鈴木惣一朗(ワールドスタンダード)が語る"音楽のことはじめ" 「モノ作りの一番面白いところは、センスに対しての光の当て方と落とし方」ーー音楽に目覚めた青春時代から、パイドパイパーハウスとの出会い、デビュー秘話まで
インタビュー・テキスト/山本勇樹(Quiet Corner)
ワールドスタンダードが1982年から84年にかけてカセットテープのみで発表した、デビュー前の幻のデモテープ音源3作品が、この度、鈴木惣一朗さんの監修の元、初CD化を果たした。過去、ワールドスタンダードのリリースなど、折に触れて、惣一朗さんにインタビューを行ってきたが、実際、そのデビュー前後について、あまり訊いたことがなかった。一体、どんな青年時代を過ごしたのか。40年という長いキャリアは伊達じゃない。今まで、僕もワールドスタンダードを通して、様々な音楽を知り、触れてきたわけだが、まだ足りないピースがあった。
「発端のところは1970年代になるよね。地元が静岡県の浜松市なので、18歳までは実家で暮らしていたんだ。その頃は、進学校に入っていたので勉強ばかりの日々だったんだけど、いきなり、軽音楽部に入るんだよね。実は、それまでは、バスケット・ボールをやってたんだけど、体育館の横に軽音楽部の部室があって、そこから素敵な音が聞こえてくる。その曲は、今でもすごく憶えていて、ビートルズの『レット・イット・ビー』に入ってる、『ディグ・ア・ポニー』だった。演奏していたのは先輩で、思わずバスケをやるの止めて〈ちょっと聞いていいですか〉って、ユニフォームのまま、軽音楽部の部室に入っていったんだ。『ディグ・ア・ポニー』って、ワン・コードみたいに作られていて、永遠にやってるような音楽なんだけど、それをずっと聞いてたの。 それで〈ここに入っていいですか〉って聞いて、そのまま入部しちゃったんだ。高校1年の夏かな、春まではバスケットやってたんだけど、夏には軽音楽部に入って、すぐにバンド組んで。最初のバンドはANCHOVY(カタクチイワシ)って言うんだけど(笑)。で、カタクチイワシっていうのをやりながら、他にも、いくつかバンドもやっていて、その時の担当はドラムで、どのバンドもやる人がいないから掛け持ち。だけど、家に帰ると、サイモン&ガーファンクルとかを、アコースティック・ギターで友達と弾くっていう。で、合間に受験勉強という日々が、高校3年生まで、続いていくんだよね。この間に、部屋で聴いていた音楽が、トミー・リピューマみたいなAOR。1970年後半に、彼が創設したホライズンってレーベルがあったんだけれども、他にもA&Mやブルー・サムとか、あとクリード・テイラーのCTIとか、アーバンなものを生意気に聴いてたりした。でも、学校ではそんな音楽を聴いてる人は誰もいなくて。だから部活ではハード・ロックやって、家に帰ると友達とサイモンとガーファンクルやって、1人になるとマイケル・フランクスとか聴いてたの。今思えば、早熟っていうか、そういう耳になってしまったというか。そして、実際に演奏している音楽よりも、聴いている音楽の方が、どんどん自分の中で大きくなっていくんだよね。そして、そんな状態のまま上京するんだけど。それで、青山のパイドパイパーハウス(略称:パイド)を訪ねたのが、たしか1978年だったかな」
90年代に、フリー・ソウルの文脈で知った、フィフス・アヴェニュー・バンドやピーター・ゴールウェイを、当時、J-WAVEでオンエアされていた、細野晴臣さんがナビゲートを務める『デイジー・ワールド』という番組で聴いた時に、今までとは違った印象で聴こえたのを憶えている。音の向こう側に、まだ知らぬ、色んなルーツ・ミュージックが聴こえてきた。たしか、惣一朗さんも、時々、ゲストで出演していたはずだけど、そのときに流れたかは憶えていない。
