自由って何さ
最近、私の中で世界は一つ感が増してきて、
わたしは世界の一部であると思ったりしている。
私のイメージでは世界は全体ですべてが
完璧に織りなされていて成り立っている。
すべては過去も未来も大きな流れの中にあり
そう考えるとすべてすでに決まっているとも思う。
だから、私一人がどうあがこうと無駄な抵抗でもあり
またどうあがいてみようと私の自由であるともいう。
そんな気持ちが増してくると私たちって本当に
運命共同体でめちゃめちゃ仲間なんだよね。
とりわけ、人間や動物には親近感があって
親近感というよりむしろ一体感があって
もはや自分と別のものとは思いにくくなってきている。
学校へ行くのに田舎道を車で行くのだけれど
その途中ににわとりがめーちゃたくさんのどかに過ごしている牧場?みたいなところがある。太陽を浴びてぬくぬくと過ごしているにわとりがとってもかわいくっていつもチェックしてしまう。雨の日は納屋?に入れてもらっていて、あーよかった、今日はおうちで過ごすのだなあと思ったり、なにかをついばんだりしているさまがとてもかわいい。車で通り過ぎる短い間の絵なんだけどね。しばらくするとその先、100MほどのところにPoultryとある店が目に付くようになった。つまり、あの子たちは、食用に食べられるってこと?だよね。よく考えてみればそりゃそうだろうな話なんだけれど、なんとまあ!シュールというか残酷なことだろうと思った。隣でのどかに日向ぼっこしているにわとりが、いつか絞められて鶏肉となる。なんと悲しい現実。でもそれが現実。私たちは生き物の命をいただいて生きているのだ。
悲しいけど、辛い現実だなあ。感謝していただかなくてはと思ってはいたけれどもその思いを強めた。ところが、昨日、子どもに作ったお弁当の鶏肉を一口食べてみたら、気持ち悪い、共食い感みたいなものを猛烈に感じて吐き出したくなってしまった。いただいた命粗末にしてはならぬーという気合だけで食べて飲み込んだ。とてもつらかった。私、このままではベジタリアンになってしまう。いや、でも魚介類は仲間ではあるけど、触るとはさんできたり、冷たいからさほど一体感は感じられないので、すまん!と言っていただくことはできるので、ペスカトリアンになるのかな。
周りにもぼちぼちベジタリアンやらビーガンな人たちはいて、フーンそうなんだ、たいへんだねと思っていた。だからもし私がほんとにビーガンになってしまうのだったら、それはなんだか自分の自由を狭めるようなことになってしまう感じがいて不自由な感じがしてしまっている。
でも自由ってなんだろうか。なんでも選べることが自由というのだろうか。
きっと違う。数ある選択肢のうち、自分の在りたいようにある選択をすることが自由ということなんだろう。であれば、私がペスカトリアンになることは不自由になることではない。自由を行使することでもあるといえるのだろう。
あとは、食用の家畜を育てる場所を確保するために森林伐採などが繰り広げられていて、地球の環境面から言ってもこのままではいかんだろうと思っていたことと、身体にもよくないらしいという情報も私をビーガン方向へ向かわせるのに手伝っていると思う。
命に序列なんてないというのもわかる、動物だろうが魚介類だろうが植物だろうが同じ命であろう。だとすれば動物をいただくのはちょっと、、などというのはただの私の傲慢な思い込みに過ぎないのかもしれない。でもどんな動物の赤ちゃんも抱っこしたら暖かくって、きっと私の胸でうたた寝したりする子たちだと思うんだよ?やっぱりそれは限りなく私にまたは私の家族に近いと感じてしまう。パクチーも生きてるのは知っているしそこに命を感じるけれども、ごめーん!ってむしって食べやすいのは事実。心の深いところまで落とし込まれた思い込みなのか、それとも本来の自分の発見なのか、わからないけれど、自分の気持ちには従う以外ないなと思う。だって気持ち悪くなっちゃうんだもん。
自由をこよなく愛する私があえて選ぶ選択肢を自由を行使していると心の底から思えたときに、私はきっと正真正銘のペスカトリアンになると思う。
今はペスカトリアン見習いってとこです。だって焼き肉屋にみんなで行ったりしたいし、バーベキュー肉なしなんてさみしいやん!
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