見出し画像

秋野深 「この森と町のゆくえ」【森町】(MAWまとめ)

カバー写真「Stream & Life」は森町滞在中に葛布川にて撮影

私自身は、静岡県森町でのマイクロ・アート・ワーケーションの1週間を、今後の活動のための大切な下見と情報収集と位置づけていた。
そこには、必ずしも写真家としての具体的な撮影地探しに限らず、これまで各地で参画してきた広い意味での地域活性化事業を考える上でのヒントになるようなものに数多く触れる機会、地域の方々との交流を通しての情報収集も含まれる。
一週間という滞在期間はやはり短く、できることは限られるものの、終了直後の現段階でも、すでに思いもかけない方向への今後の活動の広がりが見え始めており、通常の私個人の撮影活動とは違う滞在の意義を実感している。

このまとめのnoteでは、今後の自分の活動のための備忘録と、毎日のnoteの記事には時間的文量的に書けなかったこと、滞在期間を終えて改めて思うことを中心に書くことにしたい。

(1)7日間の滞在手記

【森町1日目】 「ひかえめな魅力」
【森町2日目】 「交通の要衝という価値は永遠か」
【森町3日目】 「ドローンと共に森の奥へ」
【森町4日目】 「私の小さな挑戦」
【森町5日目】 「森と町と太田川」
【森町6日目】 「塩の道をゆく」
【森町7日目】 「二歩目を踏み出す行動力」


(2)滞在中の訪問地と活動

●ホスト「森と町づくりの会」のご案内で
小國神社、みもろ焼き陶房、旧アマノ・レコード見学(一般社団法人モリマチリノベーションによりゲストハウスに改装中)、歴史民俗資料館、静邨陶房、大久保の立体集落、曲尾の清水、重要文化財・友田家住宅、金剛院

●森町観光ボランティアガイドの会の副会長のご案内で
大洞院、森の石松の墓、次郎柿原木、森川橋、本町の町並み、三島神社、天宮神社、神宮寺

●地元イベント、活動への参加や見学
森町体験の里・アクティ森にて紙漉き、陶芸体験
高橋農園・茶畑見学、横山家水田見学(関西学院大学大学院からの研究者の方の調査に同行)
地元トウモロコシ農家の新商品検討会を見学

●個人で
吉川渓谷、椋地(むくろじ)川の渓流、タイラ沢の大滝、杉沢の大滝、葛布の滝、
かわせみ湖(太田川ダム)、彩り岬、
半夏生の小径、門田の集落、
香勝寺、極楽寺、真田城跡、遍照寺、
戦国夢街道・塩の道(鵜殿渕~石張り歩道~八幡神社~田能集落~浜松市天竜区春野町・瑞雲院)、
城下の町並み(秋葉山常夜灯、延城橋)、太田川桜堤

(3)ホテルも旅館もない森町にあるもの

滞在前に森町のことで情報収集を始め、ホストの「森と町づくりの会」の方との事前のやりとりが進む中で、何よりも驚かされたのは、「森町にはホテルや旅館が一軒もない」ということだった。
おそらくそれだけを聞けば、多くの方は「相当な山奥で、自治体内に旅行者が訪れるようなところが本当に全くないところなのでは」と想像するだろう。確かにそれならば、納得できなくもない。
けれど、私が「ホテルや旅館が一軒もない」という事実に驚愕したのは、森町は「遠州の小京都」と名乗っている上、そもそも東海道、信州街道が交わる交通の要衝で宿場町として栄えてきた歴史があるからでもあった。
かつての宿場町ならばもちろん旅籠が立ち並ぶ通りがあっただろうし、今の町の規模は別にしても、そうした通りには今も旅館が残っていたりする古い町は全国的にもあるだろう。

