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狡い本音と表現のせめぎ合い


転職活動をしていた時、面接官に趣味を聞かれ、咄嗟に「文章を書くことです」と答えてしまった。
続けて「その文章公開してるんですか?」と聞かれ、「してません」と答えた。「公開しているなら読みたい」と言われかねない雰囲気を感じ取り、そうなったら困るし、読まれたら不採用になりそうだったので嘘をついてしまった。

私は自分の本名を明かさずに、こっそりと、自分の書きたいことを明け透けに書いていたい。というか、こっそりという姿勢だからこそ、好き放題書けているのだろう。
それはSNSのそれと一緒で、匿名顔出し無しの者たちが、好き放題言って、時に誰かを攻撃したりもする。
なんて狡くて汚いんだ。


そう、私は狡い。

ここで文章を書く時、名前を明かさず、顔も出していない。
だけど心のどこかで、大切な人や仲良くなりたい人には自分のことを知っていて欲しいと思っている。知らない誰かであっても、届くべき人に届いて欲しいと思っている。
それに、自分自身のことをネタにしないと、自分自身を軸にしていかないと、文章が書けない、表現ができない。困ったものである。

そんな表現にも出来る限り切実さと誠実さを持っていたいと思っている。だから明け透けに書いてしまう。


しかし迷いがある。

現実世界で私のことを中途半端に知っている人には、こんな明け透けな自分を知られたくない。ましてや職場の上司や先輩などなら尚更だ。怖すぎる。
もし知られてしまって、「痛い」などと思われるのが怖い。仕事では出さない思想や感じ方を知られるのは、(相手は良くても私が)仕事をする上で邪魔になる。
仕事上の関係性が歪んでしまいそうだ。気になってしまって、円滑に業務上のコミュニケーションが取れなくなってしまい、その環境が辛くなってしまうのではないかという不安がある。そう思うのは自意識過剰過ぎると思うのだが。

だけどそういった被害妄想をどうしてもしてしまうので、職場の人に見られる可能性があると思うと、表現の中で自分の感情や感覚を取り繕うことになりそうで、それも怖いのだ。

(尚、どちらが本当の自分かという問いは不毛だと思っている。どちらも本当の自分だし、どちらの自分にも嘘はない。)


だけど、そうやって私だと気付かれない状況の中で作ったものは、果たして「表現」と呼べるのだろうか。


度々引用して恐縮だが、少し前に観たNetflixのトーク番組『LIGHTHOUSE』の中で、若者の悩みを聞いた星野源さんが、表現と本音についてこんなことを話していた。

SNSで言ってることは「表現」。
人に見られる可能性があるものは自分の「本音」ではない。
自分の本音をそのまま人前で「表現」として出すには、相当鍛錬が必要。
(誰にも見せないSNSアカウントで言っているようなことは)本心というより愚痴や雑念だと思う。

#2「東京~光と闇~」
星野さんの言葉より


SNSが台頭して久しい。プロとして表現を職業にしている人以外でも、自分の表現を誰かに見てもらえる環境が簡単に手に入る。
だからこそ、私のやっていることは本当に表現なのだろうかと思ってしまうのだ。星野さんの言葉を噛み締めれば噛み締めるほど、自己への懐疑は増すばかりである。


またオードリーの若林さんは同番組の別の場面でこうも言っていた。

何かに向かっていく時に、本気になっているところにお笑いって生まれる。
本気で悔しかったり、本気で挑んでいる時に、おもしろい話って生まれる。
(中略)
みんな優秀な芸人さんだから、(本気で悔しかったりした経験をトークする際に)お笑いっていう範疇からギリギリ出ないところで喋ってくれる。
だから笑える。
だけどこれが悲劇のヒロインであったり、被害者意識で喋ってたら笑えない。
ギリギリお笑いという芸の中でやっている。

#4「サプライズライブ」
若林さんの言葉より


お笑い番組やジャンルの在り方に関するトークの中で発された言葉であるが、私には本筋とは別の意味で刺さってしまった。

自分が悲劇のヒロインになっていないか?
被害者意識ばかりで書き殴っていないか?

もしそうであるならばそれは表現とは呼べないし、おもしろくもなんともないのだな、と改めて教えてもらった気がした。


私は自分自身の為に文章を書いている節がある。書けば頭も心も整理されるし、書き切ることの達成感も満たされるからだ。表現欲求も満たされるし、自分が忘れたくない感情や出来事を残しておける。過去の自分を救うこともできるし、未来の自分へのエールにもなり得る。

だけど、客観性は必要である。誰かが見ているという意識や客観視がなければ、表現ではなくただの愚痴や吐露にしかならないのだ。


自身の感じ方を偽ることなく、出力の方向や量や色を調整して、上手くユーモアに昇華させられるようになれたら、やっと面白い表現になるんだろうなぁ。

数年前、ある人がくれた、
「その本音、隠しておこうよ。そんな簡単にあなたの感じてることを知られるなんて、堪ったもんじゃない。」
という言葉が今、耳にこだましている。

もっとより良いものをと思うのなら、相当鍛錬がいるみたいだぞ。

届ける相手がいる喜びを、私はまだ知らない。

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