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【アーカイブス#11】歌うのに遅すぎるということはない。ヴァシュティ・バニヤンの場合。 *2010年3月

 3月16日の夜、六本木の東京ミッドタウンにある「ビルボードライブ東京」にヴァシュティ・バニヤン(Vashti Bunyan)のライブを見に行った。これがほんとうに素敵だった。彼女は2007年3月に初来日公演を行っているが、残念ながらぼくはその時には見に行くことができず、ようやく今回彼女のライブを初体験することができた。それが期待していた以上に素晴らしく、どうしてもここで取り上げたくなってしまった。

 何が素晴らしかったのかと言えば、何よりもステージの上のヴァシュティが、歌うことの喜びに輝いていたからだ。彼女のこれまでのアルバムを聴いて、もしかしてそのステージはかしこまって、緊張感に満ちているのではないかと思ったりもしていたのだが、とんでもない、ステージ上のヴァシュティはとてもリラックスしていて、歌う時以外はいつもにこにこし、歌う前には必ず、「この曲は新しい曲」、「この曲は昔の曲」と、曲の説明をし、三人の若いミュージシャンたちと一緒に、気取ったり、かっこをつけたりすることなく、まったくの自然体で、いろんな歌を次々と15曲以上歌っていった。
 ヴァシュティの歌は明るく派手なものでは決してなく、どちらかと言えば静かで落ち着いたものが多いのだが、どの歌を歌っても彼女からは歌うのが楽しくてたまらない、歌うのが嬉しくてたまらない、そして自分が今いちばんやりたいのは歌うことだという、そんな熱い思いがしっかりと伝わって来た。そしてそのことにぼくは何よりも感動してしまったのだ。

 というのも、ヴァシュティ・バニヤンは、順風満帆でずっと歌い続け、歳を重ねて来たシンガーではないからだ。
 今から40年前、1970年に彼女は『Just Another Diamond Day』という素晴らしいアルバムを出しながら、すぐに音楽シーンから完全に姿を消してしまい、それから30年以上、まったく何の音沙汰もなかった。
 それが50代も半ばを過ぎてまた歌い始め、新しいアルバムも発表し、ライブ活動もやって、しかもイギリス本国だけでなく、アメリカやカナダ、そして日本にまで歌いに出かけている。そしてそのステージはといえば、ほんとうに歌うことの喜びに満ち溢れているのだ。
 たとえ30年以上のブランクがあろうと、そして50歳だろうが60歳だろうがいくつになろうと、歌への熱い思いと深い愛があれば、そして歌を作りたい、歌を歌いたいという強い気持ちがあれば、また歌うことができるということを、ヴァシュティはそのステージで見事に教えてくれていた。
 いくつになっても、どんな状況の中でも、歌を志そうとする者にとっては、ヴァシュティは希望の光となっているとぼくには思えた。

 ヴァシュティ・バニヤンは1945年にロンドンで生まれ、60年代初めは絵の勉強をしていたが、18歳の時にニューヨークに旅をして、ボブ・ディランの音楽と出会い、本格的に音楽の道に進むようになった。
 ロンドンに戻った彼女は、ローリング・ストーンズのマネージャーだったアンドリュー・ルーグ・オールダムに認められ、1965年にミック・ジャガーとキース・リチャーズの曲「Some Things Just Stick in Your Mind」で、デッカ・レコードからシングル・デビューした。その時の名前は、シンプルにヴァシュティだけで、B面には彼女のオリジナル曲「I Want to Be Alone」が収められた。
 翌年には二枚目のシングル「Train Song」も出て(ビルボードライブ東京のステージでも歌われた)、アンドリューのレーベル、イミディエイト・レコードでデビュー・アルバムのためのレコーディングも始められたが、そのテープは結局はお蔵入りとなってしまった(2007年に二枚組のアルバム『Some Things Just Stick In Your Mind』として、40年後に日の目を見た)。