私自身は自分の国内での撮影では、車中泊やテント泊で済ませることが多く、ホテルや旅館を利用する機会は多くはないのだけれど、温泉地のようなところは除いたとしても、どうしてこんなところに、と思うようなところに小規模のホテルや旅館を見かける機会はどこに行っても本当に多い。
それだけに、森町にホテルや旅館がないという事実は驚きだったのである。
何か特別な理由があってホテルや旅館が一軒もないのか・・そんな思いもあって初日に町長にお会いした際に直接うかがってみた。町長によると、何か特定の理由があるわけではなく、森町から街道の要衝としての重要性が失われていくに連れて、自然消滅的に宿泊施設は減っていったのだという。

今現在の森町にいまだホテルも旅館もない理由は、森町の地理的な位置も大きく関係しているだろうと思えた。
森町は、静岡の海に面した都市部ではないが、都市部からのアクセスに時間がかかる山間部でもない。その中間のまさに中山間部に位置する自治体だ。
静岡県西部の土地勘がない方も、下の白地図で森町の位置をご覧になればそれを想像していただけるだろう。

画像1

袋井市、掛川市といった静岡県の海側の市部からも非常に近く、森町を訪れるにあたって森町に宿泊していなくてもアクセス上の問題はなさそうなのである。
この「中山間部」という森町の特徴は、森町に近隣からの移住者が多いこととも大きく関係していそうだ。生活上不便なことが多い山奥でもなく、市部へのアクセスもよく、それでいて自然に囲まれている・・・。子育てや仕事の確保など、様々な条件を加味した時、森町の環境は魅力的なのかもしれない。

さらに、ホテルも旅館もないという事実に最初は驚きしかなかったが、個人的には旅行者の視点でも見方によってはそれをポジティブにも受け取れるような気がした。それは滞在前の印象でも、滞在を終えた今の実感としても、だ。
森町では、知名度的に小國神社の存在だけは別格だけれど、古い町並みが控えめに残る本町や城下のエリア周辺を、大型観光バスが大量に行き交う雰囲気はない。団体観光客が列を成して歩き回る雰囲気もない。遠州の小京都と呼ばれてはいるものの、よくありがちな和のテイストのお土産屋が軒を連ねる、いかにも観光地的な雰囲気もない。

画像9
画像8

今は、あえてそんな静かなところで過ごしてみたいと思う個人旅行者や少人数の旅行者は、多数派ではなくとも少なからずいそうな気がしている。そうした旅行者にとっては「ホテルも旅館もない」という事実は、かえって少し魅力的にうつるかもしれないと思ったりもする。

森町の町部エリアで、現在の唯一の宿泊施設は、築100年の町家を改装したゲストハウス「森と町」のみだ。私はこのマイクロ・アート・ワーケーションでの1週間、このゲストハウスでお世話になった。
その間、何組かの家族が、帰省や旅行での関東~関西エリアの移動途中の宿泊地としてゲストハウスに1泊しておられた。前日の夕方に到着して翌朝には出発。まさに現代の宿場町としての利用だ。
けれど時間がゆるすならば、もう1泊して、移動の疲れをしっかり癒す感覚で森町でゆっくり丸1日過ごしてみてはどうだろう。
観光地を立て続けに巡るような慌ただしい旅ではなく、静かに町の歴史に触れ、町の雰囲気に浸ってみる。旅するようで、少しだけ町に溶け込めるような、少しだけ暮らしているような気分を味わえる時間と空間。
そんな個人旅行者や少人数の旅行者には、ゲストハウスの雰囲気はぴったりなのかもしれない。自由に使える電動自転車を借りて、自然溢れるエリアへも楽に足を伸ばせる。自由に使えるキッチンで地元の食材を使って料理をしてみる。食べながらゲストハウスの前を行き交う町の人々の日常をぼんやりと眺める時間も、また素敵な旅の過ごし方ではないだろうか。

ホテルも旅館もない森町。でもほんの少し森町を味わうことができた、今の私の偽らざる実感はこんなふうに表現できそうだ。

森町は、ゲストハウスが似合う町。
森町は、静かに佇むように旅する人が似合う町。

画像2

 ゲストハウス「森と町」


(4)暮らしを創り続ける旅人へ

今回、森町でマイクロ・アート・ワーケーションのホストとしてお世話になった「森と町づくりの会」。
その中のメンバーの一人、横山春人さんは、森町に移住して約1年の方。
滞在最終日に、森町での生活を始めるまでの経緯についてお話をうかがうことができた。

