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【アーカイブス#46】エリック・アンダースン70歳のバースディ・パーティ *2013年3月


 ぼくが最も敬愛するシンガー・ソングライターの一人、エリック・アンダースンが去年の秋に7年ぶりに日本にやって来て、9月3日と4日の二日間、東京六本木のビルボード・ライブ東京で行なった演奏のことについては、このウェブ・マガジンの9月末の連載記事で書かせてもらった。そこでぼくはエリックのライブについて書き、最後に2013年2月14日の聖バレンタイン・ディでちょうど70歳になるエリック本人から、バースディ・パーティを開くからゴローもぜひおいでよと誘われたということも書いた。いちばん大好きな、ぼくが敬愛してやまないシンガー・ソングライターからバースディ・パーティにおいでよと直接誘われたのだ。ぼくは「うわっ、すごい!!」とびっくりし、誘われたことに興奮もしながら、深いことは何も考えず、「すごい。嬉しいです。行きます!!」と即答してしまった。

 エリック・アンダースンの70歳のバースディ・パーティは、彼が今住んでいる家の近くにある古い大きな農家を借り切って、友だちや子供たちをたくさん呼んで盛大に行なわれることになっていた。そして、東京に住むぼくにとって大きな問題は、彼が今住んでいるのがオランダのほぼ中心に位置するユトレヒトの近くの街だということだった。「バースディ・パーティにおいでよ」、「はい、行きます」はいいけれど、ぼくはエリックのバースディ・パーティに参加するために、東京からはるばるオランダまで行かなければならないのだ。
 飛行機代にホテル代、その他諸々、いくら倹約したとしてもその費用はかなりの額になってしまうことは間違いない。しかし、しかしだ、ぼくのいちばん好きな、いちばん影響を受けたシンガー・ソングライターからお誘いを受けたのだ。こんなチャンスは二度とないだろう。まさに千載一遇のチャンスだ。いくら自分の懐事情が厳しくても、これは借金してでも、ローンを組んででも、何としても行かなければならないだろう。行かなかったら一生後悔する。

 かくしてぼくはとにかくオランダに行こう、何が何でも行こう、絶対に行こうと決心し、「お金がないから無理だろう」、「たった数時間のパーティのためだけにオランダまで行くなんて」という悪魔の囁きを断ち切り、心変わりしないうちに退路を断ち切ろうと、まずは払い戻しや変更不可能の航空券の格安チケットを手に入れてしまうことにした。
 東京からオランダのアムステルダムまでの便はいろいろあって、もちろんほとんどが北回りで、イスタンブール経由のトルコ航空便もあったが、2月のその時期の最安値はどのエアライン、どのルートを使ってもだいたい10万円くらいで、直行便を使うと、それよりも2万か3万円高くなってしまう。たった2、3万と言われるかもしれないが、この旅は快適さよりも経済性を優先しなければならない。
 結局ぼくは、SAS、スカンジナビア航空の成田とコペンハーゲン、コペンハーゲンとアムステルダムの便の往復チケットを100880円で9月21日に買い求め、もう行くしかないという状況に自分を追い込んでしまった(確かめてみると便の変更は不可能だが出発前なら払い戻しが可能なチケットだった。でも払い戻しなんて絶対にしないぞ。もう決めたのだから)。そしてエリック本人にも「ほんとうにバースディ・パーティに行きますよ」とメールを送った。

 11月の後半にはエリックからバースディ・パーティの招待状のファイルが送られて来て、その全貌が明らかになった。招待状のファイルは全部で三つで、まずは赤ん坊の頃のエリックと3歳か4歳くらいのセーラー服を着たエリックの写真に「70」とだけ書かれている表紙。それからは今のエリックの写真の横に、日時や場所の詳細と共に、「2013年2月16日土曜日に開かれるわたしの70歳のパースディ・パーティにご参加いただけるよう、真心を込めてあなたをご招待します」と書かれている二枚目。そして三枚目は8歳か9歳ぐらいのメキシカン・カウボーイ(!?)のようなエリックの写真の横にパーティ会場の近くにある三つのホテルの情報やホテルやパーティ会場への車でのアクセスの方法が詳しく書かれていた。一気に現実味を帯びて来た。もう引き返せない。