「フィフス・アヴェニュー・バンドのレコード盤がどうしても欲しくてパイドパイパーハウスに買いに行ったら、売ってないっていうので、他のところで見つけたんだよね。たしか銀座のハンターだったかな。当時、ミュージックマガジンの後ろの方に広告がいっぱい載っててね。パイドの広告とか。あと、ロック喫茶ね。吉祥寺の『赤毛とそばかす』とか、渋谷の『ブラックホーク』とかね、いわゆるロック喫茶なんだけど。あと輸入盤レコード店の『すみや』とか、色々そういうのが載ってて、僕は丸をつけてチェックしていたから、上京したら必ず見に行こうと思っていた。新宿の『ウッドストック』や原宿の『メロディーハウス』も行ったけど、もうみんななくなってしまったな。それで、こういう場所に行くと、知識だけは色々あるわけだから、〈ピーター・ゴールウェイとかオハイオ・ノックスとかニック・デカロとかあるの?〉みたいに言ってみて、〈君よく知ってんね〉って言われたい(笑)。初めてパイドに行ったとき、すごく憶えているんだけど、長門芳郎さんの奥さんが応対してくれて。たしか、スパイロジャイラのデイヴ・スチュワートとバーバラ・ガスキンのデュオが出したシングルを買ったんだよね。そう、多分その辺から始まっていくっていう感じなんだけど、フィフス・アヴェニュー・バンドとかハース・マルティネスを買えたのは随分後だったし、当時はなかなか売ってなかったんだよね。だから、ハンターに行ったり、いろんなレコード屋に行って探したりしてる日々が楽しかったっていう。まぁ、暇だったの。でも大体、千円以下じゃないと買えないから、カット盤を探して、どんどん音楽的な趣味が肥大化していく。その後、自分の創作に繋がっていくんだけど、その時はただ楽しくて聴いてるだけだった」
音楽愛好家が音楽家になる。まさにそれを体現したのが鈴木惣一朗ではないだろうか。青年期にあらゆる音楽を吸収して咀嚼し、濾過し、その過程を繰り返して、自らの表現を見つけたのかもしれない。今回の3作品を聴いて、それがしみじみと伝わってきた。過去のノスタルジーがフレッシュに輝く瞬間の数々が、今に続くワールドスタンダードの魅力だ。かつて、惣一朗さん言った言葉を思い出したーー
「若い頃には、ブルース・コバーンとヤング・マーブル・ジャイアンツを同時に聴いていたからね」
「このあと、すぐにワールドスタンダードに直結するんだ。上京して、武蔵野美術大学とか多摩美術大学の友達がいっぱいできた。僕は日大なのにね(笑)。そうするとさ、ポストパンクっていうか、ニューウェーブのものを彼らはガンガンに聴いてるわけだ。あと、例えば、僕は知らないハンス・ベルメールとかナム・ジュン・パイク、マン・レイ、マルセル・デュシャンといった、ポップ・アートっていうのかな、ちょっとわからないけど、造形物とか、美術とか、ミニマル・アートとか、そういった話題で彼らは普通に話をしてる。それで、実際に彼らの家に行くと、そうした絵なんかを見せられたりして。しかも、BGMがブライアン・イーノだったりする。〈これ何?〉みたいな。それで〈あっ、ロキシー・ミュージックの人なんだ〉と知る。徐々にそういう実験音楽も普通に聴き始めたりするんだけど、その時点では、自分のやってるバンドの音楽は、ニューウエーブとパンクとレゲエとフュージョンで、ぐちゃぐちゃになってるんだよね。20歳過ぎぐらいかな。6つぐらいバンドやっていたんだけど、家に帰ると、今度はカセットテープのダビングとかで、録音の真似をし始める。高校の時と同じだよね。外ではロックバンドをやって、家に帰ると、ギター弾いたり、ちょっとだけシンセ弾いたりして。でも、それが逆転してくのね。趣味でやっていてた、自分の個人的なものの方が、大きくなっていって、それがワールドスタンダードを始めることに繋がっていくんだよね」
80年代を迎えて、音楽が目まぐるしく変化を遂げる過渡期の中で、惣一朗さんはワールドスタンダードをスタートさせた。過去の音楽と現在の音楽を、どんな風に見つめながら、音楽を作ろうと思ったのだろうか。