何かを決断して行動を起こす時のことを、1歩目、そしてその後を2歩目という表現で、noteの7日目の記事で書いた。
その表現を使うならば、春人さんの森町への移住は、単なる1歩目ではなく、その前に何度も1歩目を踏み出し直した上での1歩目だと言えるのかもしれない。
あるいは、2歩目、3歩目と様々なところへ決断の上で歩を進め、もう何歩目だかわからないところで森町にたどり着いたという言い方もできるのかもしれない。

なにしろ、自分自身の理想の生き方、暮らしができそうな場を求めて動き始めてから森町での生活を始めるまでの期間は、実に5年にもなるのである。
さらにその間に候補地として探し歩いた自治体の数は90を超えるのだという。

ここで文章として私が記述するものは、もちろん彼の話のごく一部でしかない。
話をうかがいながらいつの間にか経過した3時間。
その間、彼はこれまでの経緯を懸命に振り返り、丁寧に言葉を選び続けてくれていた。
自分自身の過去の足跡と、その周辺にあったものを、もう一度確かめるように。

画像3

春人さんは大阪で生まれ育ち、高校卒業後、理学療法士の道をめざして岡山の大学へ進学する。
ところが、研修時の医療現場で仕事のあり方に疑問を感じたことから、このまま卒業して医療を一生の仕事とするべきか、一度立ち止まって考えてみようという思いが芽生えた。

そんな時、たまたま手にした本で、沖縄のとある牧場を知ることになる。
そこは牧場のほかに、実験的な農園やカフェやゲストハウスも併設されており、県外から様々な年齢層の人が集まって住み込みで働いている施設のようなところだった。

それまで旅の経験もあまりなく、沖縄に行ったこともなかった春人さんだったが、「面白そうだ」という思い1つで沖縄へ向かう。
しかし、その牧場でのわずか数日間の滞在が、彼のその後の人生を大きく左右することになる。

そこでは、自分で住む家を作ろうとする人、動物を飼いながらできるだけ自給自足をめざす人、牧場や農園やカフェやゲストハウスを手伝う人たちが短期長期でやってきては去っていく。
体験の全てが春人さんにとって大きなカルチャーショックであり、そこで活動する人々の姿は、「どこかに属して安定した給料をもらって生きていく」という彼のそれまでの「一般的な大人像」をいとも簡単に壊してくれるものだった。

大阪の実家へ戻った卒業間近の春人さんは、進路についてはまだ決めかねていたという。
なにしろ、就職のために理学療法士の国家資格も取得していたのである。
ところが突然、思いもしないところから背中を押されることになる。
春人さんの決断とは全く関係なく、たまたま同じタイミングで、当時50代前半でずっと役場勤めをしてきた彼の父が「これからはやりたいことをやって生きていく!」と仕事を突然辞めてしまったのだ。
家族全員が唖然とする中、春人さんにとってはそれが、「自分もこれからどうするかを本気で考えるきっかけ」になったそうだ。

決心を固めた春人さんは沖縄の牧場へ連絡をとる。
「牧場で働かせてください」

「今考えると、その電話が唯一の就職活動でしたね」
そう笑顔で語る彼の表情は、少し離れたところから当時の自分の無鉄砲さを懐かしむようでもあり、一方で、「だから今の自分がある」という確信めいた微笑みのようにも見えた。


なにはともあれ、春人さんの沖縄での暮らしが始まる。
大阪で不自由なく過ごしてきたために、最初は何もできない自分に無力感はあったものの、牧場での生活も半年ほどがたつと心境の変化が訪れる。

