風太を紹介するから連れておいで〉とか〈春一番のスタッフに頭いい子おるから一緒にやり〉とかいろいろ引き継いでもらった。結果、風太とあべちゃんの気が変わって翌年からも『春一番』は続いていますが(笑)」

――では『RAINBOW HILL』は『春一番』の意思を受け継ごうとする意識があったんですか?

「それはないですね。もちろん楽屋の雰囲気とか、とにかく現場主義な姿勢は受け継いでいるけど、そもそも趣味が違う。会場はカラフルにしたいし、スタッフも動きやすい服装というより、自分の一番かわいい格好してきて!って言うし、ステージ時間も当時の『春一番』の倍で40分はやりたい(笑)」

――また『RAINBOW HILL』を立ち上げた翌年には、ご自身のライブバー〈ムジカジャポニカ〉もオープンさせます。

「毎年『RAINBOW HILL』をやるための基地として作った場所ですね。前まで勤めていた〈HARDRAIN〉では店長までやっていたから、そこで夕凪をブッキングするのはできないことになっていて。定期的にライブができるのは名古屋の得三と、京都の磔磔、東京の440くらいでした。だから大阪で夕凪が出られる場所が欲しかったのもあります」

――しかし2005年ごろから山崎保さん(Gt)、山川ちかこさん(Key)、ヤモリさんの3人が東京に移住して、遠距離バンドになる。この2005~2006年は怒涛ですね…。

「そこは私がだらしなかったんです。夕凪としてもっとおもしろいことをするために、『RAINBOW HILL』や〈ムジカ〉を立ち上げたのに、運営や経営面がやっぱり大変で、精神的に参ってた。そしたらスタジオにも遅れたり、ろくに曲も作っていないのに人のせいにする。そんな私にメンバーも辟易して、ちょっと休止しよかとなっている間に、3人が東京への移住を決めちゃったんです。私は夕凪の活動がない間、セイコ・ミッチェルというソロ名義で歌っていたんですけど、上京する直前に初めてメンバー全員が観に来てくれたことがあって。そこでちかこさんが〈この人を上手に歌わせてあげられるのは私らや〉と思ってくれたみたいで、活動再開が決まるんです」

――メンバーとこれから拠点が離れるという時に、結束が戻ったと。

「ありがたいことですよ。今まで私はメンバーと対等な目線で接していなかったとそこで気づきました。作った曲を持っていってジャイアンみたいに〈アレンジして~〉と言うだけのわがままボーカリストやった。それからより積極的に曲作りをするようになったし、デモテープにはちゃんとギターやコーラスも入れるし、アレンジのイメージも含めて伝えるようになりました。

拠点が離れてライブの本数はめっちゃ減ったけど、ライブでやりながら曲を育てていくという方針は変えなかった。やっぱり作った曲のベストなリズムはライブで見えてくるし、お客さんの反応や自分たちの気持ちいいポイントを感じ取って、それを次のスタジオで反映させるのが夕凪だから。でもそうなると1枚アルバムを作るのに、どうしても5年はかかるんですよね。今回はコロナでライブが出来なかった期間もあったから、もっとかかっちゃいました」

「何が何でも生き切る」を掲げた30周年記念アルバム『日々の糧』

――今回完成したアルバム『日々の糧』は10年ぶりとなります。ソングライター、ボーカリストとして、どんなことを描きたい、歌いたいという意図がありましたか?

「使う言葉は年々変わってきていますよね。昔は物事をストレートに伝えるのが嫌で、何を言わんとしているかは全部比喩表現だった。それってどこかで〈わかってもらわなくてもいい〉って聴き手を選んでいたんだなと、長年お客さんの顔を見ながらライブをしていると気づいてくるんですよ。特にここ10年ほどは本格的に弾き語りをするようになって、バンドよりもお客さんとの距離が近いから、さらにちゃんと伝えることを意識するようになったと思う」

――確かに浮かび上がってくる情景がくっきりしている印象があって、中でも「場所」、「生まれたおうちに帰りたい」、「わすれじ」、「喫煙所」の4曲で“場所”という言葉が使われているのも、自分たちの場所を作り続けてきたせい子さんらしいなと感じます。

「念が強い女なんで(笑)。それぞれに具体的なイメージがあって、1曲目の"丘の上"と最後の"喫煙所"はどっちも服部緑地が舞台。そこにはちょっと風太もいてるかな。でも"丘の上"は『RAINBOW HILL』を始めた2000年代半ばにはすでに曲の種はあった、でも"喫煙所"はここ半年以内にできた一番新しい曲で、同じ場所だけど見えている景色はかなり違いますね」

――また2021年に亡くなった京都のシンガーソングライター野村麻紀さんの楽曲「急行列車」のカバーも収録されていますが、この曲にどんな思い入れがありますか?