「周りにはいろんな友達がいて、髪の毛が立ってるパンクもいたし、方やナンパな感じのサーファーもいたし、あと普通にビートルズが好きな友達とか、何パターンかあって、僕はどんどん両二輪っていうか、例えばマイケル・フランクスとセックス・ピストルズを同時に聴くっていう状態に入っていく。それで、間にボブ・マーリーもあったりして。でも、そういう人はあまりいなかった。東京はもっといろんな人がいるはずなのに、なんでみんなこう、片っぽだけ聴くのかなって。で、山本君に乗っかって言うわけじゃないけど、僕のこころの中に〈クワイエット・コーナー〉ができてくる。それはノンジャンルなんだよね。なんでもいいんだもん、良ければ。越路吹雪さんを聴いたりして、そういうのも全部入ってくる。今だったら、プレイリストだけど、当時はカセットテープになんでも入ってるようなね。その中に小津安二郎のサントラとかも入れ始めちゃうから。もう作品作りが始まってるみたいなもんだね、自分の。そして、それを欲しいって言う友達にダビングしてあげたりしてた。それが、ワールドスタンダードのデモを作ってカセットをあげるっていう所作に繋がってくんだよね」
ワールドスタンダードのアルバムを聴いていると、まるでコンピレーション作品を聴いている感覚になるときがある。ビートルズがあって、ヴァン・ダイク・パークスがあって、さらにアントニオ・カルロス・ジョビン、マーティン・デニー、ベン・ワット、そしてペンギン・カフェ・オーケストラ…あらゆるテイストの音楽が居心地よく、ひとつの作品の中に同居している。僕は惣一朗さんのこういった自由な編集作業が好きだ。今回、この3作品を聴いて、既にその片鱗が感じることができた。
「部屋においてあった楽器を、なんとなく演奏し始めるっていうかさ、ただの真似なんだけど(笑)。その時にはもうペンギン・カフェ・オーケストラとかも聴いていたから、こういうのだったらできるかも、みたいなね。それがぼくの〈音楽のことはじめ〉だったような気がする。1981年ぐらいの音楽の原風景だよね」
個人的にワールドスタンダードをリアルタイムで聴くようなったのは1997年作の『COUNTRY GAZETTE』が最初で、その後、新作を追いかけながら、ノン・スタンダードやエブリシング・プレイといった過去作品も聴いていった。だから、自分の中では、惣一朗さんの作品を、わりと複合的に捉えていたけれど、今回の3作品を聴くことによって、過去から現在の作品が連綿と連なっているのが分かった。
「うん、今回の再発をして、繋がっているなって思ったよ。つまり、今は音楽っていうものを知ってしまった後の自分なんだよね。でも、デモテープを作ってる時は、まだ音楽を知らない自分がそこにいる。よく思うんだけど、何も知らないっていうことは、何かを知っていることより、匹敵するというか勝ってるんじゃないかな。知らない領域と、できない領域があって、それはアマチュアリズムに支えられてるものだけど、今はプロの音楽家になっちゃったから、いろんなことを知ってしまった状態なんだ。それを僕は〈自分の手が汚れた〉っていう風な言い方する。語弊があるんだけど、でも自分ではそう思ってる。知ってしまったが故に、できないことがいっぱいある。例えば、今回のこのデモテープの音。技術的には簡単に作れるんだけども、じゃあ今、これを作れるかといえば全くできない。つまり、知らなかったからできたんじゃないかな。では、なぜ、繋がっているかというと、今度は老化によって、知ってるけどできないことが増えてくるんだ。筋肉とか知能が衰えていく、どんどん忘れちゃうというか。そうやって、実は元に戻っていってるんじゃないか。40年かけて、いろんなことを得てきたのに、またどんどん失っていく。では、最後に何ができるんだろうっていうものを、次に作るアルバムでやりたいなと思うんだけど。以前のアルバム『シレンシオ』を聴いてくれたからわかると思うけど、あれが自分のスキルとしては最高峰だったと思うんだよ。