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「タチバナ」と神話のラブストーリー

「タチバナ」という名前に、そこはかとない縁を感じている。

完全に私事だが、今までの人生でお世話になった恩師が三人いる。

まずは高校時代にフランス語の教師だった橘木(タチバナキ)先生。ゴルバチョフの演説のフランス語訳を生徒たちに読ませるなど独自の教育方針だったが(笑)、顔を合わせると肩を叩いて励ましてくれる熱血漢の人だった。

二人目は大学ゼミの教授としてお世話になった、経営学者の橘川(キッカワ)先生。日本経営史・エネルギー産業論専門の学者で、私が卒業した後もTV番組などでお見掛けするなど、現役でご活躍され、著書も数知れず。

そして最後は社会人になってからビジネスのノウハウを教えてくれた立花(タチバナ)さん。長年、副社長としてキヤノンのアメリカ地域を支えてこられた方で、コーチングの資格を持つこの方から学んだマネジメント・交渉術は、その後の私の社会人生活に多大な影響を与えてくれた。

なぜ私がこの三人の恩師、「名字にタチバナ(橘と立花は同義らしい)の字を持つ方々」の思い出話を始めるのか、「縁」といってもそれは単なる偶然ではないか、と感じるかもしれない。しかし、私が海外赴任から帰国し、縁あってたまたま居を構えた場所が、昔の地名では武蔵国の行政区「橘樹郡(タチバナグン)」だと気づいたのは、もう何年も経った後だった。そして、自宅から僅か2キロのところに、この橘樹郡の郡衙(役所。東京都なら新宿の都庁)がどうやら置かれていたらしいということが、ここ数年の市の発掘調査で分かってきたらしい。

さて、このタチバナ。一字で「橘」、二文字で「橘樹」・「立花」だが、語源は古事記と日本書紀にあるような「神話」に遡る。天皇・大和朝廷の命を受けて東国平定を成し遂げた日本武尊(以後、ヤマトタケル)は有名だが、その妃に弟橘媛(以後、オトタチバナヒメ)という妻神がいた。私がここ数年間に巡った地方で、このヤマトタケルとオトタチバナヒメの夫婦が登場する悲劇のラブストーリーを知ることになる。

ヤマトタケルは西日本の諸部族を鎮圧し、次に東国の征伐に向かう途中、今の三浦半島の横須賀市にある走水(はしりみず)から房総半島へ船で渡ろうとしていた。しかし荒ぶる神の妨害で海は大荒れとなり、一団は進退が取れなくなってしまう。この時、夫に従って乗船していたオトタチバナヒメは、「戦は男がするもの。海神は女の私が船に乗っているのを見て怒ったに違いない」と荒海に身を投げたところ、すぐに波は穏やかになり、ヤマトタケルは無事に対岸に上陸することができたという。

写真:三浦半島の走水神社。祭神はヤマトタケルとオトタチバナヒメの二神。

この劇的なストーリーには続きがあり、入水したオトタチバナヒメが身に着けていた櫛や鏡が流れ着いたとされる場所には、それを祀るために神社が多く造られていること。千葉の袖ケ浦市は、着物の袖が流れついた場所だと言われている。また、東日本一帯には吾妻(あづま)や嬬恋(つまごい)と呼ばれる地域があるが、これは無事に東国征伐を成し遂げた夫のヤマトタケルが亡き妻を忍び、「吾嬬者耶(ああ、我が妻よ!)」と叫んだ場所が由来となっているとのこと。嬬恋や妻恋の語源はそれこそ「妻恋し!」なのだと。確かに、橘樹神社・吾妻神社・妻恋神社は東日本に多く存在する。

ドラマティックすぎて泣ける。

写真:群馬県にある吾妻神社。すぐ近くには、キャベツ産地として有名な嬬恋村が。

「タチバナ」に話を戻そう。言うまでもなく、語源はオトタチバナヒメから来ていると想像するが、前述した通り私の住む川崎市は武蔵国の時代には橘樹郡という行政区だった。最近の発掘調査でその郡衙(役所)の全容が明らかになってきたが、昔は悲劇の神々となったヤマトタケルとオトタチバナヒメを祀り崇める地域だったのだろう。この地域は、多摩川が運んだ自然堆積物の上にあり、古くは海だった場所が多いが、小高い丘の上には寺社仏閣や古墳・祭事場跡が点在する。橘樹郡の郡寺であったと思われる奈良時代創建の古刹・影向寺(ようごうじ)や、今は村社だが昔は地域一帯の総社だった橘樹神社、近くにはオトタチバナヒメの御陵とされる富士見台古墳もある。人々が手を合わせ崇拝してきた存在が、橘樹郡という地名を生んだのは間違いない。

恩師の名前だけでなく、住む地域・訪れる地方という地理的要因も相まって、この「タチバナ」というワードは、私の人生に何か大きな意味をもたらしてくれるような、そんな気がしてならない。

トップ写真:天台宗威徳山影向寺

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