自分で動物の世話をして、自分で育てた野菜を食べる生活。それは、これまで味わったことのない幸福感のある毎日だった。
そして、こんなふうにして生きていけたら自分は幸せかも知れない・・・春人さんはそう思うようになった。
きっとそこで彼の中に、今現在まで続く「こうして生きていけたら」という精神面での礎と、「こうして生きていける」という暮らしのノウハウの礎が築かれていった時期なのだろう。

そうして無我夢中の沖縄での暮らしが約4年半。
大阪の実家のご家族の事情、牧場側の事情などいろいろなタイミングが重なって、そろそろ大阪に戻ろうかということになった。

春人さんの沖縄での暮らしも最後の数ヶ月になった頃、静岡市から一人の女性が牧場を訪れる。
後に結婚する真利さんである。

彼女は静岡駅前のホテルのフロントの仕事を辞め、数ヶ月限定で沖縄を旅していた。
そしていつか飲食関係の仕事をしてみたいという思いもあって、牧場施設に併設されているカフェで短期で働くことになった。
ホテルでの仕事は好きでやりがいもあったものの、建物の中で屋外の天気を知ることもなく一日中働き続ける環境を変えてみたい、という気持ちも芽生えていたそうだ。

沖縄の牧場で出会った、大阪出身の春人さんと静岡出身の真利さん。
自然の中で生きていけたら・・・そう思う2人が意気投合するのにそれほど時間はかからなかったという。

まずは、大阪府の北部(能勢町)に古民家と畑を見つけて、最初の移住生活をスタートした。
当面の現金収入は、沖縄で覚えた大工仕事をいかしてどうにかするしかなかった。
真利さんとの結婚については静岡市のご実家の許しがなかなかおりず、しばらくは大変だったようだ。

さらには、惹かれて住み始めた場所ではあったものの、冬は20cmほどの積雪もあり、沖縄との寒暖差は想像以上に辛いものだった。寒さに対する生活のノウハウも十分にないままだったようで、その頃の暮らしを振り返る春人さんの表情からも、当時の苦しさがうかがえた。

「暖かいところに住もう」

静岡市の真利さんの実家から結婚も許され、2人は新たにスタートを切ることになる。

晴れて結婚に至ったとはいえ、2年半の大阪府能勢町の生活の中で最後の1年は、次の移住地探しの期間だったいうから、どれほど気の休まらない時間だったことだろう。

次の移住地は、数多くの候補の中から広島県尾道市の向島(むかいしま)に決まった。

温暖な気候、穏やかな内海、白い砂浜・・・どこか沖縄を感じさせる雰囲気もあった。
ところが、向島で暮らすことは決めたものの、様々な条件やタイミングがなかなか合わず、島の中で仮住まいから仮住まいへの引越し続き。
理想だと思えた島で、理想に近い暮らしを実現できそうな土地はなかなか見つからなかった。

言葉にしてこうして時系列で書いていくだけだと、いろいろありながらもいつかたどり着く「終の棲家」に向かって進んでいるような感じになってしまうけれど、奥様が妊娠したのもこの時期だというから本当に大変な日々だったはずだ。
思い描いた、土地に根ざした暮らしがしたいのに、その場所探しをしながら仮住まいを続けているばかりで、いつまでたってもその場所が見つからない・・・。そのもどかしさは相当なものだったに違いない。
それでも毎日の暮らしはその場で当たり前に続けていかなくてはならない。
理想の場所なんてそもそも見つかるものなのか、いったいいつまでこんな毎日を続けるのか、と夫婦がぶつかることも想像に難くない。

やがて横山夫妻は、向島を出る決心をする。
きっかけは、西日本豪雨の被害。
島の中には水源がなく、2週間ほど断水の中での生活を余儀なくされた。

水が確保できない時の暮らしの厳しさを嫌というほど味わったため、次の移住先探しでは水にこだわった。

自然の中で自給自足的な暮らしをするのだという漠然とした願望だったものが、大阪、広島での経験を経て、自分たちにとって具体的でより切実な条件がはっきりしてきた、ということなのかもしれない。
その条件には新たに加わったものもあった。
それは、米作りができる土地。なおさら水の確保は必須の条件だ。


