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北林みなみ「無意味なものたちへ、愛を込めて」(7日目)

河津町滞在7日目
今日が河津での滞在最終日だ。

朝、泊まっている宿『竹の庄』のオーナーさんに、宿内を色々案内していただいた。

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竹の庄は昭和8年に旅館としてこの地に建てられた。新宿で遊郭として使用されていた建物を丸ごと河津の地へ移築したらしい。骨組みなどの木材を、新宿から運んできてそのまま使用しているため、旅館の形は遊郭だった頃の姿を保っている。

話を聞くと、かつて吉原に対抗するように遊郭一帯が新宿周辺にもあったそうだ。その後戦争が始まるが、この建物が移築されたのは東京大空襲以前。もし移築せずそのまま新宿の地にあったら、このような姿では残っていなかったかもしれない。

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移築したのは当時の台湾の材木商の方だという。
一体どういう流れで新宿から河津へ、建物を移そう!という話になったのだろう。

戦争が始まり、南〜東伊豆一帯はこれから出兵する者たちの最後の慰安の地となっていたそうだ。海に面しているので、軍艦で沢山の兵士がやってきた。旅館も兵士たちの出兵前最後の晩餐、最後の安らげる時間を提供したそうだ。

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部屋に備え付けられた棚や壁は、当時その部屋を担当した職人に細部の造形が任せられていた。そのため、どの部屋も間取りは同じでも、装飾や、使われている材木が少しずつ違う。

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職人の個性が表れているんですよ、とオーナーさんは言っていた。

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雪見障子になっている。光が綺麗。

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竹の庄さんのお風呂、立派。

平成の初め頃に耐震などのため大改装を行っており、水回りなども綺麗になっているが、木材の装飾などは全てそのまま残している。

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トイレ。
竹の壁、網代編みの天井。

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竹は1本1本綺麗に面取りがされており、きちんと節の部分で切り落とされている。丁寧に処理されている。
虫に食われてダメになってしまった部分の竹を入れ替えたことがあるそうだが、当時から使われている竹よりも、新しく入れ替えた竹の方が先にダメになってしまったそうだ。

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当時、腕のある職人たちはたくさん町にいた。
職人たちのいる暮らしを想像する。人は昔、手作業でありとあらゆるものを作ってきた。私の祖父も職人だったが、その仕事は現在人間ではなく、機械が行っている。
時間の流れが、今よりもずっと遅かった時代。
機械の便利さと、職人たちが共存する道はなかったのだろうか。

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余ったスペースに飾られた謎のシャチホコ(1匹しかいない)

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バブル期、河津町には沢山の観光客が押し寄せていた。
大型バス1台に50人を乗せ、何台も一緒にやって来る。
大広間で、宴会。
コンパニオンを呼べ!カラオケもってこい!と、どんちゃん騒ぎ。
女性は男性へのお酌。男たちは喧嘩。もう破茶滅茶でしたよ…とオーナーさんは笑っていた。
竹の庄から海までは結構離れているのだが、その道が全てパラソルや砂で埋まってしまうくらい、夏は人で溢れていた。
オーナーさんが横浜の方へ出るときは、渋滞のせいで出発してから1日がかりだった、と言っていた。車から降りて、みんな歩いて先に行き、座り込んで車を待ったこともあるという。今より高速道路も整備されていなかったのだろう。一体日本はどういう状況だったのか・・・
たった30年くらい前の話だが、今では到底あり得ないような世界観だ。

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竹の庄は素泊まりのみの宿だが、かつて割烹料理も出す、高級旅館だった。当時のパンフレットをいただいた。豪華絢爛。刺身の盛り付けには岩石も使用したため、仲居さんからは「重すぎる!」と文句も言われたという。当時は1人の仲居さんが2部屋を担当していた。沢山ある部屋も今はほとんど使われておらず、この数日は私だけが、奥の離れに1人泊まっていた。まるで実家のような安心と静かな雰囲気に包まれていた。

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今の物静かで哀愁ある雰囲気は、古い建物のせいだと思っていたが、豪華絢爛時代の面影が、宿の端々に残っているからかもしれない。
私が昭和の文化や建築を好きなのは、当時の人々の希望が哀愁になって今も微かに光って見えるから。当時のこの国の雰囲気を私が好きだったかは別だが、大人たちの昔話から想像する当時の繁栄は、私をなんとも不思議な気持ちにさせる。