 エリックの70歳のバースディ・パーティは2月16日の夜8時頃から深夜まで開かれるからといって、もちろん前日の2月15日にオランダに着いて、翌日に17日に帰るというわけにはいかない。はるばるオランダまで行くのだ。目的はエリックのパーティだけだが、トンボ帰りというのはもったいない。
 ぼくが購入したSASのチケットは2月14日12時30分成田発、コペンハーゲン乗り換え同日19 時35分アムステルダム、スキポール空港着、2月21日10時25分スキポール発、コペンハーゲン乗り換え22日10時40分成田着で、オランダにはほぼ一週間滞在できるようにした。到着した夜はアムステルダム駅近くの安いホテル、パーティの前日15日からパーティの翌日17日まではエリックが教えてくれたパーティ会場近くのホテル、そして18日から20日まではまたアムステルダムに戻って美術館などの近くにある比較的安いホテルをそれぞれ予約した。準備万端、後はもう行くだけだ。もう引き返さない。

 エリックにオランダまでおいでよと誘われてから5か月半。ついにその時が来た。予定どおりぼくは2月14日の夜にアムステルダムのスキポール空港に到着し、その夜はアムステルダム中央駅近くのホテルに泊って、翌15日にアムステルダム中央駅から快速列車のインターシティに乗ってユトレヒトまで行き、そこで列車を乗り換えてエリックが住む街の駅に辿り着いた。駅からはタクシーでパーティの前後3日間宿泊する国立公園や自然環境保護区のそば、森の中のホテル・ベルグス・ボッセンに向かった。ボッセンとはオランダ語で森のことだ。ほんとうにまわりには森以外何もないところだ。
 このホテルにはぼくだけでなく、ほかにもエリックのバースディ・パーティに参加する人たちが何組も宿泊していて、16日の夜8時にホテルのロビーでみんなで待ち合わせ、エリックが差し向けてくれたバンに乗ってパーティ会場に向かった。バンに乗ったのは、ドイツのケルンからやって来た人たち、ベルギーのヘントからやって来た人たち、イタリアのモデナからやって来た人などで、ぼくがこのパーティのためだけに東京からやって来たことを知って、みんなとてもびっくりしていた。

 8時過ぎにこれまた森の中にある大きな農家のパーティ会場に着くと、中はすでに人がいっぱいで、すぐにエリックがぼくを見つけて思いきりハグしてくれ、「遠くからよく来てくれた、お腹は空いていないか、自慢のスープを飲んでくれ、お酒はどう、いつでも声をかけてね、孤独になったりしないでね」と、あれやこれやととんでもなく気を遣ってくれた。
 人、人、人で満員のパーティ会場では、エリックの知り合いの5、6人編成のバンドがずっとカントリーやアイリッシュ・ミュージックを演奏していて、ぼくが赤ワインを片手に部屋をうろうろしていると、たったひとりの東洋人が珍しいのか、みんな声をかけてきてくれる。エリックと一緒に二度日本にやって来たシンガー・ソングライターで今の奥さんのインゲ・アンダースンやエリックのアルバムのブロデューサーのスティーブ・アダボなど、ぼくが以前に会ってすでに知っている人たちもいる。
 そのうち「あなたがゴローね、ダディからいつも話を聞いているわ」と長身でスレンダー、落ち着いて穏やかなとても素敵な女性に声をかけられた。エリックの最初の奥さん、デボラ・グリーンとの間のお嬢さんのサリではないか。ぼくは昔、多分1980年代の終り頃、ロサンジェルスの大学の野外ステージでエリックが歌った時、「ブルー・リバー」で一緒に歌っていた彼女を見ている。『ブルー・リバー』のアルバムに、生まれて来る子供を待ちわびる「ウィンド・アンド・サンド」という名曲があるが、そこで歌われているのがサリだ。