それにしても、お話をうかがっていて精神的に大変だったのではと想像するのは、大阪、広島それぞれの移住先での人間関係だ。
大阪でも広島でもそれぞれ2年半を暮らし、そのうちそれぞれ後半の1年は、「ここではないどこか」をひたすら探し続ける日々。
住み始めるときには、「ここで根を張るのだ」という気持ちで、きっと地元の多くの方にお世話になったことだろう。
それでも、「ここではない」と決断して、別の場所を探し始める。
お世話になった方が多いほど、心苦しさもさぞ強かったことだろう。

次の移住地探しで徹底して重視した「きれいな水が確保できて暖かいところ」・・・という条件を改めて考えたときに、奥様の出身地である静岡県が初めて候補にあがってきたのだという。
最初は大阪~広島の間あたりを考えていたものの、いつの間にか次の候補地探しは、東は静岡の伊豆半島、西は九州の佐賀県まで広がっていたというから、聞いているだけだと移住地探しなのか、あちこち旅をしている話なのかわからなくなってきてしまう。

静岡県に初めて目が向き、浜松市の中山間地区の引佐(いなさ)というところを訪れたことがきっかけで、2人はその近隣の森町を知ることになったそうだ。
春人さんは、いずれは大阪から両親を呼び寄せて生活すると決めていたこともあって、あまり山奥過ぎるところは避けたかった。
さらに、静岡県内の中山間地区なら、小さな子供を連れての奥様の静岡市の実家への帰省も容易だ。

そして森町で紹介されたのが、今現在、横山家が暮らしている土地だった。
森町の街中からは車で20分ほどの山の中。近くには川が流れる。
最終的に決めた今の土地を見た時、「今後きっと何年探してもこれ以上のところは見つからないかもしれない」という実感があったそうだ。

画像4

4歳になった和海(なごみ)ちゃんと御夫婦の3人での森町での暮らしは、ちょうど1年がたったところだ。
3人は今、築400年の古民家の隣の農機具小屋を改装して暮らしている。

1年たってまだお風呂が完成していないというから、まだまだ生活の土台を創っている真っ最中だ。
それでも、大阪と広島での5年間の経験は、心理的な準備としてとても大きいものだったと春人さんは感じている。
「もし初めての移住体験がこの森町の今の環境からのスタートだったら、とても無理だったはず」
そう実感を込めて語る彼の言葉は、裏を返せば「遠い遠い回り道だったようで、それでもその間の経験は今のために必要なものだったはず」という彼なりの思いの表れでもあるようだった。

画像5

今はまだほとんど手をつけるにいたっていない築400年の古民家で、真利さんはゆくゆくは小さなカフェか食堂をオープンしたいと考えている。
そして、大阪で暮らす春人さんの両親は、森町で共に暮らす日を楽しみにされているそうだ。

「ここがいよいよ、終の棲家になりそうですか。もう、探さなくてよさそうですか」

私の問いに、春人さんは、ゆっくりと腰を折るように、深々とお辞儀をするかのように、大きく大きくうなずいた。


話を終えた後も、こうしてこの文章を書いている今も、改めて私が思うのは、森町にたどり着くまでの5年間という途方もない時間だ。
途方もなく感じるのは、年月の長さそのものというより、その間の、立場があまりに定まらないことへの心理的負担だ。

冒頭に記した1歩目2歩目という表現を改めてここで使うならば、例えばこんなふうにも言えはしないだろうか。

こんな暮らしを実現するのだ、という気持ちで1歩目を踏み出そうとした。
ところが結果的には確かな1歩は踏み出せなかった。
どこかに確かな1歩を踏み出したいのだけれど、その1歩目を置く場所がどうしてもみつからない。
その間、もう片方の軸足でどうにか立ち続けているのだけれど、その軸足がそもそも不安定な状態にある。
1歩目をどこに踏み出すかの前に、軸足の心配をしなければいけないというジレンマに苛まれることもあったことだろう。
もう軸足が限界で、どうにも無理だと思う時期もきっとあったことだろう。
そうした時期が5年間というのが、私には途方もなく感じられるのである。