自分でもあの時、音楽的にものすごく知識と技術、仲間だったり、録音の仕方とか、技術も上がって、完成度の高いアルバムができてしまった。思ったことは、もうあとは下るだけかなみたいなね。でも、それでいいやと思ってたの。その後、コロナが来たから、どんどんそういう気持ちが強まって、『色彩音楽』、『エデン』、『ポエジア』みたいなサイズダウンした作品になっていくんだけど。それは奇しくも『ASAGAO』の時のような状態に、自分がまた戻っていってるんじゃないかって思った。これからは『シレンシオ』のような大きいサイズのアルバムをもう作れないかもしれない。でも、『ASAGAO』みたいな、何かイノセントっていうか、アマチュアリズムみたいなところに、自分が帰っていくのも、面白いなと思って。なんか、人生ってちゃんと一周するんだなって」
『シレンシオ』をはじめて聴いたとき、これは決定打になる作品だと思った。今聴きかえしても、その気持ちは変わらず、あの時の高揚感がよみがえってくるほどだ。ただ、今回再発されたデモテープにも得も言われぬ何かを感じ取れた。デモというには、もっと未来に向けた何か。惣一朗さんの内なる情熱がこの作品からひしひしと伝わってくるのだ。
「僕はビートルズが好きだけど、ビートルズっぽい曲は作ろうとは思わなかった。それをしたらかっこ悪いなと思ったし、大体ビートルズっぽくやったってビートルズにかなうわけないし。例えば細野さんとか、YMOも好きになっても、そういう風な音楽をやろうとは思わなかった。それで、ふと思ったのは、彼らに聴かせられるものにしたいっていう、初動っていうか、衝動が自分の中に出てきて、彼らが〈うん、いいね〉って、言ってくれるようなものじゃないと、やる意味ないなみたいな。それはさっきの繰り返しになるけど、たくさんのいろんなアルバムを聴き過ぎてしまって、ワルスタを始める時点で〈憧れはやめましょう〉って、なんだか分からなくなってしまって。ボブ・ディランとかニール・ヤングっぽくやってる日本のミュージシャンがいっぱいいることを知ってしまったので、亜流とか模倣とか、そういうのには自分はあまり興味が湧かなかった。だからといって〈自分はオリジネイターだ!〉っていうほど崇高のものではないけれども、何か他にあまりないようなものをやってみたいっていう、緩やかな決意だよね」
デモテープ3作品の中で、とくに『ASAGAO』が現在のシーンと重なっていると感じた。時代の空気とリンクしているのが興味深かった。ティアックの4チャンネルのテープレコーダーを使って録音したというこの作品は、どこかサム・ゲンデルやサム・ウィルクスあたりのLAのインプロビゼーション~アンビエント・ジャズにも通じるものがある。おそらく新しい世代にとって、この『ASAGAO』は新たな発見になるのではないだろうか。
「本当に期せずして、アンビエントとかバレアリックの再評価があったんだよね。今まではそういうものは、ニューエイジっていう名前で、レコファンの50円とか100円のコーナーに捨てられていたけど、付加価値がついて、何千円とか何万円のものに変わっていくわけじゃない。シティポップのブームとかも同じだと思うんだけど。例えばこの『ASAGAO』も、僕は当時、こんな音楽は誰も聴かないし、売れるものじゃないと思って作ってたんだけど、だからこそ、新たな付加価値がつけられるっていうのが、今の時代の空気感っていう風に言えばいいのかな。ニューエイジとかアンビエントが再評価されている要因の1つとして、匿名性の高さもすごくあると思うし。要するに、気負ってないというか、音楽において音楽じゃないものに、リスナーが意味をつけていく時代って言えばいいのかな。そういうシーンとは、もしかしたらリンクしてるのかもしれないね。特にそれはインバウンドで海外の人が、僕の音楽の意味のようなものを見つけてくれたのが大きい。そして『pianola(ピアノラ)』っていう下北沢のレコードショップの國友君と出会った時に、彼がその『ASAGAO』の意味を僕に分からせてくれたんだよね。彼は海外ディストリビューションに長けていたので、日本だったら、このぐらいの規模だなと思ってたのが、少しずつなんだろうけど、広がりをもっていってね、パステルズのメンバーが聴いてる様子が送られてきて、この音楽の意味が彼らに分かるんだなっていうのは、すごく面白いなと思ったの。だからその音楽には、ワールドワイドな視点とかが、あったみたいで。自分が作ってる作品が、J-POPみたいな狭い括りの中で消費されるのは、やっぱり最初から嫌だったし」
