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【アーカイブス#55】ジャック・ブレル *2013年12月

 これまでこの連載で何度も書いているように、ぼくが歌の道に進むようになったのは、1960年代半ば、中学生だった頃に聞いたアメリカのフォーク・ソングに強く心を動かされたからだ。最初はキングストン・トリオ、ブラザース・フォア、ピーター・ポール&マリーといったモダン・フォーク・コーラス・グループに夢中だったが、すぐにも彼らが歌っている歌の作者に興味を引かれるようになり、ウディ・ガスリー、ピート・シーガー、そしてボブ・ディランの歌を熱心に聞くようになった。中でも、ピート・シーガー!! ぼくは彼を知ったことで、自分も歌を作って歌う、そんな人生を歩みたいと強く思うようになったのだ。
 そんなわけでぼくとアメリカのフォーク・ソングとの道行きは、そろそろ半世紀、50年になろうとしている。と言っても、ぼくはアメリカのフォーク・ソングだけを50年ひたすら追い続けていたわけではない。ロックもカントリーもブルースも、面白いと思える音楽には何でも耳を傾けてきた。そして外国の歌に関して言えば、英語の歌だけではなく、ほかの言葉で歌われる歌にも耳を傾けた。

 なかでも好んで聞いたのは、シャンソンと呼ばれるフランス語の歌だ。ちょうどアメリカのフォークに夢中になってから5年ほどが過ぎた、高校生の終わり頃にシャンソンもよく聞くようになった。もちろんぼくはフランス語はまったくわからないので、当時のレコードに付けられている歌詞の対訳を熟読しながらシャンソンに耳を傾けていた。
 どうしてぼくがシャンソンに心を引かれたのか、そのわけは自分でもよくわかっている。シャンソンはとても歌詞が面白く、言葉を重んじる音楽で、いわゆる歌詞派というか言葉派というか、何を歌っているのかということがいちばん重要だというメッセージ重視の「ヴァーヴァル/verbal」な音楽の聞き方を最初からしていたぼくにとっては、シャンソンはアメリカのフォーク・ソングとどこかとても通じるものがあるように思えたのだ。
 1960年代後半、「関西フォーク」などという呼び名が生まれて、日本のフォーク・ソングが広まって行く中、アメリカのフォークだけでなく、シャンソンもよく聞いているフォーク・シンガーはぼくのまわりに何人もいた。ぼくの大親友だった高田渡さんはジョルジュ・ブラッサンスが大好きだったし、渡さんがしばらく京都に暮らしていた60年代の終わり頃、一緒によく歌ったりしていたひがしのひとしさんもアメリカのフォーク以上にシャンソンの影響を受けている人だった。渡さんと京都でしょっちゅう会っていた時、当時の関西フォークにとても理解のあった児童文学者の今江祥智さんのお家に遊びに行ったりもしたのだが、今江さんはイブ・モンタンの大ファンで、その時にいろんな貴重なレコードを聞かせてもらい、渡さんと一緒にかしこまってイブ・モンタンの歌に耳を傾けていたことをよく覚えている。
 そして高石ともやさんや加藤和彦さんは、ボリス・ヴィアンの「拝啓大統領殿」をコンサートでよく歌っていたが、これはもしかするとピーター・ポール&マリーがカバーして歌っていたのを高石さんが聞いて日本語の歌詞を付けて歌い始めるようになったのだと思う。

