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秋野 深 「ワークとバケーションとラーハ」【小山町】(1日目)

自宅のある千葉県船橋市から、マイクロ・アート・ワーケーションの舞台となる静岡県小山町へと向かっている。

高速は使わず、東京都と神奈川県を横断して下道をゆっくりと進むこと約5時間。

今日から始まる「ワーケーション」というものについて、車中で改めて考えている。

そもそも、ワーケーションと銘打って、それをはっきりと意識した時間を過ごしたことは・・多分、ない。

ワーケーションとは、ワークとバケーション。
日本語にすれば、仕事と休暇?
言葉のイメージを大事にしようとすると意外とどんな言葉を当てはめるかは難しい。
労働と余暇みたいな表現にするとまたなんだか違ってくる。

そんなことを考えながら車を西へと走らせていると、これまでの自分の時間の過ごし方や価値観のようなものについて、いつの間にかあれこれ思いを巡らせ始めていた。

会社員生活を送っていたころは、このワークとバケーションの間に、とにもかくにも頑強な境界線を引こうと必死になっていた気がする。

ワークがバケーション側に入ってこないように。

このバケーションは、当時の状況を思い出して私なりに別の表現にするならば、「自分の時間」と言い換えるのが一番よさそうだ。

それで自分の時間をいつもいつも死守できていたかというと、実際のところはそうでもなく、自分で作ったはずの境界線を結局自分で崩してしまって、自己嫌悪・・・ということも少なくなかった。

ところが、写真家として生きるようになって、この境界線についての考え方は全くと言っていいほど変わった。

変えたのではなく、変わった。

ある時点で突然変わったというより、いつの間にか変わっていて、その変化すら自分であまり意識していなかったほどだ。

写真や文章で表現すること、伝えること、その周辺にあることについて、ほとんど四六時中アンテナをはり、考えていると言っていい。その成果やクオリティはさておき、少なくともそういう時間の過ごし方をすることを苦痛に感じたことは・・・多分、ない。

もっとも、いろいろと思うようにいかず、しんどい思いをすることは普通にある。ただ、だから時間の使い方として、ワークとバケーションをはっきりとわけるのだ、わけたいのだ、という発想にはならなかった。

自然を観察して新たな発見があったり、異文化に身を置いて自分の偏見に気が付いたり、自分の中の常識が覆ったり・・・そうしたことは直接的にではなくても全て仕事のアイディアの源になるわけだけれど、その時間がワークなのかバケーションなのかという発想がそもそも、ない。

そして、少なくとも今の私はそれでいいと思っている。

そうあるべきだと思っているわけではないから、これからどうなるかはわからないけれど。

今日は3月21日でお彼岸。お墓参り渋滞を覚悟していたものの、今のところ、順調に車は小山町へ向かって進んでいる。
神奈川県の座間市あたりを通過する頃だろうか、何十年ぶりかに久しぶりに思い出したことがあった。


20代の後半、転職活動をしている時の就職面接でのこと。

これまでの職務経歴の話や自己PRの後、面接官にこんなことを質問された。

「では、あなたの弱みは何ですか?」

特に事前に回答らしきものを用意しておらず、その場で咄嗟に、でも真面目に考えて私はこんなふうに答えた。

「どんなに仕事内容が充実して、報酬に満足できても、自分の時間がとれないほど忙しい状態が続くことに耐える忍耐力は、他の人より多分弱いと思います」

面接官の反応は
「でも、それ、弱みというより、一番大事なことかもしれないですよね」
というものだった。

そしてその後、その会社で働くことになった。

もう1つ、さらに遡って久しぶりに思い出したことがある。

新卒時の就職面接でのこと。

たしか、面接の最後に、「職場に期待することとか、逆に何か不安に思うことがあれば」のようなことを聞かれたことがあった。

私は真顔で、「しいて言うなら、いごこち・・・でしょうか」などとのたまい、それだけが原因ではないだろうけど、次の段階の面接には声がかからなかったところもあった。

本人的には、「弱みは何ですか?」に対する回答と同じようなニュアンスのことを言ったつもりだった。ただ、いくらなんでももう少し言い方があったと今では思う。

「まだ働いてもいない者が何を言ってるんだ」と言わんばかりの面接官の表情だった。

そんな私が今では、仕事と自分の時間の間に線引きがなくてよい、とまで思っている。

仕事の内容が違うから価値観が変わった、と言ってしまえばそれまでなのだけれど、当時の私は、フリーランスで働くとか写真家になるなんてことは微塵も想像していなかった。おそらくフリーランスの意味もほとんどわかっていなかっただろう。