アンビエントといっても、ブライアン・イーノやペンギン・カフェ・オーケストラだけではない。鈴木惣一朗は自由に音楽の地図を描く。隣接する音楽は、時に聴き手の想像を刺激して、遠い地平へ誘ってくれるのだ。このデモテープにおいても、作品の背景には、ワールドスタンダードならでは音楽の風景が見えた。インストゥルメンタルという手法を用いて、どれだけ豊かな色彩が描けるか。個人的には、このデモテープからはアンビエントというよりも、アンビエント・フォークの匂いを嗅ぎ取った。ここには90年代後半に発表される『カントリー・ガゼット』『マウンテン・バラッド』『ジャンプ・フォー・ジョイ』のいわゆる「ディスカヴァー・アメリカ三部作」への伏線があるのかもしれない。
「当時はね、マーティン・ハネットのファクトリーだと、ドゥルティ・コラムのヴィニ・ライリーでしょ。あと、ラフトレードのベン・ワットしかりだけど、クレスキューブルも好きだったね。ホルガー・シューカイとかロバート・ワイヤットなんかもビートルズと一緒に聴いたりしてて、そういう変な聴き方をしていたんだけど、全部並列になってくんだよね。あと、高校の時から、パット・メセニーが好きだったんだよね。アルバム『ウォーター・カラーズ』の時かな。〈めちゃくちゃいいじゃん、これ〉って。ジャケットもいいしね。はじめてヴィニ・ライリーを聴いた時も、メセニーっぽいなと思った。ざらっとしてるけどもリバーブもたっぷりあって。90年代になって、『カントリー・ガゼット』を作ろうかなって思った時には、なんか手が汚れてるなって思っていた。だから、『カントリー・ガゼット』の時は、たぶん『ASAGAO』のことを思い出したかもしれないね。とにかく1人で家でコツコツ、なんだかざらっとした音楽を作るっていう感じだったかな。だから、ちょうどそれが1985年のデビューだとしたら、『カントリー・ガゼット』あたりが1995年になってくるんで、10年たってるんだよね。録音機器の進歩のおかげで、家でハードディスクに録音できるようになっていたけど、1人で手持ちの楽器で音を重ねていくっていう上では、『ASAGAO』も『カントリー・ガゼット』とはそんなに変わらないかもしれないね。なによりインストルメンタルだし。でも、当時、そんな風に自覚していたかは、ちょっとわからない。だけど、そういう衝動はあったのは事実で、細野さんは、〈いいぞ〉みたいな感じで、応援してくれてたから、そっか、この方向は一人でやれってことかって。細野さんは、当時『音楽列車』はデモテープそのままリリースすればって言ってくれたんだけど、それに反発して、デビューしてから全部作り直すんだけど、別のものになってしまった。その後は、そうした音楽のリベンジみたいなことを、例えばクラウンに移って『ポッシュ』を作る時にも思ったし、すべてリベンジしていかなきゃみたいな。でも手はどんどんこうプロデュースで汚れてゆく。だから1回リセットして。『カントリー・ガゼット』の時にリセットしようとしたのかもしれない。そういうことが、今、自分の中にこう根強く残っているね」
デモテープは『ASAGAO』から『YOIMONO』へ。メンバーも2人から4人へ、さらに次作『音楽列車』では6人へ変化していく。もうここですでにワールドスタンダードという音楽が出来上がっていると、素直に感じた。デモテープというよりは、未発表のオリジナル作品を聴いたような、完成度だ。惣一朗さんのセンスがしっかりと放たれているではないか。
