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【アーカイブス#40】7年ぶりに日本に歌いにやって来たエリック・アンダースン *2012年9月

「ガスリーズ・チルドレン」という呼び方がある。1960 年代前半から半ばにかけて、アメリカでフォーク・ソングが盛り上がりを見せ始めた頃、自分で曲を書く若いフォーク・シンガーたちが次々と登場して来た。その多くがアメリカのフォーク・ソングの父と呼ばれるウディ・ガスリーの影響を強く受けて歌い始めたり、曲を作り始めたりしていたので、彼らのことは自然と「ガスリーズ・チルドレン」と呼ばれるようになった。
 その筆頭となるのがボブ・ディランで、ほかにもトム・パクストンやフィル・オクス、エリック・アンダースンやジャニス・イアンなど、ほんとうにたくさんのフォーク・シンガーたちが、「ガスリーズ・チルドレン」という呼び方をされていた。その中にはウディのほんとうの子供のアーロ・ガスリーもいたし、ほかの人たちよりも歳上で、実際にウディと一緒に旅をしたランブリン・ジャック・エリオットもいた。ジャックの場合は、「ガスリーズ・チルドレン」というよりも、ガスリーの弟分的存在なので、「ガスリーズ・チルドレン」にとっては、おじさんにあたるのかもしれない。それに 8 歳ほど歳下とはいえ、ピート・シーガーもウディと共に活動し、やはり今のアメリカのフォーク・ソングの父と呼べる存在で、後から来たフォーク・シンガーたちに多大な影響を与えているので、「ガスリーズ・チルドレン」は同時に「シーガーズ・チルドレン」でもあるとぼくは思うのだが、どういうわけかその呼び方はあまりされないようだ。

 それはさておき、この「ガスリーズ・チルドレン」の中で、ぼくが最も心を奪われ、影響も受けたのが、エリック・アンダースンだ。日本では 1972 年の名盤『ブルー・リバー/Blue River』で一気に人気が出て、70 年代前半に輩出したシンガー・ソングライターの一人として捉えられることも多いようだが、エリックの本格的デビューは 1960 年代前半のことで、デビュー・アルバムの『Today Is The Highway』は 1965 年に発表されている。
 そのデビュー・アルバムの内容はまさに「ガスリーズ・チルドレン」の正統派の作品と言えるもので、旅を続け、社会の動きを見つめ、甘い恋にも落ちる、60 年代のフォーク・シンガーならではの珠玉の歌が収められていた。エリックのこのデビュー・アルバムは、日本でも当時ヴァンガード・レコードをディストリビュートしていたキング・レコードから、確か『フォーク・ソングの貴公子、エリック・アンデルセン』といったようなすごい邦題で発売され、高校生のぼくは発売と同時にそのLPレコードを手に入れ、たちまちのうちにエリック・アンダースンの歌や人物の虜となり、その中で歌われていた「Come To My Bedside」や「Time For My Returning」といったラブ・ソングを日本語に訳して、すぐに歌い始めた。

 その後 45 年間、ぼくは彼の新しいアルバムが発売されるたび、一枚も欠かすことなく手に入れて耳を傾け続け、今も変わることなく彼の忠実なファンというか、信奉者であり続けている。
 エリック・アンダースンは日本にも何度も歌いに来ていて、最初はトムズ・キャビン・プロダクションが招聘した 1976 年のことだったと思うが、その後 1977 年のローリング・ココナッツ・レビューに参加したり、ロック・バンドと一緒にやって来たり、ザ・バンドのリック・ダンコやガース・ハドスンと一緒に来たり、2005 年の埼玉県狭山市のハイド・パーク・フェスティバル参加も含めた長期ツアーがあったりと、これまでに 5、6 回はやって来ているのではないかと思う(正確なことがわかったら、追ってアップデートします)。
 そして嬉しいことに、この 7 月の中頃のことだったか、またもやエリック・アンダースンがやって来るというニュースが 、晴天の霹靂のごとくいきなり伝わって来た。しかも今回の来日公演は、最初からほとんどずっとエリックを日本に呼び続けている新旧(一度なくなったので)トムズ・キャビン・プロダクションの麻田浩さんではなく、六本木の東京ミッドタウンにある超お洒落でゴージャスなビルボード・ライブ東京での公演ではないか。
 ぼくの中ではエリック・アンダースンは今も変わることなくフォーク・シンガーであり続けているので、そんな瀟洒なところでエリックのライブを聞くとは、ちょっと不安というか場違いな気がしないこともないが、どんな会場で歌おうとも、彼が日本に歌いに来てくれるというのなら、ぼくはたとえ火の中、水の中、どこへでも飛んで行く。