当時の私に今の私がもし「お前の、その時間についての価値観、信じないかもしれないけど、仕事の内容が全然違うと根本的に変わるぞ」と言ったら、当時の私はなんと答えるだろう。

小山町までの道中、渋滞らしい渋滞は、秦野市内くらいだった。
渋滞の間に思い出したのは、とある本に書いてあった時間の概念についてのことだ。

20年ほど前、初めてイランを訪れるにあたって、イスラムの世界の習慣や価値観について書かれた一冊の本を読んだ。

そこには、時間の概念について次のようなことが記されていた。

「人間が過ごす時間は、おおむね、仕事と遊びとラーハに分類される。この3つのうち、最も大切なのはラーハであるから、できるだけラーハの時間を多く過ごすように努めるのがよい」

イスラムの世界の話であるから、「祈り」がラーハに分類されることはなんとなく察しがつく。ところが、そこには、ラーハの例としていくつもの時間の過ごし方が列挙されていた。

詩を詠むこと
親類の家を訪ねること
友と語ること
旅をすること
・・・

確かこんな感じで、詳細は覚えていないが、とにかくきりがない。

のんびりすること、よく眠ること、もあったかもしれない。

遊びをどう定義するかにもよるのだろうけれど、このラーハという時間の概念は当時の私にはとても腑に落ちるものだったことを覚えている。

私はこのラーハという言葉を、今のところあえて日本語にはせず、そのままラーハとして解釈して味わうことにしている。

小山町に到着しても、残念ながら富士山は雲に隠れてほとんど姿を見せてくれない。
独立峰は周辺で上昇気流が発生しやすく、すぐに雲に覆われやすい。
これは通い続けている東北の秀峰・鳥海山も同じで、ほとほと撮影に苦労するところでもある。
ただ、それだけに美しい山容全体を目にした時の感激は大きい。


小山町での初日はウェルカム交流会。

小山町のホストのWe are OYAMAの皆様、そしてご参加くださった皆様、どの方とお話ししていても、初日にして「このプログラムに本当に参加できてよかった」と実感。参加者の方々のご質問が具体的で、それが何より嬉しい。

私以外の2名の旅人アーティスト、北野さん(陶芸家)と佐藤さん(アーティスト・鑑賞プログラマー)にもここで初めてお会いした。

お二人の活動については、これからの1週間で詳しくうかがう機会もあることだろう。

でも短い時間の自己紹介で強烈に印象に残ったことがある。

それは、お二人とも懸命に模索している方だ、ということ。

アーティストなんだから当たり前だと思われるかもしれない。

うまく説明するのが難しいけれど、私がとても強く刺激を受けるのは、「好き」や「模索」への熱量の高い方に出会った時だからということなのかもしれない。

自己紹介の中で、佐藤さんもワークとバケーションの区別やバランスについて今回改めていろいろと考えることがあったと触れられていた。

今回の活動の中で、佐藤さんや北野さんは、どんなふうに時間を使い、どんなことを考えるのか・・・。

自分のことばかりではなく、そんな方向へ自然と関心が広がるのも、このマイクロ・アート・ワーケーションの意義の1つなのかもしれない。

交流会を終えて、すっかり暗くなった須走で民宿にチェックイン。

その後、すでに閉店している食事処が多い中、どうにか営業しているラーメン屋を見つけてほっと一安心。

店内に入ると佐藤さんが。

全くの偶然で、交流会第2弾。

今日で初対面なのにどうしてこんなに話せるのだろうと思うほど、これまでの活動と活動への思いについて話した。

詳細は内緒だけれど、これだけは言えそうだ。

その時間は、ワークでも、バケーションでもない。

私にとって、間違いなくラーハな時。

ラーハな時に、感謝。


Jin Akino
https://www.jinakino.com

【小山町1日目】 「ワークとバケーションとラーハ」
【小山町2日目】   「先入観と足かせ ~小山町の景観~ 」
【小山町3日目】 「潤いと衝突 -前編-」
【小山町3日目】 「潤いと衝突 -後編-」
【小山町4日目】 「巨大なナンバーワンに抗えるか」
【小山町5日目】 「旅のカタチ」
【小山町6日目】 「旅人アーティスト達の葛藤」
【小山町7日目最終日】 「曖昧な、大胆な、でも確かな期待」
【まとめ】 「その瞬間、その場所にいたいので」



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