 その後ヴァシュティはイングランドやスコットランドに放浪の旅に出かけ(当時のヒッピーの旅のようだった)、その旅の中でも歌を作り続け、1968年の終わりにブリティッシュ・フォーク・シーンの大物プロデューサー、ジョー・ボイドと出会ったことがきっかけとなって、フェアポート・コンベンションやインクレディブル・ストリングス・バンドのメンバーの助けを得て、旅の中で書き続けた曲をレコーディングしていった。そして1970年にフィリップス・レコードからリリースされたのが、『Just Another Diamond Day』という彼女のデビュー・アルバムだった。発売当時、日本のブリティッシュ・フォーク・ファンの間で話題となり、ぼくも耳を傾けていた。

 ウィキベディアによると、そのアルバムは好評だったもののほとんど売れず、それに失望してヴァシュティは音楽シーンから姿を消したと書かれている。しかし3月16日の「ビルボードライブ東京」でのライブの直前、ヴァシュティに対して行われたあるインタビューにぼくは立ち会うことができ(要するにアルバム・ジャケットにサインしてほしくてくっついて行ったのだが)、そこで彼女の口から聞いた話はちょっと違っていた。
 できばえに満足して発表した『Just Another Diamond Day』だったが、ある批評家に酷評され、それがあまりにもひどいレビューだったので、ヴァシュティはとても傷つき、歌うことをやめてしまったというか、もうそれ以上歌うことができなくなってしまったというのだ。
 ぼくはもちろんそのレビューは読んでいないが、しかし辛辣なレビューによって傷つく歌い手がいて、それが原因でその人が歌をやめてしまいたくなるというのはよくわかる。そんな弱気なことを、レビューになんか負けるな、と言う人もいるだろうが、真剣に歌を作り、歌っている者に取って、悪意に満ちていたり、頭ごなしに否定してかかったり、まったく見下したりしている文章は、ほんとうに深く傷つけられ、パワーもすっかり奪い取られてしまうのだ。

 しかも歌い手と同じ真剣さ、同じひたむきさで、自分の全存在をかけてライターがその文章を書いているならまだしも、往々にして歌い手や作り手を傷つける文章というのは、威張りくさって相手を見下していたり、面白半分で軽い気持ちで書かれていたりするものが多い。少なくとも、音楽について文章を書く人間は、自分が書く一言一言が、場合によっては歌い手の声を奪ってしまうことさえあるということを、心してほしいと思う。
 評論や批評、レビューというのは、それだけ重い仕事だし、だからこそ尊敬もされる素晴らしい仕事にもなりえるのだとぼくは思う。

 話が脱線してしまった。音楽シーンから姿を消したヴァシュティは、三人の子育てに専念し、いわゆる「主婦」として人生を過ごすようになり、30年間ギターにもまったく手を伸ばさなかったらしい。
 そんなヴァシュティをまた音楽の道に引き戻すきっかけとなったのは、60年代後半や70年代の初めのヴァシュティのことを憶えている古いファンではなく、彼女の子供の世代、あるいはそれよりももっと下の世代と言ってもいい、若い音楽ファン、新しい彼女のファンだった。そのことがぼくはすごく嬉しい。
 決して懐古的な感じではなく、新しい感覚でフォーク・ソングに耳を傾ける若者たちの間で、ヴァシュティ・バニヤンが1970年に発表した唯一のアルバム『Just Another Diamond Day』が話題を集めるようになり、一時は幻のアルバム、幻の名盤としてオークションで2000ドルの高値がつくようにまでなった。