「1982年の『ASAGAO』から、1983年の『YOIMONO』へのステップアップで、たった1年なんだけど。私的なことを言えば、就職しなきゃいけないっていう時期に入ってきてて、つまり、音楽で生活していこうなんて微塵も考えてなかったから、コンピューターの会社に就職するのが決まってて。そうすると、100%のフルタイム・ミュージシャンとして生きていくんじゃなくて、日曜音楽家として生きていくっていう道を選んでいる時期なんだ。それで、次の『音楽列車』は、もう就職してたんだけど、結構もういけるかなっていう、早く会社やめようかなって思い始める時期で。だから、『YOIMONO』は、なんか揺らいでいるって言えばいいのかな。これからどうなるのかなみたいな気持ちだよね。だから、『YOIMONO』なんて言い切ったタイトルを付けたりして。その中で、ベン・ワットの『ノースマリンドライブ』とか、ブルース・コバーンの『雪の世界』とかを深く深く聴いていたんだけど、それは、その時の自分の揺れた心境とリンクしてたような気がする。あの当時はウォークマンだよね。カセットのA面に『ノースマリンドライブ』を入れて、B面に『雪の世界』に入れて、ずっとリバースにして、多摩川沿いを歩いたりするの。お金もないし、そういうことばっかりやってた」
『ASAGAO』から『YOIMONO』へのステップアップも驚いたが、『音楽列車』ではさらに昇華したように感じた。80年代中頃の同時代性もありながら、環境音楽~アンビエントに、洗練されたカントリー~アメリカーナさらりと散りばめるフットワークの軽さ。ヴァージニア・アストレイを出発して、ヴァン・ダイク・パークスへ着地するような、ワルスタ流マジカルコネクション。90年代に来たるべきフォーキーリヴァイバルを予見したような仕上がりだ。そしてレコーディングのクオリティもぐんと向上。惣一朗さんの録音へのこだわりが既にここで見受けられる。
「『YOIMONO』の時は、ティアック(TEAC)の4チャンネルのレコーダーを使ってる。4つの音が入るので、ワントラックにまず2人か3人で何か音を入れて、また次のトラックにまた入れて。音がいっぱいになると、ピンポンで録音したりして、トラックを空ける。それをやれることでミックスができる事に気づいて。その前の『ASAGAO』は、ステレオのカセットテープレコーダーを2台使って同じようなことをやったから、どんどん音が悪くなるんだけど、その時はそれしか出来なかったから。それで、『音楽列車』になると、4トラックのフォステックス(FOSTEX)がもう1つあって、ティアックとフォステックスを併用していくっていう、これが8トラック。だから、僕的には、急にやれることが増えたっていうか、〈じゃあ、ステレオで録ってみようか〉と思うようになる。それまではモノラルしか録れなかったけど、定位の実験とかもできるようになったんだ。見よう見まねだけどね。マイクはSHUREの57が2本あったかな。コンデンサーマイクなんか知らなかったし、プリアンプも持ってないんで、 直接ティアックに突っ込んでたような状態で、随分ゲインが低いわけだ。レコーディングの知恵なんてないし、それでやるしかない。その録ったものに、どんどんリバーブやディレイをかけていくのが、『YOIMONO』からだんだん始まっていくっていうか、要するに、エフェクター音楽へ向かっていったんだよね」
ワールドスタンダードの音楽を語る際に、「無国籍音楽」や「架空の映画音楽」といった言葉を何度も使ってきたが、『YOIMONO』と『音楽列車』においても、思わずそれを使いたくなってしまった。僕の好きな音楽はどれも旅をするように映像的なのだ。かつて、惣一朗さんがコンパイルしたコンピレーションCD『おひるねおんがく』『おやすみおんがく』についてこうレビューしたことを思い出した。ゲイリー・マクファーランドやピエール・バルーやマイク・オールウェイのように、鈴木惣一朗氏もまた信頼すべき趣味人である、と。