お話をうかがいなら、つくづく思ったことがある。
それは、横山一家は、自分たちの暮らしを創ることに人生を費やしている人たちなのだ、ということだ。
そしてそれは他の誰でもなく、自分たち自身で選んでそうしている。それが自分たちにとっての幸福だという確信を礎として。

だからなのだろう。ご本人たちにすれば「思い通りにはいかなかった過去の話」をしているにも関わらず、お二人の口から何かに対する不平や不満のようなニュアンスの言葉や、誰かを非難するような言葉は一言も出てこなかった。いろいろなことがあったとしても、それは全て自分が決断して選んだ結果なのだと受け止めている人にしかない潔さがそこにはあった。


正直に言ってしまうと、かつて私は、「自給自足」とか「自然とともにある暮らし」といった表現を好んで使う人たちを少し斜めにみていたことがある。
それは、「自給自足的」などではなく、本当に自給自足以外に選択肢がない人間の暮らしを目の当たりにしてからのことだ。
中国の最西端、パキスタンとの国境に近いパミール高原の標高3000mを超えるエリアで暮らす少数民族キルギス族の村。そしてミャンマーとの国境エリアのタイの山奥で暮らす少数民族カレン族の村。それぞれ5日間ほどの滞在だったが、そこで村人とともに過ごす機会があった。

そこで私が目の当たりにしたのは、ほんとうにお金をいくら持っていてもなんの意味もない世界だった。
金が存在しない世界には、まず職業が存在しないことをその時思い知らされた。
職業などという悠長なものにかまけている余裕も、そのための仕組みもどこにもないのである。
そうした環境では、人間の毎日の活動の大半は、自分の胃袋に入れるものを確保することに費やされる。家族でそのための作業を分担したりはするものの、やりがいも得手不得手も一切問われることはない。やる以外に本当に選択肢はないのである。大袈裟ではなくもう1つの選択肢は死しかない。
厳しい自然環境で人間が生きながらえることは容易ではなく、そこでは間違いなく自然は人間の敵であり、動物は人間の奴隷であった。

そしてそんな土地や暮らしを紹介する写真を展示すると、背景に写っている自然が雄大で美しいからか、往々にして直情的にこんな反応が集まった。
「ほんとうの心の豊かさとはこうした暮らしにこそあるのですよね!」
「素晴らしいですね!これが人間の本来の生き方ですよね!」

私自身が現場で過ごした印象や垣間見た現実を正直に語ろうとすればするほど、「壮絶」とか「殺伐」といった表現を使わざるをえず、そうすると感動していた人たちが今度は「そんな話は聞きたくなかった。心洗われる美しい話だけをしてくれればいいのに」と言わんばかりの表情に変わるのだった。

そんな過去の経験がいつも頭の片隅にある私だけれど、横山夫妻の話には、自分で言うのも変だがとても素直な好奇心を向けることができた。
それは何より、「こうして生きていくのが自分たちの幸せなので」というスタンスがはっきりとお二人の中にあるからだ。
肩肘張って何かと隔絶して生きていこうということではなく、あまのじゃく的な生き方に必死に価値を見出そうとしているわけでもない。
等身大の自分たちの幸福を創る環境を探してきて、今もそれを模索し創り続けている。

考えてもみれば、今回うかがったのは、森町へたどり着くまでの暮らし創りの旅の話のようなものだ。けれど、森町で暮らす横山家の旅はある意味まだ続いていて、きっと終わりはないのである。横山家にとって暮らしとは、その暮らしを創り続けていく行為そのものでもあるのだから。

春人さんは、今回のMAWのnoteの記事に私がこうして彼のこれまでの話を掲載することを快諾してくれた。3時間にわたるお話の中で、1時間ほど真利さんにも加わっていただいた。
お忙しい日常の中で快く時間をさいてくださったことに何より感謝申し上げたい。