今は物置になっている大広間を見せてくださった。大きな鳥の剥製、豪華な壺や皿がゴロゴロと置かれており、使われていない茶室まで付いていた。

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大広間の目の前、オーナーさんが自分で獲ったというイノシシの毛皮が鞣して干してあった。

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竹の庄には大きな庭がある。
庭だと思っていた部分、実は昔は池だったそうだ。
上から見下ろすと、『心』の文字に見えるように、岩が置かれている。

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写真を撮ってみたが、植物が生い茂りすぎているのと、朝日が眩しすぎてわけがわからない。

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昔のパンフレットに載っていた、かつての庭園。

当時池の中には鯉が3、400匹泳いでいたそうだが、ある日、オーナーさんが「なんだか少ないなあ」と思って見ていると、1羽のサギが大きな鯉をくちばしで捕らえ、岩に打ち付けて丸呑みしているのを見た。
見た目が美しい目立つ鯉(そう、見た目が綺麗な鯉、それは高級な鯉)はよく狙われた。ある夜、鳥のギャーギャー鳴く声がうるさいなあと思って、池を見に行き懐中電灯で辺りを照らすと、サギの大群がそこにいてこっちを見ていた。「サギたちのバーカウンターになってましたよ!ホラーでした!」と言っていた。サギたちのバーカウンター・・・

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(これは川にいたサギ)

その後、池の上に糸を張ってみたり、色々対策をしたが全て不発に終わり、しまいにはアライグマのような動物まで表れて鯉を池から引きずり出して食い散らかしているのを発見したので、もう対処しきれない…と池をやめてしまったらしい。大きな池なので、魚を入れておかないと水が濁ってしまうそうだ。
オーナーさんのサギとの奮闘記を夢中で聞いていると、あっという間に出発の時間に。何も荷造りをしていなかったので、大慌てで準備する。

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今日は午前中、役場の古川さん、和田さん、そして同じ旅人の三浦雨林さんと一緒に、河津周辺の遺跡を発掘調査している場所へ見学に行った。

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河津の周りにはいくつか遺跡がある。
段間遺跡、宮林遺跡、姫宮遺跡…
段間遺跡は、私が今回の旅でお世話になった魚屋さんや、絵を描いた浜の近くの山の上にある。

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部屋には、縄文時代〜弥生時代の土器が沢山置かれていた。
今回色々説明してくださった宮本さんは、長年河津役場に勤めながら河津の遺跡を研究されている。
遺跡の調査発掘は、役場が主体となって行うことも多いらしい。私はてっきり、全ての調査は大学や専門機関など外部に委託されているものだと思っていたので、また一つ知識が増えた。

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遺跡の調査は、その土地に建物が建ったり大規模な土地整備がされる場合のみ行われる。例えば、調査のためだけに土を掘り起こすことはほとんどないという。

それは遺跡を「残しておく」という考えが考古学にはあるからだそうだ。今全てを掘り起こしてしまうより、未来、技術がより発展した頃に掘り起こされたほうが、判明する事実も多いからだ、という。

建物が建ってしまう場所は仕方がないが、それ以外の土地をむやみやたらに掘り起こしたりはしない。そのまま土の中に眠らせておく。
そのほうが状態も良いまま、未来へと残しておくことができる。そんな考え方だそうだ。
他の研究職とは少し違った、考古学ならではの考え方だ、と感じる。

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宮本さんに、たくさんの土器を見せていただいた。
この土器の破片は埋甕(うめがめ)という甕の一部。この土器を上部の口が開いた状態で土に埋めこみ、遺体を中に納めた。あるいは胎盤などを入れ、上から踏みつけて子供の健やかな成長を願った、という説もある。この頃から人間は、何かしらの信仰心を持って生きていたのだ。

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縄文時代の土器の模様には、共感できるものがある。例えば自分が器を作っていて、模様を入れたくなる気持ちがよくわかる。
少し点々をしてみよう、とか、線で削ってみよう、とか。そのほうが可愛いから、とか、誰かに良いねって褒めてもらえるから、みたいな。

そんな単純な気持ちで、模様を描きたくなる本能が、人間にはあるような気さえする。
まっさらなものに、自分が自由に世界を広げていくこと。それはワクワクして楽しいことを、縄文人も知っていたのだと思う。