「当時、西武系列で『アール・ヴィヴァン』っていう美術書専門の書店があって、現代音楽とかのレコードも売っていたんだけど。そこで、『ラブリーミュージック』っていうレーベルの作品が売られていてね。ピーター・ゴードンとかラブ・オブ・ライフ・オーケストラっていう、よくわかんないインストのグループがあって。アール・ヴィヴァンに行くと、そのラブリーミュージックのレーベルのものを、全部買うんだよね。その音楽っていうのは、現代音楽のような、ポップスみたいな、当時でいうとローリー・アンダーソンとか、ミニマルなポップスみたいなものだよね。そういうのはすごく参考になった。だけど、そういうものを知ってる日本のミュージシャンとか、そういう感覚で作っている人に会ったことはない。結局、その知識っていうものは、今みたいにサブスクで、パブリックに共有できる音楽じゃないんだ。つまり、知ってる人しか知らないから、それを真似しても結局オリジナルになってしまう。だから、〈かなり変わってますよね〉なんて言われて、喜ぶんだけど、〈本当はこれは真似なんだけど〉みたいな感じ。黙ってるんだけど(笑)。それでもオリジナルになっちゃうのは、演奏が下手だったから。例えば、ティン・パン・アレーみたいに、あれだけの技術があると、マッスル・ショールズのサウンドをやりましょうとか言ったら、同じくらいよいものが作れるんだよね。でも、僕は上手くないから、真似たと思っても、全然違う感じになっちゃってる。今でも同じかな。下手すぎて。それで、逆にオリジナリティのあるものに近づいちゃったっていうところはある。だから、当時はヘタウマ音楽家みたいな言葉があって。でも〈下手で上等〉みたいな(笑)。下手であるが故にオリジナルに近づいていくっていうのが、クリンペライとかパスカルコムラートとか、 トイポップスみたいなものだったと思うんだけど、自分に技術があったら、それ風な音楽を作れちゃったと思う。さっきも言ったけど、要するに何も知らないとか、できないっていう状態は、逆にチャンスっていうのかな。でもクラウンに移籍して、エブリシング・プレイの『POSH』を作った時は、エキゾチック・サウンドをきちんと出来なきゃダメなんだと思った。マーティン・デニー、レス・バクター、アーサー・ライマンができなきゃダメなんだ。だから、美島豊明くんとかの力を借りて、それを具現化する。すると目の前にマーティン・デニーみたいなサウンドが現れるじゃない。それで、出来ると嬉しいしいんだけど、それは、さっきの『ASAGAO』を作っていた時のような、イノセントな感じとは全然違うんだよね」
2024年2月、『カントリー・ガジェット』が、米国のインディペンデント・レーベル「Cudighi Records」からレコード化された。アンビエント、フォーク、ジャズ、ブルース、そしてエキゾが縦横無尽に交差する、いわばサンプリング・ミュージック。それはサム・プレコップもプルマンもタウン・アンド・カントリーも追いつけない世界だった。そう、こういった音楽はアメリカには存在しない。日本人ならではのヴァーチャル志向が生んだ幻想の世界だった。
「例えば、YMOの『ファイヤークラッカー』であるとか、かつてのヤン富田さんや、中西さんのウォーター・メロン・グループとかの、マーティン・デニー・サウンドってあるでしょ。でも、実際、マーティン・デニーを見た時に、なんだかマーティン・デニーよりそっちの方がいいんじゃないかなって思った。ミイラとりがミイラになる、という話もあるけど、日本人の技術力って、やっぱりすごいなっていうことを感じた。世界一なんじゃないかなって。それは細野さん関連の仕事を見ていると、痛感することが多い。だから、山本くんが僕の音楽を評価してくれるのは、とてもありがたいけれども、僕は本当はボタンを上手くはめられてないんだよね。