「麻紀が大阪で朝まで飲んで京阪の急行で出町柳に戻るときの風景を歌っていて、だから〈ひらかたパーク〉も歌詞に出てくる。私が京都で朝まで飲んで実家に戻るときの風景と同じなんですよ。だからまだ元気やった時から〈この曲は私が歌わなあかん〉って言うてたんですけど、まさか亡くなるなんて考えたことがなかった。今でもたまに思い出したらつらい。野村麻紀の音楽はこれからも残していかないといけないということで、今回録音しました」

――今回のアルバムのタイトルを『日々の糧』とした理由はなんですか?

「元々ライブのタイトルとして使っていた言葉で、日々忙しい中でも私は音楽があるから、それを糧として生きている。このアルバムには〈何が何でも生き切る〉というテーマがあったのでつけました。

毎日営業前に8キロくらい肉とか野菜を買って〈ムジカ〉に行って、仕込んで、営業して。閉店したらWebサイトの更新とか事務作業して。その後、朝3時からマイク立てて、次のライブに向けて一人で一所懸命練習する。そんな日々を送っています。しんどいなと思う時もあるけど、いざ歌い始めたら気持ちがスーッと落ち着いてくる。あぁ自分はこういう生活が好きな人間なんやって最近わかってきた。人との付き合い方、生活の過ごし方、音楽との向き合い方、今が一番ええ状態なんです」

――ライブバーも野外コンサートも自分で作って、自分で出る。人生を音楽に捧げているせい子さんの姿は、関西の音楽に生きている下の世代のロールモデルになっている気がします。

「そうであればええなぁ。でも時代は進んでいるし、色んな音楽の関わり方ができるから自分の場所を作らなくてもうまくいくようになってほしい気持ちもある。おとぼけビ~バ~は何回もアメリカに行っては、よしえちゃんとか関西帰ってすぐ店で愚痴言うてて、ホンマにタフ。寺尾紗穂ちゃんは子ども育てながらよくあそこまで自分の創作に向き合えるなぁって尊敬する。自分の音楽に確固たるものがあれば何でもいいんですよ。〈ムジカ〉なんか2018年に立ち退き宣告されて、たまたま今のバナナホールの2階に移転できたけど、ここが無くなったらどう生きていこうかなぁって考えましたもん。今もまだ移転したときの借金は残っているし。慣れてるからそんなに気にしてないけど(笑)」

――あべさんやミディの大蔵さん、そして今年は風太さんなど、せい子さんのよき理解者たちが亡くなる中で、残りの人生において果たす自分の役割みたいなことは考えたりしますか?

「どうやろう?でも私が大好きな先輩たちは、まだまだ現役で毎日のようにどこかで歌っているし。うつみようこさんが〈ワシら一生中堅やからな!〉って言ってて、まだまだみなさん元気でいてくれな困るし、自分もそうでありたい。できるだけ長く歌っていたいということしか考えてないんやと思います」

――夕凪のメンバーとその思いは共通している?

「それは絶対。夕凪のメンバーは全員音楽があることで、本当の自分が取り戻せるってことをわかっている人たちやから。だから今もみんなでツアーに行けるし、一緒に泊まって今でも枕投げするような関係性でいられる。どこまで生きていけるかわからんからこそ、やれるところまで攻撃的なバンドでありたいですね」

伊藤せい子(いとう・せいこ)
1994年、ロックバンド「夕凪」を結成。97年にメジャー・デビュー。
フォーク・ロックの影響も感じさせる音とユニークな展開、「側にある言葉」を信条としている。
音楽制作に加え、野外自主企画イベントを定期的に開催するなど、精力的に活動を続けていいる。

夕凪オフィシャルwebサイト:https://go-yuunagi.com/
X:@SEPONyuunagi
Instagram:seikoitou

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