 今回のエリック・アンダースンの来日公演は東京だけで、ビルボード・ライブ東京で、9月 3 日と 5 日の二日間、それぞれの日が二回公演で、たった四回のライブしか行なわれない。残念なことにぼくは早くから 9 月 5 日は岡山で自分のライブの予定が入っていたので、行けるのは 3 日だけ。もちろん行くからには、7 時からの一回目と 9 時半からの二回目の両方のステージを見ないわけにはいかない。
 当日ビルボード・ライブ東京に行くまで、エリックがひとりで来るのか、誰かミュージシャンと一緒なのか、そしてどんな内容のライブになるのか、ぼくはまったくわかっていなかった。行ってみてわかったのは、エリックの今回のライブは、イタリア人のバイオリン・プレイヤー、ミケーレ・ガジッチ(Michele Gazich)とエリックの今の奥さんで( 今のというのが、いかにもエリックらしい)、2005 年の前回の日本ツアーの時も一緒にやって来たインゲ・アンダースン(Inge Andersen)との三人で演奏されるということだった。これは 2011 年にリリースされ、リリースと同時にすぐに手に入れ、何度も何度も耳を傾けている、エリックの最新アルバム、2010 年 3 月 25 日のドイツはケルンの Theater Der Keller でのライブの演奏を収録した『The Cologne Concert』とまったく同じ編成ではないか。このトリオでの演奏が、こんなにもすぐに生で見られるとは、嬉しいかぎりだ。
 そしてもうひとつ、これはライブに行く直前にわかったのだが、今年 2012 年は『ブルー・リバー』が 1972 年に発表されてからちょうど 40 周年になるので、エリックたちは今回のステージで『ブルー・リバー』のアルバムの収録曲を全曲演奏するということだった。これはとても珍しいというか、貴重というか、恐らくエリックにとっても初めてのことなのではないだろうか。そんなステージを見られるとは、エリックの大ファンであるだけでなく、『ブルー・リバー』は生涯聴いた中で最も好きなアルバムの一枚となっているぼくとしては、しあわせなかぎりだ。ほんとうに果報者だ。

 9 月 3 日夜 7 時からのエリック・アンダースンの一回目のステージは、最新ライブ・アルバムの『The Cologne Concert」にも収められている「Dance of Love and Death」で始まり、それから初期の歌の「Violet of Dawn」などへと続いて行った。ぼくはビルボード・ライブ東京のメニューの中でいちばん安い、ぞれでもぼくにとっては高い赤ワインをカラフェで頼み、4 種類のトッピングがアレンジされたピザも注文して、エリックたちの演奏を見つめ、耳を傾けた。
 7 年ぶりに生で聞くエリックの歌声はより低くなって、深みと渋さを増している。そして4 曲目の「Florentine」から『ブルー・リバー』発表 40 周年記念のアルバム全曲生演奏が始まった。「Sheila」からデヴィット・ウィッフェンのカバー曲「More Often Than Not」へと続き、それからエリックはギブソンのギターを置いてピアノへと向かい、「Wind And Sand」を歌う。決して派手ではないが、エリックの歌とメロディにしっかりと寄り添うミケーレのバイオリン、息がぴったりとあったインゲのハーモニー・ヴォーカルで、『ブルー・リバー』の名曲の数々が新たなサウンド、新たなニュアンスで再現されて行く。「Wind And Sand」では、インゲがクロマチック・ハーモニカを吹き、その微妙に震えるさざ波のような響きが、子供の誕生を待つ親の期待と不安とをピアノを弾きながら歌うエリックの歌声を優しく包み込んでいた。
『ブルー・リバー』大会は、「Pearl's Good Time Blues」、「Faithful」、「Is It Really Love At All」、「Round The Bend」と続き、締め括りはやはり名曲中の名曲「Blue River」。エリックはどのライブでもこの曲を必ず歌っているのだろうが、40 年間歌い続けられ、歌い込まれた重みというか、深みがしっかりと伝わってくる。しかもエリック自身、年齢を重ねるに連れて、この曲に寄せる思いが変化しているようで、まだ 20 代だった頃の「Blue River」と、70 歳を半年後に控えた今の「Blue River」との大きな違いも感じ取ることができた。
『ブルー・リバー』全曲生演奏を終えた後、エリックは初期の歌、「Close The Door Lightly When You Go」で一回目のステージを締め括り、アンコールに応えて、やはり初期の歌でジュディ・コリンズなど多くのフォーク・シンガーに歌われた、1960 年代の公民権運動の活動家の歌「Thirsty Boots」を歌ってくれた。
 ぼくは最前列のテーブルに座って、エリックたちの演奏を楽しんでいたのだが、かぶりつきで見ているぼくにエリックが気づき、「Goro, Stand up!」と言って、「自分の歌を日本語で歌ってくれている人物だ」と、ぼくのことを客席のみんなに紹介してくれた。
 一回目のステージが終わって楽屋にエリックを訪ねると、ハグしてくれ、楽屋にある飲み物を指差し、「何を飲んでもいいよ」と言ってくれる。そしてバイオリニストのミケーレにぼくのことを紹介してくれた。インゲとは 7 年前にエリックと来日した時にも会っていて、一緒に食事に行ったりしているのだが、来日したばかりで疲れていたのか、彼女とは挨拶を交わしただけで終わってしまった。楽屋にはエリックとは大の親友の翻訳家のムロケンこと室矢憲治さんもいた。
 インゲはソロ・アルバム『Fallen Angel』を発表したばかりで、「すごくいいよ。後であげるから」とエリックが言ってくれた。だから会場で販売していたインゲの CD をぼくは買わなかったのだが、二回目のステージが終わった後、エリックはそのことをすっかり忘れてしまっていて、結局はエリックたちが帰ってしまった後で、アマゾンで CD を注文する羽目になってしまった。その代わりと言うのも変だが、ミケーレが自分のソロ・アルバムの『L'Imperdonabile』をぼくにプレゼントしてくれた。これがミケーレの歌とバイオリンがたっぷり味わえる、どこかイタリアのわらべ歌のようなほのぼのとした世界で、イタリア語で歌われているのだが、ブックレットにはエリックによる英訳もついていて、それを読みながらぼくは何度も耳を傾けている。