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弥生時代に入り、実用性を重視してか、模様はだんだんと無くなっていく。その後時代は移り変わり、模様や装飾は、ただの単純な楽しみから、「贅沢で、きらびやかなもの」や「意味のあるもの」へと変化していく。

私は縄文土器を見ながら、美術が贅沢品になってしまった今の時代を思う。
時間をかけて模様を描くことは、贅沢なこと。
意味のないものを排除し、よりシンプルで実用性ばかりが求められる世界。

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私が描きたいと思う絵や、美しいと思っていることの根幹には、縄文時代の人々の「単純に楽しいから」という、心の動きがあるような気がする。
それはこの世界、私たちの生きる社会にとっては価値のない無意味な気持ちかもしれない。私は、無意味なことの中に、大切なものは隠されていると信じている。

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笛らしい。
余った粘土で、こうやったら音出るかな?と想像しながら作ったのかな。
何千年も前から私たち人間は、興味や楽しみを原動力にして、新しいものを作ってきた。

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沢山興味深い話が聞けて、幸せな時間だった。


その後役場に戻り、古川さん、そして和田さんともお別れ。
本当に何から何までお世話になりました。
河津の皆さんは、優しくておおらかで、心に余裕があって、本当に素敵だ。
特に和田さんには本当にお世話になった。これからも今回出会えたみなさんとの縁が、長く続いていけばいいなと思う。


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午後は浜で2時間ほどひとりで絵を描いた。
今日の海岸は強風が吹き荒んでいて、何度も色々なものが飛ばされていった。
何度浜辺を走ったかわからない。
描いていた別の小さな絵が1枚、強風に煽られて天高く飛んでいってしまった。
もう探しに行けないほどの上空へ…
絵、どこまでも飛んでいけ。
(もし民家に落ちてしまったら本当にごめんなさい。)

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もうこれは、風の絵にしようと思う。
完成できなかったので、アトリエに持って帰って続きを描く。


途中、旅人の三浦さんが遊びにきてくれた。
駅までの道をお話ししながら一緒に歩いた。
彼女は舞台演劇の演出などをやっている。
演劇関係の方とお話しする機会は今まであまり無かったので、もっと沢山聞きたいこともあったが、電車の時間もあり、ここでお別れ。
東京でまた、ゆっくりお会いしたいなあ。
三浦さんがこれからどんな視点で河津町を見ていくのか、楽しみだ。私とは全く違う視線で同じものを見ていくのかもしれない。

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踊り子号の最終便まで少しだけ時間があり、駅前の喫茶店きりん館でコーヒーとスコーンをいただく。

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先日ここで買ったケーキが本当に美味しかった。色々な種類の少し変わった可愛いケーキが並んでいる。全て手作り。
私が巨大な流木を背負っていたので「浜で拾ってきたんですか?」とオーナーさんに聞かれる。「私も流木よく拾ってきて、お店の中に吊るすんですよ〜」と言っていた。台風の後だと、流木がよく取れるそうだ。(流木情報)


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最後、駅のホームから見えた河津町。

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大荷物を背負って踊り子号で帰宅。帰りは海側のシートに座れた。

列車の窓から、いつもの青からピンクへと変わっていく大きな空が見えた。

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河津にいる間、この夕方の空の色を見ることが好きだった。
都会の空は小さくて、こんなふうに空の色を見ることはできない。
滞在期間中は、連日晴天で色々な場所を動き回ることができた。

河津、綺麗な風景を毎日見せてくれてありがとう。

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18時半、横浜駅に到着。

列車を降りると、なんだか匂いが違う・・・!
外国から帰国して、空港の外へ出たときと同じ感覚。
町によって匂いが違うんだ。普段は何も気がつかないのに。不思議だ。
ああ、帰ってきたんだな。

流木と巨大な段ボールロール、そして大量のお土産を背負って、ビルだらけの街をノロノロ歩く。ただいま、わたしの街。

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ものすごく長い日記になってしまった。
まとめるのが苦手で、聞いたこと見たもの、全部残しておきたくなってしまう。
わたしの旅には大事な記載すべきポイント、なんてものは多分一つもなく、
無意味でささやかな発見が、細い線になって続いているようだった。

滞在を通して感じたことなど、後日まとめて文章にします。

たのしい旅になりました。
ありがとう河津、また遊びに行くね。

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おわり



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