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細淵太麻紀「汀(みぎわ)にて」 下田滞在のまとめ

当初1月に予定されていた下田滞在は、コロナ禍第6波に対して国が発令した「まん延防止等重点措置」のあおりを受けて延期となり、3月中旬の開催となった。
私はこの7日間の滞在中、このプログラムの趣旨である人と出会っていくことと並行して、最近とても気になっている「汀(みぎわ)」を歩くことに定め、下田市の海岸線を端から端まで辿る旅として毎日宿を変え海沿いに南下していくように計画していた。
ところがこの出発の直前に起こった個人的な理由により、7日間の滞在を4日間に変更せざるを得なくなった。当初は全行程の不参加も検討したが、日常から離れることで頭の整理ができそうだったこと、下田でもやらなければならないことはできるしむしろその方がやりやすかったこと(まさにワーケーション)、何かあってすぐ戻らざるを得なくなったとしてもそんなに遠い距離ではないこと(横浜駅から踊り子号で2時間半)、そして期間短縮でもこの「マイクロ・アート・ワーケーション」のプログラムへの参加を認めてもらえるということだったので、参加することにした。

一応まだ「まん防」発令中だし、こちらから積極的に人に話しかけたり出会っていこうという元気もあまりなかったので、日々の報告のnoteに書くことがなかったらどうしようという心配をよそに、思いがけず毎日個性的な人々との出会いに恵まれ、日記にも充実した内容を記すことができた。また、下田と自分が拠点としている横浜とのつながりの深さも改めて再確認した。もちろん160年前の開港当時の下田と横浜の関係から始まり、日本における商業写真の開祖下岡蓮杖の軌跡についても知っていたが、今下田で暮らしている人々にとっての横浜に対する距離感が思いの他近いということがわかったのは収穫だった。実際、私もこうしてやってきてみて、その近さを実感した。それは物理的距離の近さだけでなく、文化背景的な近さに起因するところでもあるだろう。とにかく違和感なく、居心地のよい滞在の日々だった。

4日間の滞在中、自分が目的としていた「汀を歩く」ことができたのは1日だけ、田牛海水浴場から吉佐美大浜まで北上する2時間ほどの道行だったが、田牛で拾った石を掌中に転がしながら、波の行き来をたどりつつ、思考を行き来させながら、なんとも形容し難い充足した時間を過ごすことができた。

なぜ、汀が気になっていたのかを、まだ示していなかったので少し記したい。「汀(みぎわ)」とは、水際、波打ち際のことを指す言葉だ。「汀線(ていせん)」とは海面と陸地が接する線で、短期的には波の押し引き、中期的には潮の干満、長期的には侵食や地殻変動などにより、「線」ではあるのだがそれは常に変動する。俗にいう「海岸線」とは、干潮、満潮時の二つの汀線の中間の線と定められている。
汀は常に不確定で、不確定であることが汀たりうる。常に書き換えられる境界線は、ぼやけた国境線でもある。定まることのない「線」が存在すること、また定まっていると思っていることは実は不確定なものであったりすることの意味を考えたかったし、そういった要素を作品に入れ込んでいきたいと思っていた。汀をいくことで、そういった思想について考えを深めたかったのだ。

そしてさらに、これは後から知ったことなのだが、「汀」には「かんじょう」という読み方があり、これは仏教(主に密教)儀式である「灌頂(かんじょう)」のことを指すのだという。これは阿闍梨が「灌頂」のことを記す際、人に知れないように「灌」の偏と「頂」の偏をくみあわせて「汀」と記したのが始まりという。現在もこの「灌頂」の儀式をおこなっている高野山金剛峯寺によると「仏と縁を結び、心の迷いや不安を取り除いて再生をはかり、本来の清らかな心を開くための儀式」という説明がある。はからずも今回、「汀」を歩くことで巡らせた逡巡の末に行き着いた決意や覚悟があった。結果的に、このたびの汀の道行は、短いながらとても意義深いものとなり、下田の汀の風景は私の原風景の一部となった。

このような得難い滞在の機会を与えてくださった「アーツカウンシルしずおか」と「下田市」、そしてこの旅に関係してくださったみなさまに、あらためて感謝の意を表したい。

◉ 細淵太麻紀 下田滞在の記録(全4日間)
下田はじめまして物語(1日目)
下田はじめまして物語(2日目)
下田はじめまして物語(3日目)
下田はじめまして物語(4日目)

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