「自分たちのこれまでを振り返る貴重な機会になりました」
春人さんは最後にそう話してくれた。

ここに記した文章の全ては、己の暮らしを創り続ける旅人への、今の私にできる感謝の印であり、私なりの精一杯のエールである。

画像6

「できるだけ土地に負担をかけない方法で」と、機械を入れずに稲作に挑戦している(横山家前の水田にて)



(5)MAWという、この不思議な1週間

私にとって今回のMAW(マイクロ・アート・ワーケーション)は2度目になる。しかも1度目(小山町)はMAW2021の年度最終週の2022年3月末。そして今回は期間スタート直後の8月上旬。いざ森町での滞在時期が迫って来ると、その間が4ヶ月というのはとても短く、そのことで難しさを感じていたのも事実だ。
果たして前回のような新鮮な気持ちで1週間を過ごせるだろうか。もちろん過ごす地域も出会う人も当たり前に違う。全く別の体験なのだと頭ではわかっている。けれど、前回MAWの余韻が自分の中でまだ冷めやらぬ中、どういう心持ちで森町に向かえるのか。滞在期間中にやりたいことをあれこれ想定はしながらも、もう少し間を空けるべきだったか・・・という思いは拭えぬままだった。

フリーランスの写真家の私にとって、このMAWの滞在中は、日頃の撮影活動時と比べると、真逆のような過ごし方をしている実感がある。どこに行って何を撮影し、撮影しないならばどこでどう過ごし、どこでどんな宿泊をして、それをいつまで続け・・・基本的に自分がそれを自由に決めて日々行動する。天候や急な仕事の発生が理由で、予定を突然変更することも日常茶飯事だ。もちろん、その自由な行動に対して誰かが私に直接報酬を支払うわけではないから、その行動の結果を仕事につなげる作業や工夫のための膨大な時間がその後にはあるわけだけれど。

それに比べると、このMAWは「期間限定、地域限定のプログラムされた滞在」だ。
1週間のうちの3日間くらいは各自の自由散策になってはいるものの、それもあくまでプログラムの中の話だ。
もっとも、作品の制作のためではなく、今後の活動の幅を広げるための地域での体験や人的な交流が主眼とされる滞在だから、日頃の活動とは別の過ごし方になるのが前提ではある。
ただ、日頃の写真家としての自分の行動に比べると、ある意味で自由度の低い、限定的な1週間の活動の中で、どこまでのことができそうなのか、その後の広がりをどう作ることができるのか、という思いも持ち続けていた。

しかし、2度目のMAWを終えた今、少し不思議な感覚にとらわれてもいる。
あえて「自由度の低い」「限定的な」とネガティブな表現を使ったが、そうした滞在中にも関わらず、出会った方のつながりで、もうすでに目に見える形での次への変化が私の前で起こり始めているからだ。それは、新しいインスピレーションを得たとか、初心に帰ることができたといったことではなく、写真家の活動・仕事としての具体的な展開という意味でだ。
もちろんそれはまだ、お知らせや告知に至る段階ではないけれど、アーツカウンシルしずおかのMAWご担当の方が使われていた「このMAWで期待する化学反応」というものを私なりには実感できるようなものだ。

予想外の展開の速さへの驚きはあるものの、ただそれはMAWの意義や効果を考える上で全く重要なポイントではない。そもそも非常に長期にわたる視野にたたなければ、このMAWは実現していないような企画だろうし、拙速にわかりやすい結果を求めるならむしろ意義も台無しになってしまいそうだ。
私が思いを馳せるのは、このMAWが生み出すのかもしれない、必然なのか偶然なのかよくわからない、そしてさらに掴みどころのない化学反応という効果についてだ。