 さらにパーティ会場をうろうろしていると、エリックの前の奥さんのノルウェー人の画家、ウニ・アスケランドがいるし、エリックとウニの間に生まれた三人のお嬢さんたちと一人の息子さんもいた。エリックのその子供たちともいろんな話をすることができた。
 最初の奥さんのデボラはいなかったが、彼女との間のハワイ在住の娘のサリがやって来たり、前の奥さんのウニとその子供たちも全員参加し、みんなに70歳の誕生日をお祝いされ、「あなたは最高の父親です」、「心から愛しています」と言われて、素敵なプレゼントももらえるなんて、ほんとうにエリックは果報者だ。いや、彼が素晴らしい人だからこそ、こうしてみんな集まってくれたのだろう。
 パーティの中でのウニのスピーチを聞くと、彼女たちを呼んでくれたのは今の奥さんのインゲで、もちろんエリックの人生にはさまざまな愛のドラマがあったのだろうが、恩讐を超えて妻たちや子供たちみんなが笑顔で集っている場面に立ち会えるなんて、それだけでもぼくは東京からはるばる来た甲斐があったと、自分の愛のドラマを振り返りつつ、しみじみと感慨にふけるのであった。

 エリックの70歳のパースディ・パーティについて、場所など具体的なことを敢えて書かないのは、エリックから「これはプライベートなパーティだから、写真や映像をネットにアップしたりしないでね」と言われたからだ。でも奥さんたちや子供たちのことをちょっとだけ書いてもエリックは許してくれることだろう。
 パーティの後半では、サリやエリックとウニとの間の娘のシグナなどが次々と自分たちの歌を演奏して行き、最後にはエリックが登場して「まだ誰も聞いたことがないだろうけど」と言って、今年の春にリリースされる予定のアルバムの中の曲をサリやインゲと一緒に歌った。そのアルバムは『Dance of Love and Death』というタイトルで、スティーブ・アダボのプロデュースでニューヨークで録音され、インゲや昨年9月の東京公演にも一緒にやって来たイタリア人バイオリニストのミケーレ・ガジッチ(もちろん彼もパーティに来ていた)、レニー・ケイやラリー・キャンベルなどがレコーディングに参加している。リリースがとても楽しみだ。

 そしてパーティのほとんど最後にエリックが「いちばん遠く、東京からこのパーティに来てくれた友だちだ」とぼくを呼び出してくれ、エリックのギターに合わせて二人で「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」をエリックと二人交互に英語と日本語で歌い、その後はインゲやサリやエリックとウニの娘たち、まさにエリック・ファミリーにこのぼくも加えてもらって、「Close The Door Lightly When You Go」を一緒に歌うこともできた。
 歌った後で、エリックの子供たちも含めてみんなからぼくの日本語の「Come To My Bedside」を、「よかった」、「心に響いた」、「いい声だ」と、誉めてもらい、「ほんとうに来てよかった」と、ぼくはしあわせで完全に舞い上がってしまった。
 パーティの翌々日にはエリックの家にも行って、おいしいワインとインゲとサリが一緒に作ったサラダとマッシュルームのクリーム・ソースのタリアテーレをごちそうになり、ものすごい蔵書や素敵な絵画、日本の美術品などがいっぱいあるエリックの離れの書斎にも案内してもらった。
 そして残り三日間のアムステルダムでは近代美術館や国立美術館もゆっくり見に行くことができ、確かに貧乏な今のぼくには莫大な飛行機代やホテル代の出費は清水の舞台から飛び降りるほど勇気のいることだったが、行ってよかった、ほんとうに行ってよかった、やっぱりチャンスは絶対に逃してはならないと、帰りの飛行機の中でかなりおいしくないエコノミーの機内食を食べながら、ぼくはこの喜びをじっくりと噛みしめるのであった。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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