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愛してくれてありがとう、と思うから

「文章力のウンヌンについて、友の言葉は信用しちゃあいけないよ」

 あなたのことをよく知る人なら、当然あなたが何を書こうとしているのかを察そうと努力してくれる。それがどんなに言葉足らずの稚拙な文章だったとしても。
 だから友に言われる「文章書くのが上手だね」はあまりアテにしないほうが良い。もしもあなたが井の中の蛙になりたくないのなら。

 確かに理屈というか、論理はよく分かる。人が親しい相手に向けて下す評価は、必ずしも完全に客観的なものではないということだ。
「これはあの人が書いた文章なんだ」という認識が読み手の中に前提としてある以上、書き手本人に対する思いが “主観” として文章への評価に混じる。文章に不足しているところを、主観が勝手に補ってくれる。

 言いたいことは分かるのだけど、何だか納得しようにできない気持ちになった。

 だって友だちに「毎日note楽しみにしてるよ」と言われたらすごく嬉しいじゃん。褒められたら「でしょ?」と言いたくなるじゃんか。大事に読んでくれるんだなって分かればそれは素敵じゃん。

「信用しないほうが良い」と忠告されて、そうなんですね覚えておきます、なんてなるなら初めから友に見せたりしない。
 そもそも人の褒め言葉を「アテにならん」と無下にするほど、わたしは卑屈な女じゃない。


 とはいえ理屈が分かる以上は頭のすみに置いておきたい意見である。受容はせずとも共存はしたい。評価の客観/主観はやっぱ重要だもの。

 友だちから言われた言葉を大事にしながら、客観的にも「上手い」と思わせる文章を正しく書きたい。そのためにはまずわたし自身の添削力が必要である。

 添削は「他人が書いた文章を手直しすること」だ。書き手自らが修正する推敲とはまた少し違う。これを自分でやっていけたら、友の評価が何であっても問題ないんじゃなかろうか。

 今しがた主観で書いた文章を、完全なる客観的視点から読み直すのはとても難しいことだと思う。だけど「友の評価を信用するな」と言われるほうが、わたしには少し難しそうだ。

 ありがたいお言葉たちを守りたい。たくさん愛され、幸せであろうこの文章も守りたい。

 そのためならば添削だって推敲だって、わたしは何でもやってみせるさ。


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