「地域とアートの主に人的な交流を通していつか生まれるかもしれない化学反応に期待」

MAWの主旨を勝手にそうまとめて、化学反応というものをあれこれ想像してみた時、例えば「刺激を受けて生まれた新しいアイディアを次の作品作りにいかす」とか「コラボ」とか「他ジャンルのアートが融合してグループ展」といったものは話としてわかりやすい。

けれど、もしかしたら、化学反応という表現に込められた期待というのは、もっとずっと手前にある、小さな小さなきっかけのようなものへ向けられたものではないかとも思えてくる。それは化学反応という表現で認識されるほどでもない、コミュニケーションの中でのちょっとした関心のようなものかもしれない。そうした小さなものを、たった1つでも雑多にたくさんでも、滞在中にたぐり寄せておくこと。そこへの期待が込められているのではないだろうか。目に見えるわかりやすい結果としての化学反応も、その積み重ねの先にしか生まれないはずなのだから。

だとするなら、MAW(マイクロ・アート・ワーケーション)のマイクロという言葉には、いつか起こり得るかもしれない化学反応に向かう、小さな関心とその積み重ねという意味も込められているような気がしてくる。

そんなことを少しずつ考えるようになったからだろうか。
1度目のMAWと2度目のMAWの間隔が短かったことは、あまり気にならなくなってしまっていた。

自分の中でたぐり寄せた小さなものは、思いのほか速いスピードであれ、ゆっくりとであれ、これから育んでいくものであるはずだ。
だとするなら、MAWは1週間で終わりではなく、どの道ずっと続いていくのである。

そうして、MAWの不思議さを実感するタイミングは、またしばらくすると違う形でやってくるのかもしれない。
時にそれは意図した結果、実を結んだと思えるものだったり、偶然の連鎖の先にあるものだったりするのだろう。
きっと、MAWに終わりは無いのである。
どのような形であれ、たぐり寄せた小さなものを大切にする意思がある限り。


(6)これから

酷暑の日々。そして台風直撃の日。
森町という場所を知ろうと懸命に過ごした8月中旬の1週間。
清らかで穏やかな太田川と、台風直後の濁流の太田川。
1週間という短い滞在の中で、少しだけ表情を変える様を垣間見ることができたけれど、どうやら森町はとても季節感の強いところだという気がしている。
もちろん、それはまだ私の事前の情報収集の域を出ないものだ。

地元の方々は、祭りの日にこの静かな町がどんなに豹変するかを興奮気味に語ってくれた。
町に点在する寺社仏閣では、各々個性的に季節季節の花が咲き誇るようだ。それはさながら森町というキャンバスに、1年をかけて様々な色彩が少しずつ塗り重ねられていくようでもある。森町は町自体が大きな花の植物園だと言えるのかもしれない。撮影ツアーの企画や引率の仕事という観点からも、これは森町の魅力的なトピックだ。
これから少しずつ、時間をかけてそんな森町の魅力を体感していけることを楽しみにしている。

森町は、森と町でできている。
滞在中の日々のnoteでも使ったこのシンプルで飾り気のないフレーズを、どういうわけか私はすっかり気に入ってしまった。
これから先、どんな森と町に私は触れることができるだろうか。
森の色、町の花。森の風、町の声。森の香り、町の灯り・・・。

今回の滞在では、地域おこし協力隊の方々、リノベーションなど町づくりに関わる方々にお会いする機会も多かった。
これから先、森はどうなるのだろう。町はどうするのだろう。
取り組む方々が生み出す変化もまた、これからの森町の新しい魅力の1つに繋がっていくはずだ。

MAWという不思議な1週間を通して、また1つ、静岡県に自分にとって特別な場所ができた。それが何より嬉しい。
だからその特別な場所のことをもっと知りたいと思う。
この森のことを。そしてこの町のことを。


【最後に】
貴重な機会を作ってくださったアーツカウンシルしずおかの皆様、充実した1週間の活動のためにお時間をさいてくださった森と町づくりの会の皆様、そして滞在でお世話になったゲストハウス「森と町」の皆様へ改めて感謝申し上げます。

画像7

森町  太田川河川敷にて