 シャンソンの歌い手のレコードをいろいろと聞いて行く中で、ぼくのいちばんのお気に入りとなったのが、ジャック・ブレル(Jacques Brel)だった。シャンソンと言えばフランスの歌という印象が強いが、ジャックはベルギー人で、20代前半の頃にフランスに移り住み、シャンソンの世界で活躍するようになった。
 日本語版のウィキペディアのジャック・ブレルのページをもとに、彼の経歴を簡単に紹介しておこう。
 ジャック・ブレルは、1929年4月8日にベルギーのブリュッセルで生まれ、父親は板紙工場を経営する実業家だった。ジャックはその工場の跡継ぎになるはずだったが、10代の頃から歌や演劇に夢中になり、1950年代初期には自ら作った曲をナイトクラブで歌うようになった。
 1953年にジャックは78回転のSP盤でレコード・デビューを果し、それは200枚ほどしか売れなかったものの、フランスのシャンソン界の大物、ジャック・カネッティに注目され、彼に呼び寄せられてブレルは板紙工場の仕事を辞めて活動の場をパリに移すことになった。
 1954年にはジャックはデビュー・アルバムを発表し、そこに収められていた「OK悪魔/Le Diable」をジュリエット・グレコがリサイタルで取り上げて歌ったことで、ジャックの存在は広く知られるようになった。そして50年代後半頃からは、「愛しかない時/Quand on n'a que l’amour」、「行かないで/Ne me quitte pas」、「フランドル女たち/Les Flamandes」、「わが故郷マリーク/Marieke」、「瀕死の人(そよ風のバラード)/Le moribond」「忘れじの君/On n'oublie rien」など、発表する曲がことごとく大ヒットして高い人気を獲得し、シャンソンの世界で重要な位置を占めるようになった。
 1960年代はジャック・ブレルの絶頂期で、ブレルはひとりで、あるいはピアニストのジェラール・ジュアネストやアレンジャーのフランソワ・ローベールなどと共に、愛と死、人生を歌った、文学的で深遠、複雑にして自由奔放な歌を次々と作って歌い、演奏活動も熱心に展開していたが、1968年にステージからの引退を表明する。しかし演奏活動は中止したものの、アルバムのレコーディングはその後も続け、何本もの映画に出演したり、ミュージカル『ラ・マンチャの男』のフランス語版に挑戦して、演出や主演も自ら行なった。
 ステージからの引退宣言から5年後の1973年、ジャック・ブレルはフランス領のポリネシアに移住し、船で大西洋横断をしたり、自家用飛行機を操縦したりと、その時間は音楽以外のことに費やされることが多くなった。1977年にジャックはパリに戻り、最後のアルバムとなる『偉大なる魂の復活/Les Marquises』をレコーディングした。翌78年にかつて手術を受けた肺ガンが再発し、10月9日にパリ郊外で息を引きとった。

 ぼくがジャック・ブレルの歌に強く興味を引かれるようになったきっかけは、大好きだったアメリカのフォーク・シンガーのジュディ・コリンズが、1966年から自分のアルバムでジャックの歌を取り上げて歌うようになったからだ。それでぼくもジャック自身のアルバムを手に入れ、レコード盤に付けられている歌詞対訳を読みながら耳を傾け、その世界に深くはまり込んで行くようになった。
 ジュディ・コリンズが1966年のアルバム『In My Life』で初めて取り上げて歌ったジャック・ブレルの曲「鳩/La Colombe」は、ぼくも日本語の歌詞をつけて歌ってみたりした。
 アメリカのフォークの世界でジャック・ブレルを歌っていたのは、ジュディだけではなく、その多くはロッド・マッケンが英語に訳したり、英語で新たに歌詞を創作したものだったが、ジョーン・バエズ、セオドア・ビケル、ジョン・デンバー、キングストン・トリオなども歌っていた。
 キングストン・トリオはロッド・マッケンがジャックの「Le Moribond」に新たな歌詞を付けた「そよ風のバラード/Seasons In The Sun」を歌っていたのだが、実はぼくがアメリカのフォークに夢中になり始めた頃、確か『Time To Think』というアルバムに入っていたこの曲が大好きで、ジャック・ブレルがどんな人なのかもよく知らず、何度も繰り返し聞いていた。だから正確には最初にぼくをジャック・ブレルと出会わせてくれたのは、キングストン・トリオだったのだ。
 あの頃からほぼ50年、今ぼくはジャック・ブレルの歌詞をもとに、この曲「Le Moribond/Seasons In The Sun」に日本語の歌詞を付けて、自分のライブでよく歌っている。

 この「Le Moribond」を日本語で歌いたいと思ったのが直接のきっかけだったのか、ぼくは数年前から再びジャック・ブレルを熱心に聞くようになり、以前持っていたアナログ盤のアルバムをCDで買い直したり、何枚も発売されているジャックのコンサートのDVDを買い求めたり、はたまたいろんな国のいろんな人たちがジャックの曲をカバーしているアルバムを集めたりと、再燃したブレル熱は今もずっと高まったままだ。
 コンサートでのブレルは、両手両足を使い、跳びはね、踊り、駆け回りながら歌い、全力投球、入魂の素晴らしいステージを見せてくれる。ぜひともDVDを手に入れて、その唯一無比のシンガーとしての魅力をその目と耳で確かめてみてほしい。