 30年前に録音されたヴァシュティのアルバムに心を動かされた若いミュージシャンの一人が、アメリカのシンガー・ソングライター、デヴェンドラ・バーンハート(Devendra Banhart)だった。自分の音楽のこと、曲作りのことで悩み、落ち込んでいた彼は、アドバイスしてもらおうと、自分の心を虜にした素晴らしい作品を作ったヴァシュティに連絡をして来た。
 それで若い世代のミュージシャンの間で自分の30年前のアルバムが聞かれ、しかも高く評価されていることを知った彼女は、その事実に勇気づけられ、30年ぶりにまた歌いたい気持ちになり、再びギターに手を伸ばし、曲を作り始めたのだ。
 そして50代半ばの彼女が結びついていったのは、デヴェンドラをはじめとして、ジョアンナ・ニューサム、ピアノ・マジック、アニマル・コレクティブ、アデム、Currituck Co.のケヴィン・ベイカー、エスパーズのオットー・ハウザー、マイス・パレードのアダム・ピアースといった、自分たちよりもずっと若い世代のイギリスやアメリカのミュージシャンばかりだった。
 ちなみに今回のビルボードライブ東京でのヴァシュティのライブで、彼女と一緒に演奏していたのは、グラスゴーのジョー・マンゴ(ピアノ/コンサーティナ/フルート/カリンバ)とガレス・ディクソン(ギター)、ロンドンのエマ・スミス(バイオリン)と、やはり若いミュージシャンばかりで、ジョーやガレスはそれぞれソロとしても活躍し、自分たちのアルバムも発表している。

 ビルボードライブ東京でのステージで、ヴァシュティは40年前のアルバム『Just Another Diamond Day』からの曲やもっと以前の曲、2005年に若い世代のミュージシャンたちと一緒に作ったアルバム『Lookaftering』からの曲、それにもっと最近に書いた曲などを、バランスよく取り上げ、うまく混ぜて歌っていったが、聞いていて40年前の曲と最近の曲との違和感がまったくなく、30年のブランクを経ても、ヴァシュティの音楽に対する思いに何の変化もなかったというか、歌い始めた頃と同じ姿勢、同じ志、同じ誠実さ、同じ情熱で、64歳の今、ヴァシュティは音楽と向き合っていることをしっかりと思い知らされた。ほんとうにすごいミュージシャンだと思う。

 アルバム『Lookaftering』を初めて聴いた時、その歌詞を聞いて強烈な印象を受けたのが「Wayward」という曲で、この曲はビルボードライブ東京のライブでも最後に歌われた。「自分は家を守って、炊事や洗濯ばかりして過ごす人間ではなく、ブーツを埃まみれにしながら、気ままに果てしない道を旅する人間になりたかった」と、積年の怨念が込められたとも思える、とんでもなく重く鋭いメッセージを、彼女は30数年ぶりに作った穏やかな曲の中に込めている。
 そしてヴァシュティ・バニヤンは今、いろんなことから解放され、自分の大好きな歌とまた結びついて、ほんとうに楽しそうに、ほんとうにしあわせそうに、ギターを抱えて果てしない歌の旅を続けている。
 歌への熱い思い、強い愛がありさえすれば、いくつになっても、一度やめたとしても、誰でも歌うことができる、そんないちばん大切なことを、ヴァシュティは優しい音楽にのせて、はっきりとぼくに伝えてくれたのだ。

 最後に、ぼくがヴァシュティ・バニヤンのステージを初めて見て、その感激に浸っていた時、ヴァシュティと同じ世代で(彼女より二つ年上)、同じ頃から歌い始めたイギリスの女性シンガー、レスリー・ダンカン(Lesley Duncan)が、3月12日にこの世を去った知らせが届いた。レスリーの活動の絶頂期は70年代で、80年代半ばからはまったく新しい歌声を届けてくれることはなかったが、今歌うのが楽しくて楽しくてたまらないというヴァシュティを目にした直後に、この悲報を聞かなければならなかったのは、ほんとうにつらかった。
 レスリー・ダンカンの冥福を祈り、素晴らしい歌をいっぱい届けてくれたことに、心から感謝したい。ありがとう、レスリー・ダンカン。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html


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