一つずれて間違ってはめてしまう。そして、それが自分なりの表現になって、今日に至るっていうか。多分、本人はきちんとボタンをはめたかったはずなのに、上手くはめれなかった。けど、それを面白いっていう風に言ってくれる人たちがいることで、今日まで延命できたって気がする。でもね、『シレンシオ』の時はボタンを外したくなかった。ボタンの掛け違いとかじゃなく、ジャストにいきたかった。でも、やっぱり合わないんだ。あの時は、イタリア音楽をすごく聴いていたんだけど、そうした要素が混ざってきたりして、いろんなものがコンフューズしていった。で、結構それが面白いなって思い始めちゃった時点で、ボタンの位置が変わっていくんだ。だから、それはもう仕方ない。自分の癖みたいなものなんだって、あの時にも思ったね」
『音楽列車』にほのかに漂う、静かなエキゾチシズムが好きだ。膨大な音楽の蓄積によって、語られる心象風景は、どこまでも深く、どこまでも優しい。『シレンシオ』で垣間見られた、惣一朗さんの中にある日本的感覚が、『音楽列車』にも流れているような気がした。温かなメロディ、そしていつか見た懐かしい風景。僕らはこの作品に導かれながら、発見の旅に出る。
「日本的情緒感だよね。『シレンシオ』では、中田喜直さんの『雪の降る町を』をカバーしたんだけど、例えば、中村八大さんや、いずみたくさんのような音楽を、 僕はロックを聴く前に何度も聴いていたから、自分の中に血肉化されて根付いているようなもので、メロディに対する把握っていうのは知識じゃないんだよね。だから、ワールドスタンダードで、こうやってアンビエントをやっても、どこか日本っぽくなってしまう。でも、それは客観的にいいなと思うし、自分はやっぱり洋楽の真似じゃないんだなって、安心したところもある。『YOIMONO』に『贅沢貧乏』って曲が入ってるんだけど、ピアニカが入るレゲエっぽい感じ。これは、当時、原宿ラフォーレができて、その時のCMに使われてたんだよね。でも実は、ジョナサン・リッチマンとザ・モダンラバーズの『エジプシャン・レゲエ』みたいにやってみようって。でも、仕上がりは、なんだか自然と日本的な雰囲気になる」
このデモテープ三作品が、その後のワールドスタンダードの諸作品に繋がっていくことは言うまでもないが、近年、惣一朗さんが手掛ける、ピアニストの横山起朗や武田吉晴といった若い世代の作品にも、時を超え繋がっているようで興味深い。それも含めて、鈴木惣一朗という音楽の一部なのかもしれない。僕が読み込んだ『ワールドスタンダード・ロック』や『ひとり』のような本も同様だろう。以前、惣一朗さんには、クワイエット・コーナーの2冊目のディスクガイドにコラムを書いてもらったことがある。出版を迎えて、そのお礼を伝えた時、惣一朗さんから「3冊目はいつ出るの?」と聞かれたので、その予定がまだないことを伝えると、「誰が何と言おうと、3冊目は作った方がいい。物語は三部作で完結するから。それでまた次に進めるんだ」と言われたのをよく憶えている。このデモテープ三作品もまた、惣一朗さんの並々ならぬこだわりと、実験や挑戦、そして遊び心がつまった、輝かしい記録なのだ。リスナーを代表して、この新しい発見に感謝。
「最後にひとつ、言わせてもらえるとすれば、センスってセンスアップしてくものと、ドレスダウンしていくものと両方あって、一般的に言えば、センスアップしていくものに光が当たるじゃない。で、ドレスダウンしていくものに対してはダサいとなる。『クワイエット・コーナー』(監修:山本勇樹)という良書は光の部分にフォーカスが当たってるよね。常にセンスアップされたものを、そこからどう展開していくのかっていう。そうじゃない影の部分を、どうやって広げていくのかが、次のゲームだと思う。だから、センスに対しての光の当て方と、その光の落とし方っていうのかな。それがモノ作りの、一番、面白いところだと僕は思っているんだよね」
写真/谷川慶典 撮影場所/epulor