 そんなこんなで最近になってぼくのジャック・ブレル・コレクションは増えて行くばかりなのだが、ここに来てとんでもなくすごいアルバムが登場した。それは2013年11月にフランスで発売され、この日本では2014年1月22日にリスペクトレコードからリリースされるジュリエット・グレコの『Greco chante Brel/ジャック・ブレルを歌う』(日本盤の品番はRES-240)だ。

 グレコと言えば、先にも少し触れたように、1950年代半ばにブレルの歌をいち早く取り上げて、彼がフランスで有名になるきっかけを作り、その後も何曲もブレルの曲を歌い、1978年にブレルが亡くなるまで20年以上、親交を深め合ったブレルにとってはかけがえのない存在だ。ブレルの遺作となった1977年の『偉大なる魂の復活』も、レコーディングのリハーサルはグレコの自宅で行なわれている。
 これまでにグレコはブレルの曲を何曲もレコーディングしている。残念ながらぼくは持っていなくてどんなものかよくわからないのだが、恐らくは日本企画盤で1988年の日本公演でのライブ録音で構成されていると思える『Greco ’88/行かないで グレコ〜ブレルを歌う』という、当時フィリップスから発売されたブレルのカバー・アルバムがある。ピアノ伴奏と編曲はブレルのピアニストや作曲者にして、1988年にグレコの夫となったジェラール・ジュアネストで、アルバムはピアノ独奏曲の「ブレルへの花束」で始まり、グレコが歌うブレルの曲が11曲収められている。
 何とかしてこのアルバムを手に入れたいのだが、廃盤となってしまっている今、唯一手に入るのはAmazon.jpで5799円と5800円で出品されている二枚の中古盤だけだ。誰かこのアルバムを持っている人がいたら、このぼくにぜひ安く譲ってください!!

『Greco ’88/行かないで グレコ〜ブレルを歌う』を聞いていないので、とんちんかんなことを言ってしまっているのかもしれないが、2013年11月に登場した『Greco chante Brel』は、それから25年を経て登場したスタジオ録音でのグレコによるブレルのカバー・アルバムで、恐らくは初めての正式で本格的なカバー・アルバムとなるのではないだろうか。
 今回もジェラール・ジュアネストがピアノを弾き、編曲とオーケストレーションはブリュノ・フォンティーヌが担当しているが、グレコとジュアネストはブリュノのことを「(ブレル作品のオーケストラ・アレンジを手がけた)フランソワ・ローベールの真の継承者だ」と絶賛している。『Greco ’88』と『Greco chante Brel』でグレコが取り上げているブレルの曲は、「ブリュッセル/Bruxelles」、「懐かしき恋人たちの歌/La Chanson Des Vieux Amants」、「孤独への道/J’Arrive」、「葬送のタンゴ/Tango Funebre」、「行かないで/Ne Me Quitte Pas」と、5曲が重複している。『Greco ’88』の時のグレコは61歳、それから25年後の『Greco chante Brel』のグレコは86歳。グレコは新しいアルバムに収録するブレルの曲の「読み直し」を夫のジュアネストと共に行なって、新たな歌唱表現を見出したということで、2013年7月にパリのスタジオで行なわれたレコーディングでは、グレコの歌とオーケストラとが同時録音され、深く豊かな感情がほとばしり、時には鬼気迫る感じのグレコの歌も圧巻なら、ピアノの演奏もオーケストラも実に生々しくて、熱く血の通った素晴らしいものなっている。
「花の種を蒔いたのはブレルである。花に涙を注ぐだけでは足りない。花が咲き続けるように助けてやらねばならない」と、グレコは自らの回想録に書き、ブレルの没後35年目に作られた今回のブレルのカバー・アルバムに関しては、「今こそブレルに、あなたを愛していたことを告げる時だと思った」と、『ル・モンド』紙でコメントしている。

 そして2014年5月16日と17日の二日間、『Greco chante Brel』のアルバムの発売を記念して87歳になるジュリエット・グレコはブレルもよく出演していたパリのオランピア劇場でコンサートを行う。
 これはすごいことだ。行きたい!! 行かねば!!

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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