 9 月 3 日のビルボード・ライブ東京での 9 時半からのエリックの二回目のステージは、「Moonchild River Song」で始まり、4 曲目からはやはり『ブルー・リバー』大会となって、締め括りの曲は一回目とは違って、「Woman, She Was Gentle」だった。エリックたちは新宿のホテルに泊まっていて、ビルボード・ライブ東京が用意した送迎バスにムロケンとぼくもちゃっかりと便乗させてもらった。そしてホテルに到着し、もう 12
時を回っていたのだが、みんなで一緒に飲もうということになった。そこでエリックとミケーレ、ムロケンとぼくの 4 人で、最初はホテルのラウンジで飲もうとしたのだが、何だか落ち着かないし、値段も高いということで、ホテルを出てぶらぶらと歩き、近くにあったファミリー・レストランのデニーズに入って、そこで飲んだり食べたりしながら、いろんな話をした。
 エリックは来年の 2 月 14 日の聖バレンタイン・ディでちょうど 70 歳になる。彼が今住んでいるアムステルダム郊外で、大きな古い家を借りて、子供たちや友だちを呼んで盛大なバースディ・パーティーを開くことになっていて、「ゴローもぜひおいでよ」と誘ってくれた。アムステルダムまでは遠いし、飛行機代も大変だが、ぼくのいちばん好きな「ガスリーズ・チルドレン」のフォーク・シンガーに直接お誘いいただいたのだ。こんなチャンスはもう二度とないだろう。ぼくは自分の懐事情をいろいろとチェックしながら、行くことを今真剣に考えている。
 もし来年 2 月のエリックのバースディ・パーティーに行けたとしたら、去年の夏のピート・シーガー訪問に続いて、エリック・アンダースン訪問も果たせることになる。ピートとエリックは、ぼくが最も影響を受け、最も敬愛している二人のフォーク・シンガーだ。その二人のもとを訪ね、一緒に時間を過ごせることができるなんて、これはもうぼくの夢がすべて叶ってしまうということではないか。先の楽しみがすっかりなくなってしまうようで、何だかもったいないようにも思うが、こんな千載一遇のチャンスは絶対に逃すわけにはいかない。
 さてと来年 2 月のアムステルダム行きのいちばん安い飛行機のチケットはいったいいくらぐらいなのだろうか。

中川五郎(なかがわ・ごろう)
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。
70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動も始める。90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。
最新アルバムは2017年の『どうぞ裸になって下さい』(コスモス・レコード)。著書にエッセイ集『七十年目の風に吹かれ』(平凡社)、小説『渋谷公園通り』、『ロメオ塾』、訳書にブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ボブ・ディラン全詩集』などがある。
1990年代の半ば頃から、活動の中心を歌うことに戻し、新しい曲を作りつつ、日本各地でライブを行なっている。

中川五郎HP
https://goronakagawa.com/index.html

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