【読書記録】奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

奥野克己,2018年,『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』亜紀書房。

本書は文化人類学者である著者がマレーシアはボルネオ島にあるサラワク州に住む「プナン」と呼ばれる人々と共に生活し、そこで生じた現代社会との違和感から新たな生き方の価値観を見出そうとするものである。

現代の日本を生きている我々からすると非常にユニークで相容れないととれる生き方をしているプナン。その様子がしばしばおどけた語り口で綴られており、文化人類学になじみのない人でも読みやすい本である。

筆者はプナンとの生活の中で彼らが「ありがとう」「ごめんなさい」を言わないこと(そもそも、そういう概念がないこと)、財の私有を善しとしないこと、反省をしないことに違和感を覚え、またそこに新たな価値観、「新たな生の可能性」を認める。

例えば、プナンの青年が他人に対して盗みを犯すと、会合により一時はその青年は咎められるが、彼は「反省」させられることはない。代わりに彼の周りの人々が、盗まれないように気を付けることに決まり、会合は解散する。盗みの責任が青年という個人ではなく、あたかも集団に帰着してしまったかのようである。

筆者はここで、このプナンの習慣とは対極にあるともとれる日本のある文化を顧みる。「謝罪会見」である。謝罪会見では、例えば、ある部署の起こした不祥事に対して、その会社の代表が出てきて「謝罪」をする。これは集団に発生した責任を個人に帰着させる文化ととることができる。
筆者は問う。むしろ、我々の反省が「行き過ぎ」ているのではないか?そうして、このように「現代日本の茶飯事であるために疑ってもみることがない事柄」の外側に出て、俯瞰で眺めるきっかけを森の民は示していると主張する。

調査地に赴き、現地の社会に入り込み、現地の言語で話し、現地の言語で思考する。そこからさらに世界を顧みる。眺める。そうすると、ニーチェの云う「「大いなる正午」に出くわす経験」をすることがあると筆者は言う。「大いなる正午」とは、「真上から強烈な光に照らされて影の部分がない、善悪がない」状態のことである。つまり、全く新しい、ともすると理解不能な世界に触れ、自分の中の価値観が崩れることである。筆者の経験したこの現象は、フィールドワークの好例と言える。文化人類学の醍醐味である。